6.倒れるそして休職
6.1 倒れる
私は会社の仕事をこなす為に、『パキシル』『マイスリー等の睡眠薬』『デパス等の精神安定剤』がなければ、人格が保てない状態となっていた。
それでも、この半導体製造事業をなんとか成功させたいと、平成13年の5月〜9月頭までは、朝は4時5時に会社に出て、夜は1時、2時まで仕事を続けた。
通勤に1時間かかるため、往復2時間の通勤時間を除くと、私が自宅の布団の中に居る時間はわずか、2,3時間になっていた。
週末は家族と過ごしたいと思っていたので、金曜日の夜は、毎週徹夜で土曜日の朝10時頃家に帰っていた。
朝は一番に会社に出て、夜は一番遅く迄会社に居た。
車で1番最初にきた人が駐車場で停める場所は決まっていて、そこに駐車するとF1にならって『ポール』を取ったと仲間内では言っていた。
また、最後に帰る人は『ウィン』を取ったと呼んでいた。
私は毎日のように『ポール トゥ ウィン』であった。
工場正門の守衛駐在所には、工場のカギを朝持って行った人と、帰りに最後に持ってきた人を記録する用紙がある。
この時期のその用紙には殆ど私の名前が書いてあるのではないだろうか。
私は会社では精一杯仕事を頑張った。
家庭でも平日は無理でも週末は家族と一緒に過ごせるように、精一杯努力した。
しかし、9月3日(月)(夏季は日月が休日)の夕方に、休日出社していたKT社員から仕事の問い合わせの電話があった。
その電話が終わった後に妻が突然怒り出した。
妻は、
『貴方の上司は貴方が鬱病と知っているのでしょう!!
なのに何故貴方ばっかりに、皆が仕事のことを聞いてくるの?
だいたい、一体いつ家にいるの?
何故貴方ばっかり仕事をそんなにしなければならないの?
一体どんな会社なの!!』
と厳しい口調で問い詰めた。
私は、
『皆、一生懸命頑張っているんだよ。
KT君だって今日は休日なのに、出社しているんじゃないか。
彼が解らないことがあれば、僕に聞いてくるのは当然じゃないか。』
と答えたが、
妻は聞く耳は持たなかった。
また同じような事を同じような口調で私に言ってきた。
もう私はどうしていいか解らなくなった。
会社の為、家族の為に一生懸命、自分で出来る限界まで、薬の力を頼ってまでやっているのに、これ以上私に何をどうしろと言うのかと思った。
いたたまれなくなって、私は一人で家を出た。
駐車場に行き、車に乗って、ハンドルを握ると、涙が滝のように流れ出てきた。
『会社の人間も、家族もみんな勝手な事ばかり言う。
皆自分の事しか考えていない。
私がこんなに頑張っても誰も理解してくれない。
もう誰も信じられない。』
そういう考えが、頭の中をグルグル廻り出した。
泣きながら、私は車を近くの海浜公園迄走らせた。
車の中で私は、
『私なんていなくていいんだ。この車のまま海に突っ込もうか。』
そんな考え迄浮かんできて、更に泣きながら車を海浜公園迄走らせた。
海浜公園の駐車場になんとか辿り着いて、車を停車させると、更に涙が出てきた。
車のハンドルを両腕で握り締めて、顔をハンドルに埋めて、むせび泣いた。
そのうち、体が痙攣してきて、ハンドルを握る手に力が入って、手が離れなくなった。
心臓はバクバクと脈打ち、呼吸はハアハアと過呼吸になっていった。
自分では一体何が起こったのか解らなかった。
ただ、そんな状態になっても泣きむせていた。
世の中の何も信じられずに、震えながら泣いていた。
ただ、そのうちに、このまま気が狂って海に飛び込んで死んでしまうのではないかと段々と怖くなってきた。
とにかく、家に帰ろう。
まだ、死ぬ訳にはいかない。
そう思った。
帰って安定剤を飲まないと気が狂うと思った。
ただ、既にその時は私の精神はガラガラと音を点てて、崩れていっていた。
30分もしただろうか、取り敢えず過呼吸と筋肉の痙攣だけは収まった。
今なら運転できるかもしれない。
そう思った私は来た道をフラフラしながら車で帰って行った。
家に帰ると、子供はもう寝ていた。
妻が、
『大丈夫?』
