3.うつ病発症後の激務
 課長の山川が茂春に声を掛けてきた。
『水野君、最近病気の調子はどうだい?』
山川はいつものように気軽な口調だった。
『はい、暫く早く帰らせて戴いていたお陰で、体調も大分良くなってお薬の方もかなり減薬できてきました。』
茂春はうつ病発症当時の数ヶ月は毎晩20時前後には帰宅するようにしていた。
その後、レスリンの効果が出てきてうつ症状が軽快してきたので、またいつものように毎晩24時過ぎまで仕事をするようになっていた。
遅く迄仕事をするようになっていたが、神尾との折り合いが悪いことを見かねて山川が同じ仕事をさせないようにしていたので、神尾と関る仕事は殆どなく、苛めもなくなっていた。
この為、茂春は仕事量が多くても気分良く仕事ができていた。
そのせいか、レスリンの量も徐々に減薬できていて1日25mg×2錠で症状が安定するまでに回復していた。
 山川が唐突に切り出してきた。
『水野君、実は君が今開発している次世代型装置の試験装置の件なんだが、客先から製膜サンプルが欲しいと要望がきているんだ。
その量がちょっと多くてね。
試験装置だから大量に製膜できないことは解っているんだが、次期商談につなげる為には是非とも客先にサンプルを出荷したいんだ。
それでそのサンプル製作の指揮をとって欲しいんだが。』
茂春は大変な仕事かもしれないと思う反面、次期商談に繋がるならば是非やらねばならないとも思った。
『サンプルはいつまでにどれだけ必要なのでしょうか?』
『2週間で、100サンプル作って欲しいんだ。
そのレシピは後で君に渡すからこの仕事を頼んでもいいかな?』
茂春は大変だがやりくりをすればなんとかなるだろうと考えた。
『わかりました。
やらせていただきます。』
茂春はその仕事を受けることにした。
といよりも次期商談に繋が訳であるし、体調もいいこともあって大丈夫だろうと高をくくっていたのだった。
 課長の山川から製膜のレシピを貰って茂春は試験工程を立てることにした。
しかし、2週間で100サンプルはかなりの量であった。
茂春は工程を詳細に立てていくと、時間が全く足りない事に愕然として自分の見積の甘さを反省した。
しかし客先依頼の納期のあるサンプル製作である。
納期を遅らせる訳にはいかない。
『人繰りを調整して、24時間体制で試験をするしか手がないな。
これで課長に相談してみるか。』
茂春は作成した試験要領書と工程表を山川に持っていき相談をした。
『厳しい工程だな。』
山川は言った。
『試験装置でのサンプル製作だから、現場にそのまま作業依頼をすれば製作できるものではないよな。
誰か試験内容のチェックの為に試験に立ち会えるのか?』
『私がやります。』
山川の言葉に水野はこう答えるしかなかった。
『しかし君はまだ病気が完全に治っていないだろう?
大丈夫なのか?』
山川は一応心配そうにそうは言ったが、現実問題として他の人間はいないので茂春が試験に立ち会うしかなかった。
山川もそれは解った上で茂春に問い掛けたのだった。
『大丈夫です。
最近は調子も安定していますから、2週間程度の徹夜勤務はなんとかこなせると思います。』
茂春は体調も安定していることだし、なんとかなるだろうと安易に思っていた。

