| 2.うつ病発症 プルルループルルルー 『はい、第二開発課です。』 神尾の不機嫌そうなトーンの低い声が受話器の向こうに聞こえた。 『神尾さんですか? 水野です。』 茂春のちょっと上ずった声が受話器に響いた。 『先日依頼された見積の件ですが、メーカが今日中には見積を出せないと言ってきています。 どうしましょうか?』 茂春の声が終るか終らないかのうちに神尾の罵声が受話器の向こうで響いた。 『メーカが見積もりを出せないのは、メーカが悪いんじゃない! 見積を出させる事が出来ない君が悪いんだよ!』 そう言うなり、神尾は受話器を電話機に叩き付けた。 プー、プー。 『まただ。』 茂春は頭を抱えた。 『また神尾さんが切れたよ。 依頼された見積はあと1週間後に入手しても業務には全然支障はないのに。 なんであんなにカリカリするんだ。 やっていられないよ。』 神尾と茂春は今では違う業務をしているが同じ課である。 そして以前は同じ装置の担当として勤務していた。 その装置関連の残作業業務の為に課は同じだが、二人は業務場所が違うので1日のうち2時間程度神尾と茂春は電話連絡をとったりして同じ業務をしていた。 神尾は茂春よりも2歳年上の先輩であり、残作業業務のチーフをしていた。 神尾はチーフとしてやっていくにはまだ歳が若かった。 業務のすべてに於いて余裕がなかった。 神尾は茂春達に業務の指示を出して、業務全体を見ていたが業務のちょっとした事ですぐに癇癪を起こしていた。 書類のちょっとした誤字、神尾の指示した納期に対するちょっとした遅れ、些細なちょっとした事で癇癪を起こしていた。 この為、茂春達は神尾と仕事をするのが苦痛でしょうがなかった。 また怒られはしないだろうかとヒヤヒヤしながら仕事をしていた。 そんなことだから、書類や仕事の段取り等にミスがないかとチェックに時間ばかりかかり、他の業務に支障が出る始末であった。 そんなある日、課長の山川から茂春は呼ばれた。 山川は、 『君と神尾君が以前作った装置の試験装置があるよね。 あれを使って実験をしたいと考えているんだ。 その実験の主担当を君にお願いしたい。 神尾君に相談して装置使用の許可を貰ってくれ。 試験はもう来週から始めたいので急いでくれよ。』 と茂春に告げた。 茂春は困惑した。 なぜなら、神尾は自分の残作業業務で精神的に手一杯なのに、他の業務になる茂春が依頼された試験の為に試験装置を貸すとは思えなかったからだ。 茂春は神尾に恐る恐るそのことを告げた。 すると神尾は、 『そっちの業務をなんで俺の試験装置でするんだ! 一切迷惑は掛けるなよ。 ちょっとした事でも許さないからな!』 茂春は思った。 『やはり自分の担当以外の業務に関連する作業には関りたくないんだな。 困ったな。』 そうこうしている内に、試験を開始する日程が迫ってきた。 茂春が試験装置で改造項目の洗い出し作業を業者としていた時だった。 神尾から電話がかかってきた。 『業者と作業をするなんて聞いていないぞ! 勝手なことをするな!』 茂春は萎縮してしまった。 『また怒られたよ。 だってこの前試験はするって報告したじゃないか。 いちいちどんな作業をするかまで報告しないといけないのかよ。 報告するのはいいけど、すぐに機嫌が悪くなって癇癪を起こして電話を切るじゃないか。 やってられないよ。 一体如何したらいいんだ。』 茂春は疲れ切ってデスクに戻ってパソコンの画面を開くとメールが入っていた。 メールを開くと神尾から山川課長宛てのメールの写しだった。 その内容は、 『水野社員は許可も得ずに勝手に人の装置で工事をしている。 一体どういった教育をしているんだ!』 自分の課長に書く文面ではなかった。 そのメールの中で茂春をこき下ろしていた。 茂春は課長に、 『このようなメールが来ました。 試験をすることは以前言っていたので、試験関連の作業を開始したのですが、その作業をすることを報告していなかったと怒っているようです。 本来ならば、その装置を管轄する山川課長の許可を貰えば神尾社員の許可なんていらない筈なのに、なんで神尾社員にこんなに気を使わないといけないんですか?』 と相談した。 山川は、 『まぁ、君の神尾君への相談が悪かったからじゃないかな。 まぁ上手くやってくれよ。』 と笑って御茶を濁していた。 茂春はなんで課長はこんなに神尾のことを気にして腫れ物にさわるような対応をするか解らないではなかった。 神尾は気に入らないことがあると、ことある毎に課長に食って掛かっていたからだ。 ただ、どうしても道理に合わないことでも食って掛かるので山川も辟易していたようだ。 そのしわ寄せが茂春にかぶざっているような感じであった。 茂春は、その試験装置関連の業務だけでなく、次世代型装置の開発も担当していた。 その次世代型装置も新たに試験装置を開発する予定になっており、その業務も切羽詰っていた。 開発を目論んでいる新型装置は単に今までの技術の延長で作れる代物ではなく、新しい技術をふんだんに盛り込まないと開発できないものであった。 