と聞いたが、私は虚ろな目でただ首を横に振った。
そして、デパスのシートを取り出すと、ブチブチと何錠かわからずに、取り出して口に放り込んだ。
それでも気分は変わるものではない。
妻が心配そうに、
『風呂でも入ってきたら?』
と言うので、私は虚ろな目のまま、自分でも訳も解らずに風呂に入った。
一人で風呂に入っていると、さっきまで頭の中をよぎっていた
『もう誰も信じられないと言う想い』
がまたグルグルと頭の中を駆け回りだした。
そして、湯船に仰向けに入っていた体が、また痙攣をし始めた。
そして、過呼吸になり、大泣きしだし、湯船の横についている手摺に両手でしがみ付いて、溺れまいとしながら、体を丸めて震えていた。
『もう誰も信じられない』
そう想いながら。
私は誰かに助けて欲しくて、風呂のブザーを押した。
誰も信じられないのだが、誰かに助けて欲しかった。
暫くすると、妻がやってきた。
そして、風呂の中の私を見て驚き、
『いったいどうしたの!!』
と言って私に問い掛けるのだが、私は妻を見ても怯えて、妻を睨みつけていた。
その時は妻でさえ、自分を否定する憎悪の対象だった。
妻は、
『もう二度とあんな事は言わないから!!ねえ〜!!』
と私の手を握ろうとするのだが、私はその手を振り払っていた。
そして、手摺にしがみ付いて、ただ震えて、泣きじゃくって体を痙攣させていた。
妻も半狂乱になっていた。
そんな状態が30分も続いただろうか、体の痙攣が段々と収まってきて、過呼吸も止まり、動けるようになった。
私は、
『子供は寝ているよね。』
と言った。
子供に、さっきのような自分の姿は見せたくなかった。
その日は睡眠薬と、安定剤を多目に飲んで、何とか寝ることができた。
しかし、私の心はガラスのビンが割れたように、グチャグチャな状態だった。
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6.2 休職
翌日は通常出社する時間帯に起きて、会社に出社した。
そして、SY主任とMG主席に声を掛けて、会議室に一緒に行った。
私は一言、
『壊れました。』
と言った。
その後、昨日起こったことを概略両名に伝えた。
私はたまたま翌日の水曜日に会社のメンタルヘルスの受診を予約していたので、その事を告げて、メンタルヘルスと今後の対応を協議しますと答えた。
両名もそれに同意した。
というかどう対応していいか解らなかったのではないかと思った。
その日は、その話だけで、私は体調不良ということで机の上のざっとした整理だけして、定時で家に帰った。
翌日会社のメンタルヘルスに妻と一緒に朝から行った。
そしてそれまでのこと、苛められて鬱病になって、その後、過労で更に鬱病が酷くなって、発作まで出てきだした事を告げた。
メンタルヘルスの臨床心理士のY先生は、
『そりゃ辛かったね。
とにかく今の君の状態で働き続けると本当に自殺しかねないから、明日から会社を休職しなさい。
上司には私から言っておくからね。
そして、今から精神科に行って来て、診断書を貰って来て下さい。
精神科はこちらで紹介します。
診断書をもらったら、休職の手続きは私から上司に言ってするから、君は今日からゆっくり静養をとりなさい。
鬱病は必ず治る病気だから、精神科のお医者様の言う事を聞いて、しっかり薬を飲んで、家でゆっくり静養をすれば必ず治るから心配しないでね。
奥さんも大変だったね。
辛かったろう。
これからは、ご主人は今まで家に居られなかった分、ずっと居るから今まで出来なかったことをやるといいよ。
うん。』
と言って、私達に精神科を紹介してくれた。
私達は、その足で精神科に向かった。
精神科では、精神状態のチェックシートをまず夫婦でつけて下さいと言われた。
チェックシートをつけていくと、全てがネガティブな回答になっていた。
チェックシートをつけ終わった後、そのチェックシートを見ながら、精神科の先生が私達に色々と質問をしてきた。
そして、最後にこう言った。
『あなたの生命エネルギーを正常な場合を10とすると、今は1か2しかありません。