 茂春は試験が始まると24時間体制で会社に詰めて試験に立ち会った。
装置の横で完成してくるサンプルの状態を見ながら製膜レシピを微調整する指示を現場にだしていった。
眠くなると、会議室で仮眠を取りながら2週間を過ごした。
『流石に、つらいな。』
茂春はそう思ったがなんとか試験をやり遂げようと努力した。
2週間が過ぎてサンプルが全て出来上がった。
そのサンプルは納期どおりに無事客先に出荷することができたので茂春はほっとした。
しかし実はその時、茂春の体は悲鳴を上げていたのだった。
サンプル製作中は気が張っていたせいか特に体調も問題なかったのだが、サンプル製作が終った瞬間に言い知れぬ倦怠感が茂春の体を襲った。
自宅に帰って暫くぶりにゆっくり寝ても、朝起きた時に会社に行きたくない感覚に襲われた。
起きようとしても、体が鉛のように重かった。
なんとか会社に出社しても背中に鉛の鎧でも着ているかのようななんともいえない感覚が襲うのである。
茂春はしまったと思った。
うつ病が再燃したのである。
『やはりうつ病が完治していない状態で徹夜勤務は無理があったかな。』
茂春はそう思ったが後の祭りであった。
うつ状態になった茂春の思考は地を這うように低下していった。
『駄目だ。
体が動かない。
でもまだ量産装置の開発は終っていない。
なんとかしなければ。
でも一体どうしたらいいんだ?
くそ!
なんでこんな病気になったんだ!?』
茂春は取敢えず半日の休暇を取って、自宅近所の安田内科に駆け込んだ。
医師の安田は、
『水野さん、どうされました?』
と尋ねてきた。
『実は会社の業務で仕方なく2週間の徹夜勤務をしてしまいました。
そうしたら、調子が急に悪くなって。』
茂春のうつろな表情をした元気のない顔を見て、安田は困った顔をした。
『水野さん、この病気は無理が一番いけないんですよ。
調子がいいからといって、徹夜なんて無茶をしたら再発するのは当たり前じゃないですか!
折角、ここまで減薬できていたのに。
残念ですね。
でも困りましたね。』
安田は暫く考えて茂春に提案をしてきた。
『レスリンをまた増薬するという方法もあるのですが、最近SSRIのお薬で新しいものが発売になったのですよ。
パキシルというお薬なのですが。
以前同じSSRIのデプロメールを水野さんに処方した時には胃腸障害がでて投薬を中断しましたが、今回は同じSSRIといっても別のお薬ですから副作用はあまり出ない可能性もあります。
以前のデプロメールも1週間で服薬を中断はしましたが、我慢して続けていれば副作用は収まった可能性も高いのですよ。
どうですか。
折角ですからパキシルに変更して再度治療にトライしてみませんか?
今回は多少副作用が出ても2週間は我慢して続けてみませんか?』
茂春はうつ病が治るならば、何でもいいと思った。
とにかく、この辛い状態から抜け出したかった。
新しい薬というものにも魅力を感じたし、信頼している安田からの提案であるからそれを受けることにした。
まずは1日にパキシル10mg×2錠から始めることにした。
程なくうつの症状に併せて1日に10mg×4錠の処方になった。
飲み始めてからの副作用らしい副作用といっても便秘ぐらいで、心配していた程の副作用ではなかった。

茂春は会社に出社して上司の笹山主任と山川課長にうつ病が再燃したことを告げた。
山川は、
『君のお陰で無事サンプルを客先に出荷することができた。
良く頑張ってくれたよ。
暫くはまた早めに退社するようにして休養をとりなさい。』
と言って茂春の業務負荷を低減するように助言をしてくれた。
笹山も、
『今回は水野もかなり頑張ったからな。
暫く早めに退社するといいよ。』
と言ってくれた。
しかし、ちょうどその時期は茂春達が計画していた半導体製造工場の新規建屋が完成間近な時期であった。
茂春達はその工場の建設に併せて、既に製作していた次世代型の試験装置をベースにした量産用の次世代装置を設計製作中であった。
試験装置は今回のサンプル製作で試験が一時中断してしまったが、各種試験を実施している最中であった。
その試験結果を量産装置設計に反映していく必要があったのだ。
しかし、試験装置での製膜試験がなかなか思うような成果が出せずに量産装置への設計展開が滞っている状態だった。
茂春はパキシルを飲みだしてから1ヶ月もしたら普通に生活が送れるようになっていた。
『この薬は俺にあっている。』
茂春はそう思った。
その為、また毎晩深夜までの残業ができるようになり、業務の負荷にあわせて無理な勤務をするようになっていった。

 5月の春の日差しが眩しい頃、ついに半導体製造工場の建屋が完成した。
茂春達の新しいデスクもその建屋の2階の新しい事務所に移ることになった。
新しい事務所というのはなんとも言えず気持ちがいいものだ。
茂春はパキシルのお陰で体調が完全に復調していたので、新しい環境で頑張るぞいう気持ちで一杯だった。
だがその反面、工場建屋が出来たということは、工場に量産装置を納入しないといけない時期でもあるということであり大変な時期になったなとも思った。
装置は自社製であるから、購入した部品を社内で組み立てる必要があった。
大物の部品の発注は終っていて、あとは装置内部の構造を試験装置の試験結果を反映して製作すればいい所まで漕ぎ着けていた。
これからは、まず装置本体を工場内に設置していく工事が山場を迎える時期であった。

 茂春達の会社は機械メーカとしてはかなり名のしれた会社であった。
特にプラントものが得意な会社であった。
しかし、逆に量産品を製造することは非常に苦手とする会社であった。
そんな茂春達の会社が半導体製造事業に着手することになったのである。
その事は茂春達が10年来かけて築き上げてきた技術がついに量産化まで漕ぎ着けたということであり、100年の歴史がある会社始まって以来のことであった。
だが、その分多くの苦労も予想された。
今まで埃まみれの環境で機械を作っていた職人気質の社員達が、無塵服に身を包んで巨大なクリーンルームの中で作業をする必要があるのである。
そこには、物づくりの考え方の違いに起因する大きな壁が立ちはだかるのであった。

