1.プロローグ

 汐の香りを運んで吹いてくる夏の暖かい海風が茂春の体を通り過ぎていく。
強い日差しに照らされた芝生に投げ出された茂春の体には、海からのそよ風が心地よく感じられる。
この海沿いの海浜公園は週末に子供を連れてくるには都合がいい。
茂春は芝生の上に大の字になって寝転がっている。
寝ている茂春の前の芝生に設置してある幼児用の遊具施設では小学生の長男涼太が無邪気に遊んでいる。
幼稚園の次男昭一は、茂春の横に座っている妻宏子の前を走り回りながら嬉しそうに笑っている。
二人の子供を眺めている宏子も幸せそうだ。
涼太は我が天下とばかりに遊具施設の上に登って、自分の城を占領したかのように得意げになってはしゃいでいる。
夏の強い日差しの中、茂春はその光景を見ながら宏子の横で芝生の上に横になっている。茂春はふと誰にも聞こえない声で呟いた。
『これが幸せというものだろうか。
 傍らからこの光景を見ている他人の目に我々はどう映るのだろうか。
 幸せな週末を過ごす家族連れといった感じに見えるのだろうな。』
茂春は頭の中で漠然とこれで良かったのだよなと自分自身に言い聞かせていた。
茂春は4年半前に鬱病を発症していた。
それからの4年間半、サラリーマンの茂春はこの鬱病という病気と格闘していた。
そしてその格闘はまだ終っていない。
 宏子は茂春を支えながら4年間茂春と共に彼の闘病生活を過ごしてきた。
ただ、宏子は気丈で子供好きな女である為か、その困難な状況を表情には出さずにニコニコと子供達を眺めているだけであった。
茂春はそんな宏子と眼前で楽しそうに遊ぶ子供達を見ながら、なぜこうなったのかと自問していた。
『まさか俺が鬱病になるなんてな。原因は何だったのだろうか?』
でもどこにあったのか茂春には解らなかったし、解ったところでどうにかなるものでもないことも解っていた。
答えを探すつもりはなかったが、自然と茂春の思考は海風と共にあの日のことに流れて行った。
 3年前のあの日だ。
あの日、茂春は仕事が早く終り、夕方に帰宅していた。
そこへ会社から茂春の携帯に電話があった。
それは茂春の後輩の大田からであった。
「水野さん!装置がトラぶりました。」
大田の声は焦っていた。
茂春達はその時半導体工場を新規に建設している最中であった。
立上げ最中の装置の真空ポンプが動作不良を起こして装置が停止していたのだ。
その装置の真空ポンプは茂春の担当だった。
茂春は溜息をついて、大田に指示をだした。
「ポンプの冷却水量をチェックして。
冷却水量がギリギリだったからな。
冷却水量低のアラームがでたんじゃないかな。
そこを確認してくれ。
問題がそこだったら、今の運転状態では問題ないから、冷却水のインターロックを制御の藤谷君に頼んで解除してもらってくれ。
冷却水量は後日、元圧を上げるか何かの対策をするから。
急場はそれで凌いでくれ。」
大田は元気な声で答えた。
「水野さん、解りました。チェックしてみます。
自宅まで電話かけてどうもすみませんでした。」
「いや、いいよ。
また何か問題があったら電話をしてくれ。」
茂春が電話を切ると妻の宏子の大きい声がマンションのリビングに響き渡った。
「あなた!
何であなたばっかりに仕事の電話があるの!?」
宏子は抗うつ薬、睡眠薬、抗不安薬を飲んで連日深夜迄残業している茂春になんら配慮してくれない会社と自分の健康を省みない茂春に腹を立てていた。
そんな宏子の声に少しびっくりして茂春は答えた。
「太田君だって遅くまで仕事をしているんだ。
がんばっているんだよ。
解らないことがあったら担当の僕に電話をかけてきて当然じゃないか?
みんな一生懸命に仕事をしているんだよ。」
茂春は当惑しながら宏子に言った。
しかし宏子はそんな茂春にかまわずに一方的にまくし立てた。
「あなたがうつ病なのは会社の人はみんな知っているんでしょ!
あなたは病気なのよ。
あなたちっとも家にいないじゃないの?!
それなのに毎晩深夜まで残業したり徹夜したりしているのに、家にまで仕事の電話がかかってくるなんて!
一体どういう会社のなの?