今は非常に危険な状態です。
今日からお薬を出しますから、お薬は奥さん、あなたがしっかり管理してください。
ご主人が一気に飲むと命にかかわりますからね。
それから、お薬を飲んで、安静にゆっくりとしていれば数ヶ月で働ける状態に回復しますから、薬の服薬と安静をご主人にさせてくださいね。
この病気は怠け病ではなくて、何も出来ない病気なのですから、ご主人をとにかくゴロゴロさせてくださいね。』
それから、お医者様に取り合えず1ヶ月間の休養が必要との診断書を書いて貰って、薬局に2週間分の薬を貰った。
そして、その足で再度 会社のメンタルヘルスに行った。
そして診断書を臨床心理士のY先生に渡した。
先生は、
『あとは会社のことは何も心配せずに、とにかくゆっくりして体力の回復を図ってくださいね。
必ず良くなりますからね。
では2週間後にまた奥さんと一緒にここに来て貰えますか。
病状等を定期的にカウンセリングして把握していきますからね。
では、お大事にね。』
と言った。
その足で私達は自宅に戻った。
私はその日からゴロゴロする生活を送ることになった。
休職してからの1ヶ月というものは、とにかく何もできなかった。
睡眠障害、倦怠感、不安感、悲壮感、会社への罪悪感、家族への罪悪感、将来への不安、希死念慮等全ての症状があった。
ただ、ゴロゴロと休養する事と、投薬によって徐々にではあるが症状が軽くなっていった。
休職した最初の1ヶ月間は奥さんも私に対して、とても気を使ってくれた。
ある意味どう対応していいか解らずに、お医者さまや臨床心理士のY先生のアドバイス通りに、私に接しようと努力していたようだ。
それまでの彼女は、どちらかというと気が短く、嫌な事があれば直ぐに不機嫌になって私に当たっていたが、私が休職してからは、そのようなことは全くなくなり、とにかく私の自由にさせてくれた。
また、お薬の管理もしっかりしてくれたし、私の体力が消耗しそうなことは全て彼女がやってくれた。
病院やメンタルヘルスへ通院時の車の運転も彼女がしてくれた。
とにかく気を使って、私の体力の負担にならないようにしてくれた。
私はとにかく、1ヶ月間はゴロゴロして寝ているか、寝ながら本を読んでいるかのどっちかの状態であった。
更に、1ヶ月目の終り頃には体力が低下していたのか、40℃の高熱が4日間続き、解熱剤も効かないので、1週間入院することになった。
どうせ、ゴロゴロしなければならないのだから、それが家だろうが、病院だろうが構わなかった。
却って妻は私に要らぬ気を使わなくていいから良かっただろうと思う。
とにかく妻は結婚して今までこんなに長く私と一緒にいたことがなかったので、本当に戸惑っていたようだった。
更にその亭主が鬱病患者となれば、なお更に戸惑うだろう。
ただ、出来るだけ普通に私に接してくれたのが、有り難かった。
私は最初の1ヶ月間の間は、会社のことが気になって早く仕事に復帰したい、早く復職しないと生活が出来なくなる、と焦りまくっていた。
そんなある日、日を分けてではあるが、最初に係長が、暫くして課長が別々の日に我が家にやって来た。
私は彼らに私の病気がどんな物であるか説明しようとして、うつ病の本やパンフレットを持ってきて、一生懸命に説明した。
まず、最初に来た係長に、私は心の中のわだかまりを少し興奮しながら吐き出した。
『この病気は必ず治ると言われています。
1,2ヶ月休養をすれば治ると思いますから有休休暇だけを消化すれば何とか復職できると思います。
でも、無理をすればまた直ぐに倒れます。
職場環境が倒れる前の状態のままだと、復職してもまた直ぐに倒れるので職場の環境を良くして欲しいです。
設計と現場が対立していては、工場の立上げは上手く行くはずがないではないですか。
私がいなくても、仕事はなんとかやっていけているのですか?
私がいなくなって、却って周りの人間の仕事の負荷が上がって、今度は廻りの人間が倒れるのではないかと心配です。
もっと人は増やせないのですか?