その為、業務は多忙を極めていた。 茂春の直属の上司の笹山主任は業務に厳しい人間であった。 この為、茂春は笹山からの業務要求をこなす為、深夜迄残業をする毎日であった。 朝は8時始業の為、通勤1時間かかる自宅を朝の7時には出る必要があった。 起床するのは、6時である。 8時から業務を開始して、1日に3件は会議があった。 その会議の中で、新型の装置をどういった形で設計して行くか1つ1つチェックや議論をしていった。 1つの会議に2時間程度かかるため、定時間内は会議だけで終ってしまっていた。 定時後は会社で夕食を食べて、それから当日の会議の議事録を書いたり、明日の会議の資料を作る必要があった。 資料といっても技術資料であるから、計算したり、検討をしたりで頭を使う作業であった。 翌日にまた3件程度会議がある訳であるから、作業は深夜24時、1時までに及んでいた。 それから自宅に帰って寝るのは2時位になっていた。 睡眠時間は平日で4時間程度だった。 そのようなハードな生活は数ヶ月で終ればいいが、1年以上続いていた。 そんな忙しい時に神尾から電話がかかってくる訳である。 神尾は自分の業務を最優先させないと怒り出す。 この為茂春は神尾から電話があると戦々恐々としていた。 自分の業務が手一杯の状態の所に神尾の以前作った装置の仕事が強引に割り込んでくる訳である。 もうパニックになりそうであった。 また、神尾の仕事はちょっとのミスも許されない。 ミスをしようものなら馬鹿だ、腑抜けだと電話先で罵倒されるのである。 神尾の電話がある度に茂春の神経は擦り減って行った。 笹山主任からの業務依頼も厳しいフォローがある。 神尾社員からの業務依頼も厳しいフォローがある。 どっちをどう優先していいか解らなかった。 どちらも優先しないと業務の進捗はないのである。 どちらも納期が差し迫っているのである。 茂春はなにから手をつけて良いか解らなくなってきていた。 頭が回らないのである。 それもで業務は怒涛のように押し寄せてくる。 もう処理しきれなかった。 限界を感じていた。 深夜まで仕事をしても仕事ははけない。 仕事には充実感はない。 あるのは焦燥感だけである。 明日もまた今日と同じ日の繰返しである。 『自分はいったいどうしたらいいのか? 自分のしたかった仕事は本当にこれなのか? 自分の人生はこれでいいのか?』 茂春はそんなことを自問自答するようになっていった。 その時茂春は既に結婚して長男も誕生していた。 仕事を辞める訳にもいかない。 一体どうすればいいのだろう? 解らなかった。 深夜帰宅する時、もう道路は空いて通る車も少ない。 その為、時速100km/hで帰ることもザラだった。 ちょっとでも早く帰って寝たい。 そして全ての事を明日の朝まで忘れたい。 そう思った。 高速で飛ばす車を運転しながら、茂春は何度となく、 『このまま電柱に激突して全てを終らせたい。』 そう思うことがしばしばであった。 それでも家族の事を考えるとそれも出来なかった。 自分は与えられた仕事も満足にこなすこともできない。 駄目な人間だ。 そう、自分なんんてこの先この会社の残ってもやっていける訳がない。 そう思っていた。 自宅に帰ると、もう既に宏子と子供は寝ていた。 その横で、茂春は倒れ込むように寝る毎日だった。 それでも熟睡できるならばいいが、毎晩仕事の夢にうなされていた。 横で寝ている宏子から、 『昨日も仕事の寝言を言っていたわよ。 大丈夫。』 と良く言われていた。 『ああ、大丈夫だ。 もう会社にいかないと間に合わない。 朝食はいいから。 着替えてすぐに出かけるよ。』 そういって毎朝、出勤する茂春であった。 怒涛のような1週間が過ぎると、やっと土日の休日がくる。 だが、茂春は会社で捌ききれなかった仕事を持ち帰ってきて休みの半日は仕事をしていた。 そして残りの半日は、死んだように寝ていた。 睡眠をとって疲れがとれるならばいいのだが、土日にちょっと多めに寝た位では疲れはとれなかった。 平日の茂春の体はボロボロであった。 頭は混乱して仕事の優先順位が付けられない。 仕事がはかどらないのに、依頼されてくる仕事はどんどん増えてくる。 書類の山が茂春の机の上に山積みにされていく。 また、茂春の体は疲労感で一杯であった。 体がだるい。それも普通のだるさではなく、背中に50kgの重りを背負っている感じで背を真っ直ぐして立って歩く事ができない。 そんな状態が続くようになって茂春の思考も段々と落ちて行った。 自分はこんな体ではとても仕事はできない。 仕事は全然はかどらない。 溜まって行く一方だ。 自分には能力がないんだ。 そう思い出していた。 そんなある日の休日、茂春が疲れた顔で宏子に、 『もう体がだるい。 つかれて動けない。』 と訴えた。 日頃の茂春の様子を見ていた宏子も様子を見かねて、 『病院にでも行って来たら?』 と言った。 