こんなんじゃいつまで経っても病気が良くならないじゃないの!」
宏子にしてみれば茂春の体を心配しての発言だったのだろうが、茂春は当惑した。
どうすればいいのか解らなかった。
「俺は確かに毎晩遅く迄仕事をしている。
それでも土日は休日出勤しないで家族と過ごせる時間がもてるように頑張っているんだ。
その為に金曜の夜は徹夜することもザラだ。
家族の為に一生懸命働いているんだ。
その俺の何がいけないんんだ?
会社でも上司からの無理な注文も何とかこなそうと一生懸命に頑張ってる。
それでも上司は仕事を押し込んでくるんだよ。
言いたくもない苦言をメーカに言って、社内の関係先には頭を下げて仕事をしているんだ。
家でも会社でも精一杯頑張っているんだ。
一体これ以上俺にどうしろって言うんだ。」
茂春は言葉にできない叫びを叫んでいた。
だが、言葉にできずただ哀しい目で宏子の方を見つめるだけだった。
目の前ではまだ宏子が大声で怒鳴っている。
茂春はもうどうしていいか解らなかった。
もうそれ以上宏子に言葉を返す気力もなかった。
ただ、虚ろな目で虚空を見ながら、宏子に背を向けて力なくリビングを後にするしかなかった。
マンションの駐車場まで歩いていって車にのった茂春は溜息をついた。
『どうしてみんな私のことを解ってくれないのだろう?
どうしてみんな自分勝手なことをいうんだろう?
どうして。
どうして。』
茂春は車のエンジンをかけて車を発進させた。
『どこへ行こう?
海がみたい。
誰もいない所へ行きたい。
一人になりたい。』
そう茂春は思った。
車を運転しながら、ふいに涙が頬を伝った。
いったん流れ出した涙は堰を切ったように、どっと流れだした。
『畜生!
皆自分勝手だ!
会社でも家庭でも俺は一生懸命がんばったよ。
これ以上どうやって頑張れっていうんだ!
畜生!
誰も俺の気持ちなんて解らないんだ!
畜生!』
ハンドルを持つ手を震えさせながら茂春は嗚咽した。
涙で前が見えなくなっていた。
それでも何とか車で10分程度の距離にある海浜公園の駐車場まで運転していった。
駐車場につき、エンジンを切り、サイドブレーキを引き、また泣いた。
もう全てがどうでも良かった。
全てを終わりにしたかった。
涙がとめどなく流れた。
ハンドルを握る手が震えた。
『畜生!』
茂春は大声で叫んだ。
すると次第に息が荒くなってきた。
おかしいと思ったがどうする事も出来ない。
はぁはぁと短い間隔で息をする。
ついにははぁはぁと短く荒い呼吸が茂春の意思とは関係なく続きだした。
ハンドルを握る手の震えも止まらない。
それどころが、更に強くハンドルを握る。
腕が小刻みに振るえ、手が自分の意思とは関係なく考えられないような力でハンドルを握り締める。
振るえではなく痙攣になっていた。
『痙攣が止まらない!』
茂春は何がどうなっているか解らなかった。
はぁはぁと加呼吸になり痙攣しだした体をどうすることも出来ない。
『死ぬ!』
茂春は思った。
『俺の体はいったいどうなったんだ?
心が壊れて行く。
体も壊れて行く。
このまま自分の意思と関係なく叫びながら海に飛び込んでしまいそうだ!
助けてくれ!
死にたくない!
死にたくないよぉ!』
茂春は体を小さく丸めて、体を硬直させ、震え、泣いていた。
『落ち着け!
落ち着くんだ!
まだ死ぬ訳にはいかない!
落ち着くんだ!』
茂春は心の中で何度も叫びながらなんとかこの状態から脱そうと努力した。
10分もしただろうか。
痙攣が収まって、ハンドルを握る手の力が緩んできだ。
呼吸も段々と落ち着いてきた。
『良かった。
死ななかった。』
茂春はほっとした。
まだしゃくりあげて泣いてはいるが、なんとか運転できる。
『帰らなくては!