もっと労働基準法を守った環境で仕事はできないのですか。
私も含めてでしたが、サービス残業があまりにも多すぎました。
組合の管理も全然なされていませんでした。
どうにかならなかったのですか?』
思っていることを妻の前で係長に矢継ぎ早に言った。
係長は、
『奥さん、この度はこのようなことになってすみませんでした。』
とまずは妻に詫びた。
そして私の方を向いて、
『私も今のままの環境ではいけないと思っている。
誰が倒れてもおかしくない状況だった。
それがたまたまもいちゃんだっただけで、別の人が倒れていたかもしれない。
先日、メンタルヘルスの臨床心理士のY先生が、半導体製造事業室に来て職場環境をじっと見ていて、
『ここの職場は雰囲気が悪すぎるね。』
と言っていた。
私も現場と設計との関係はおかしいと思っているから、課長に相談して何とかしようと思っている。
もいちゃんも会社のことは気になるだろうが、今はまず自分の体を直すことを第一に考えて、ゆっくり休んでいた方がいいよ。
会社の方は、なんとかなるから気にしなくてゆっくり療養してください。
奥さんもそのつもりで、ご主人の看病をゆっくりとしてあげてください。
お願いします。』
と言って帰っていった。
係長も中途半端な権限しかないだけに、あのような環境において、あんなに部下に仕事をさせなければならなかったのはきっと辛かったと思う。
その部下が鬱病で倒れたのだから、家族に会わせる顔は更になかったであろう。
それでも我が家に来てくれて、私は嬉かった。
また暫くして、今度は課長が庶務の女性を連れてお見舞いにやって来た。
私は一人で来ずに、庶務の女性を連れてきた課長はずるいと思った。
なぜ、一人で我々家族の前に来られないのかと思った。
課長はニコニコと笑ってばかりいて、妻にすまないとは一言も言わなかった。
その代わりに会社の新しい体制について話し出した。
課長が言うには、
『現場で全体を指揮していたA主任は安全担当と薄膜製造装置組立から外すことにした。
代わりに専属の安全担当の人間を工作課から連れてくる。
また、検証機での試験の安全管理もA主任がしていたが、それも完全に止めて、研究所の実験課の人間を数名連れてきて、試験の実作業と安全管理を任せることにした。
今までの検証機試験にかかわって来た研究所の人間は、実験をするのではなくてデータ解析を主にやって、製膜試験の成果を早く出せる体制に切り替えることにした。
もう、検証機の試験に我々設計が口を出す必要はない体制にしている。
また、薄膜製造装置の設計チームも人員を1名増やす事にした。
FJ君がやっている制御関係の仕事の山が高いので、その補佐をする為に、FJ君の大学の後輩でもあるSG君を動力課から加勢で半導体製造に来てもらう事にした。
その他に、工場全体の配管関係を見てもらうUさんと、工場制御全般を見てもらうT主席にも加勢にきてもらうことにした。』
また、次のようにも言った。
『メンタルヘルスのY先生がこの前来られて、半導体製造事業室全員のメンタルチェックをしていかれた。
やはり数名は危ない状態にあると言われた。
組合からも半導体製造事業室はどういう業務管理をしているのかと、クレームがあった。
これからは、サービス残業はなしにして、実作業分だけの残業は付けて、山が高いならば人を投入して、各人の負荷を低減することにした。
人事からも同じようにクレームが来ているので、前みたいな無茶なことはもうないから、安心して療養してほしい。』
また、私に対して、復職した場合の業務の希望があるかと聞いてきたので、私は、
『私は薄膜製造装置を完成させて、半導体製造事業を立ち上げるのが夢で頑張ってきました。
ただ、ISO14001や国プロの予算管理や、現場との調整ばかりに時間がとられて、肝心の薄膜製造装置の設計業務があまりできませんでした。
それが、心残りで残念です。
仮に復職しても以前のように仕事は出来ないでしょうから、復職できたら半導体膜製造装置の設計だけをさせて貰えないでしょうか。』
と言った。
課長は、
『解った。
君が戻ってきたらそのような体制で仕事が出来る環境を作っておくし、それを作っておくのが僕の仕事だから、その件は私に任せて欲しい。』
と言った。
その後、私が復職を考え出した頃もう1回課長はまた庶務の女性を連れて我が家にやってきたが、私が依頼したような体制を作り上げてきていて、私にその体制表を見せて、
『もいちゃんが言っていたことは大体体制に織り込んで組織を作り直した。
君にはやってもらわなければならないことがあるのだから安心して復職を考えてくれ。
ただ、無理をせずに休めるだけはゆっくり休んでくれ。
それが一番だとメンタルヘルスのY先生も言っているからね。』