茂春はその申し出に従うことにした。 自宅近所の安田内科に茂春は行った。 安田は、問診と血液検査をした。 その結果が数日後に出た。 『水野さん、どこも異常はないですね。 風邪を引かれている訳でもないし、肝機能もその他の数値も正常の範囲内ですよ。』 『そうですか。 でもとても体がだるいんです。』 『何か他に症状はないですか?』 『最近、もう人生が嫌で死にたいと思うことがあります。』 その瞬間安田の脳裏にこれはと思うものが閃いた。 『水野さん。良く聞いてくださいね。 一般的に死にたいと思うことはうつ病特有の症状なんですね。 水野さんはうつ病だとは断言できませんが、少なくともうつ症状である可能性は高いと思います。 最近うつ症状に効くいいお薬が出ています。 試しにそれを飲んでみませんか?』 茂春はやっぱりかと思った。 自分でもうつ病ではないかと思っていたので、先生の申し出には納得がいった。 『解りました。 そのお薬はどういったものですか?』 『SSRIといって最近出た新しいお薬です。 デプロメールといいます。 効果は非常に高い薬ですので是非試してみてください。 1錠25mgなんですが、これを1日2錠からスタートしていきましょう。 症状に併せて増量していって、安定したら、維持量でしばらく続けます。 そして、その後徐々に減らしていって早ければ1年位で治りますよ。』 と安田は言った。 茂春は納得してその日からそのデプロメールを飲むことにした。 自宅に帰って、宏子に茂春は告げた。 『うつ病だってさ。』 宏子はちょっと驚いたが、さほど動揺はしなかった。 茂春は安田内科で貰った薬を飲んで、それから風呂に入った。 バスルームで湯船に浸かって、茂春は思った。 『うつ病か。 精神病患者だな。 もうおれの人生は終ったよ。 畜生!おれをうつ病にした神尾が憎い! なんであんな奴のせいでうつ病にならなきゃないらないんだ! あいつが俺を苛めたせいでうつ病になったんだよ。 畜生!!』 茂春は悔し泣きをした。 バスルームで一人で泣いた。 神尾を心底恨んだ。 自分の人生を狂わせた神尾を許せなかった。 風呂から上がった茂春は涙はもう流していなかった。 ただ、自分がうつ病になったことを上司に伝える必要があると思った。 茂春は恐る恐る、上司の笹山の自宅に電話をした。 『笹山さんです? 水野です。 実は相談がありまして。 もしかしたらお気づきだったかもしれませんが、最近体調が悪く今日病院に行ってきました。 そうしたら、診断結果がうつ病とのことでした。 原因は神尾社員に苛められたせいだと思っています。』 笹山は暫く沈黙した。 『わかった。最近仕事も頑張り過ぎていたからな。 暫く仕事は20時までには終らせて早く帰宅するようにしなさい。 それからこのことは、上司の山下課長にも私から言っておくから。 他の人には言わないようにね。 暫くは無理をしないようにして。』 笹山の意外に紳士な態度に茂春はほっとした。 その晩茂春は寝ようと布団に入ったのだが、寝付けなかった。 うつ病になったのが悔しいのではない。 気分がいいのだ。 多幸感とでも言おうか、兎に角今まで何を悩んでいたんだと言う感じだった。 今の自分ならばなんでもできる。そう思った。 夕方に飲んだデプロメールの効果のようだった。 抗うつ薬とはこんなにも効果のあるものかと驚いた。 これならば、またいつもどおりに仕事ができる。 そう思った。 翌日会社に行っても茂春は元気だった。 いつもならば、電話をするだけでも30分位悩んでいたのが、さっとできるようになっていた。 声も大きく、見た目にも元気がある。 とても活動的に仕事がでた。 これが本来の状態だったのかと茂春は思った。 今までの鬱々していた自分がうそのようだった。 SSRIとはなんと効果のある薬かと思い、嬉しかった。 だが、いいことばかりはそう長くは続かなかった。 3日程すると胃がむかむかしてきたのだ。 仕事にならないくらいの胃のむかつきようであった。 たまらず、会社帰りに安田内科に寄って安田にそのことを告げた。 『飲んで暫くはこんなに効果があるものかと、嬉しかったのですが、。その後、胃がムカムカしてきてとても苦しいです。』 『そうですか。デプロメール効果が強いからうつ症状はかなり軽くできるんですよね。でも胃腸障害がでることがあるんですよ。 もう暫く我慢できませんか? 1週間程度で副作用を乗り越えたら、ずいぶんと楽になりますよ。』 『先生。駄目です。辛いです。』 『そうですか。 わかりました。 では1世代前のレスリンに薬を切り替えましょう。』 安田はそう言って、デプロメールの処方を止めてレスリンに切り替えた。 レスリンは初期25mg×2錠を1日の処方であったが、症状が軽快するまで増量していって、最終的に25mg×6錠まで増量していった。 デプロメール程劇的な効果はなかったが、増量するにつれてうつ症状は軽快していって、うつ症状はかなり安定するようになった。 |