帰らなくては!』
茂春は朦朧とした意識の中で、エンジンキーを回し、車を発進させた。
何とかマンションの敷地内にたどり着いて車をマンションの駐車場に停めて、車から降りた。
『何とか歩ける。』
涙も止まっていた。
ただ茂春の心には何もない状態だった。
ただ存在する。
それがその時の茂春だった。

 茂春はエレベータで8階まで上がって、自分の家の中に入った。
そこには宏子が心配そうにして待っていた。
宏子はさっきは言い過ぎたと思っていたのだ。
『あなた、大丈夫?』
うつろな泣き腫らした目で茂春は宏子を見ながら、ただ首を横に振った。
宏子は内心驚いていた。
『いつもの茂春とは違う。
でも慌ててはいけない。
平静を装わなくては。』
宏子は茂春に言った。
『お風呂にでも入ってきたら?』
茂春は頷きもせず、くるりと宏子に背を向けてバスルームに歩いて行った。
茂春は何が起こったんだろうと思っていた。
解らなかった。
ただ今は風呂に入ればいいんだ。
それだけは解った。
茂春は力なく服を脱ぎ、裸になり、湯船に浸かった。
泣き腫らした顔を両手ですくったお湯で拭った。
ところが、ふふふと茂春は笑い出だしていた。
全てが可笑しかった。
『可笑しいよ。
会社も家庭も可笑しいよ。
可笑しいよ。』
笑いながら、唇が震えてきた。
『可笑しいんだよ!
どいつもこいつも!
誰も信じられないんだよ!』
そう思った瞬間に、また涙が堰を切ったように流れ出してきた。
それと同時に茂春の体が痙攣しだした。
湯船の中で痙攣する体は茂春を湯の中に引きずり込もうとした。
茂春は必死で抵抗した。
『溺れる。
引き込まれる。』
茂春は湯船の横に設置してある手摺に必死でしがみついていた。
手摺を握る両手が痙攣で震える。
『うぅ〜!!
うわぁ〜!!
うぅ〜!!』
茂春は心の中で大声で泣き叫んだが、実際には声にならない声でうめくだけだった。
『溺れる!
死ぬ!
誰か助けてくれ!』
茂春は痙攣してがっちりと固まって動かない手をなんとか片手だけ手摺から離して、手摺の側に設置してあるブザーを押した。
『ピピピピー』
リビングで茂春を心配しながらテレビをぼーっと見ていた宏子の耳にブザーの音がした。
バスルームからリビングに知らせる為のブザーだ。
宏子は風呂の顔を方にくるっと振り向けた。
『もうあがるのかしら?』
宏子はそう思ってバスルームの方へ歩いて行った。
するとバスルームの中から茂春のうめき声が聞こえてきた。
宏子ははっとして、バスルームのドアを開けて見ると、湯船の中で茂春が苦しそうにうめいている。
『どうしたの!!』
宏子は急いで茂春の側に駆け寄った。
『うう〜!!
うう〜!!』
湯船の中で茂春が苦しそうにもがきながら震えている。
『あなた!
どうしたの!
もうあんな事は言わないから落ち着いて〜!
お願いだから!』
宏子は懇願する声で茂春の震える手を握り締めてそう叫んだ。
宏子のその声を聞いて茂春は思った。
『この人も信じられない!
この人は私を助けてくれない!』
茂春の宏子を見る目は、猛獣に見つめられているように恐怖に怯えていた。
『うう〜!!
うう〜!!』
茂春はそのまま泣き叫んだ。
そんな状態が10分も続いただろうか、段々と茂春の痙攣が収まってきた。
痙攣が収まるにつれて宏子の手を握る茂春の手の力が緩んできた。
『俺は何をしているだ?
何に怯えているんだ?』
茂春の心を先ほどまで支配していた恐怖心が段々と小さくなっていった。
『あなた!
大丈夫?』
力の緩んだ茂春の手を宏子は握り返して、茂春の目を見ながら聞いた。
さっきまでの恐怖に怯えた茂春の目ではなくなっていた。
茂春の顔はただの虚ろな表情に戻って行った。
茂春は湯船からゆっくりと体を起こすと宏子に行った。
『もう大丈夫。
子供達は?』
茂春はさっきまでの自分の姿を子供達に見られたのではないかと心配した。
『もう寝ているわよ。
あなた本当に大丈夫?』
『ああ、もう大丈夫だ。
すまない心配かけて。』
茂春にはもう恐怖心はなかった。
さっきまで支配していた恐怖心の代わりに空虚な心だけが残った。
茂春は風呂から上がって、体をふき、服を着た。
『あなた本当に大丈夫?』
宏子が茂春にまた聞いていた。
『うん大丈夫だけど。』
茂春は言葉を詰まらせた。
『もう俺は壊れたんだ。』
茂春はそう思った。
そのまま何も言わずに寝室に行きベッドに入った。
『明日会社に行って、上司に今日のことを話して今後の事を相談しよう。
もう俺は駄目だ。』
茂春はそう思ったのだった。