と言った。
何度も書くようだが、最初の休職1ヶ月間はとにかく、体も精神もボロボロで辛かった。
私もだが、妻も辛かったと思う。
しかし、療養の甲斐があってか、何かやろうと言う気が段々と起こってきた。
それに従って、妻も段々割り切りができるようになってきて、私が夫として、父親として、家族とずっと一緒に居る生活が、逆に楽しくなってきたようだ。
私も病状がだいぶ軽快してきたので、家の事を少しずつ手伝うようになってきた。
風呂の掃除をして、子供を風呂に入れたり、家の物置の整理をしたり、夏冬服の入れ替えをきちんと収納BOX毎に整理したり、すこしは家にいても役立つ人間になってきた。
また、この頃から、やっと自分の子供がどちらも『可愛い』と思えるようになってきた。
以前は、子供には苛々するばかりで、正直全く可愛くなかった。
私の存在を邪魔するものとしか、認識できなかった。
子供さえいなければ・・・できるのにとそればかり考えて、子供の顔を見ても、愛情が湧かなかった。
それが、可愛くなってきたのである。
子供はやはりどんなに手が掛かっても『可愛い』ものである。
自分の遺伝子を受け継いでいるからなおさらそうであるはずである。
その当たり前の感情が今までなかったのだ。
やはり、私は異常だった。
それが、やっと可愛く感じられるようになってきた。
嬉しかった。
また、以前から欲しかったパソコンを購入することも考え出した。
『こんなに時間がある時にしかゆっくり取り組めないしな。』
と自分に言い聞かせて、妻の了解を得て購入することとした。
会社では業務でパソコンを使ってはいたが、それはあくまでも仕事だったので、趣味で、メールやインターネットをしたいと思った。
それで、10月に入ったある日、パソコンデスクを買った。
それから、その机に設置できるパソコンの大きさを計測して、その机に入るパソコンをショップに捜しにいった。
色々物色していると、SOTECの液晶15インチモニター・ワター型のパソコンがピッタリと机に入る寸法だった。
本当は、ノートでもいいかと思ったが、同じ性能では10万円近く価格が違うので、持ち歩く訳でもないしと思い、このSOTECの型に決めた。
パソコンを家で立ち上げてから、私は初めて自分からインターネットやメールをしだした。
インターネットではやはり同じ病気である『鬱病』を抱えている方が運営しているサイトを捜しては中を覗いて(ROM)しては、この病気で悩んでいる人は自分だけではなくこんなに多いんだ。
自分はまだ、軽い方だとおもった。
そして、暫く経つと、特定のHPの掲示板に書き込みをして、自分の思いを書いたり、相手の考えに対するレスを付けたりしてだんだん常連のようになって行った。
そのような、特定のHPが数件できて、毎日そこを覗くのが日課になっていった。
また、パソコンで家計簿を付けたり、やりたい事をリストアップして、せっかくの休職中であるから、それらを一つ一つ消しこんでいったりもした。
パソコンを始めたのは休職して2ヶ月目の最初の頃だったが、その頃からはパソコン以外でも散歩をしてみたり、家の中を整理してみたり、なにかしら体を動かすようになってきた。
体を動かすと疲れはするが、気分は良くなる。
ただ、疲れるとまた鬱の症状が悪化するので、疲れと爽快感の兼ね合いを見ながら、できることから始めて行った。
水泳をしに近くの市民プールに行ったりもした。
このころ、釣りも始めてみた。
マンションの前が海なので、そこの防波堤から釣りをする。
釣れなくても、海を見たり、空を見たりするだけで気分がよくなった。
夜になって夜釣りしている時は、電飾ウキをボーっと眺めていると意識が深い所まで落ちていって安定するのが感じられるし、空を見上げれば月があり、それを見ているだけでも心が落ち着いた。
その頃から、睡眠薬無しでもぐっすり眠れるようになってきた。
また、昼間も昼寝はしたりするが、1ヶ月目程、ゴロゴロする訳でもなく、したいことをする生活が続いた。
ただ、どうしても復職を早くしたい。
欠勤が出ると成績係数が下がって、給料が下がり生活ができなくなるという、『貧困妄想』だけは消し去れなかった。
ただ、頭の中では、
『生活は欠勤が出ても健康保険組合からの傷病手当を貰えば最長3年間は基本給の70%はでるし、ボーナスだって完全欠勤でも50%は出る。
贅沢さえしなければ、生活は出来るのだ。』
そう自分に言い聞かせて『貧困妄想』を振り払おうと努力した。
そんな2ヶ月目の生活が終り、3ヶ月目の中盤に差し掛かるころ、復職の話が出てきた。
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