 半導体製造工場建設ではガス会社のエンジニアリング部隊が各種配管を施行するのが一般である。
茂春達の会社もガス会社に量産装置の配管工事一式を発注していた。
しかし初めてのことであるので発注の際に、
『仕様の若干の変更については一切の追加費用の請求はしない。』
『納期は絶対に遅延しない』
この2点を受諾するガス会社を選定していた。
工場建屋が完成していよいよ配管工事や機器の搬入が始まることになった。
この時、工場建設を取り纏めるのは製造チームの秋川チーム長であった。

 ある日、ガスメーカのエンジニアリング担当者と茂春達開発チームと秋川チーム長との間で工事実施前の安全事前検討会が開かれた。
まずはガスメーカの担当者が工事概要を説明した。
『今回の工事は以上のような内容ですが、安全につていは十分注意して作業して行きます。』
すると秋川がドスの聞いた声で、
『もし、安全に関る点で問題があったら工事はすぐにストップさせるからな!』
と言った。
その一言で会議の雰囲気は一気に緊張したものになった。
メーカ担当者はその場を繕う為に、
『はい解りました。』
と言うしかなかった。
しかし、秋川の言葉は脅しではなかった。
実際に工事が始まると、秋川の細かいチェックで作業が中断されることがしばしばだった。

 朝のメーカの作業員を含めた現場ミーティングで秋川の怒声が響いた。
『お前達は決めたことが守れんのかぁ!
ふざけるな!
帰れ!』
メーカの作業責任者は萎縮した声で、
『す、すみません。』
というのが精一杯であった。
『あんなふうに配管工事をするとは事前検討会では一切聞いてないぞ!
あんな施行だったら将来の作業性が悪くなるじゃないか!
すぐに撤去して一からやり直せ!』
その時メーカの配管工事は既に80%程度終了していたのだが、配管の引き回しが人の動線と交差する箇所があり、人が通れない場所があったのだっだ。
茂春は毎晩深夜まで設計業務のデスクワークがあった為、現場に出れらる時間が限られていた。
その朝のミーティングに立ち会っていた茂春はしまったと思った。
メーカがいつの間にか茂春の知らない工事箇所を独断で工事していたのだった。
茂春も、配管は現場合せで施行するのが一般的なことであったので、重要な箇所以外はメーカに施行をまかせていたのが失敗だったと思った。
ミーティングが終った後、秋川の言っていた配管施行箇所を確認しに行った茂春はちょっと戸惑ってしまった。
確かに人が通り難くはあったが、通れないことはない。
そこで、茂春は事務所に戻って秋川に相談した。
『秋川さん、あの場所はなんとか人は通れるようですので、あのままでは駄目でしょうか?』
『何を言っているんだ!
あんな狭い場所を人が通られる訳がないだろう!
俺は現場工事責任者として、図面を承認していないからな!
メーカにやり直させろ!』
『しかし、現場合せで工事している箇所なので、図面も現状ではないのですが。』
茂春は秋川の剣幕に押されて、小さい声で答えた。
『工事をやる前には承認申請図をとって工事するのが筋だろう!
現場合せで工事して事後承諾なんて絶対に認めないからな!』
茂春は秋川の剣幕に押される一方であった。
『ただ、工事をやり直させるにしても追加費用で1000万円はかかりますし、工程も2週間ほど遅れます。』
『そんなの知ったことか!
メーカに全てやらせろ!
工程遅延も絶対に認めないからな!
24時間体制でメーカにやらせろ!』
『わかりました。』
茂春はそう答えるしかなかった。
そして困惑した表情でその場を立ち去った。

 茂春は早速メーカの作業責任者を呼んで、秋川に言われたことを鸚鵡返しで言った。
『あんな工事は認めていないからな。
承認も取らずに勝手に工事したお宅が悪いんだよ。
無償で至急やり直しをしてくれ!
今度は承認申請図をちゃんと出してくれよ。
ちゃんとチェックするから、その図面どおりに工事してくれ!
また工程の遅れは絶対に許さないからな。
発注時に念書をだしてもらっているだろう!
24時間体制でやってくれよ。』
茂春は目を真赤にしてメーカの作業責任者を睨みつけて、ドスの効いた声で言った。
念書のことを持ち出されると、メーカの作業責任者も何も言えなかった。
『わかりました。
工事のやり直しをします。
ただ追加費用は頂けるのでしょうか?』
『念書に一切の追加費用の請求はしないと書いていただろう!
うちは追加費用を払う気は一切ないからな。』
茂春はそんな無茶を言っている自分が嫌だった。
しかし、社の上層部が追加費用を認めない以上、茂春もそれをメーカに認める訳にはいかなかった。
『それから、お宅の安全担当責任者はいつも何を見ているの?!
いつもうちの秋川に注意されているのに全く現場に入って安全のチェックをしていないじゃないの?
そんな肩書きだけの安全担当者はいらないから帰ってもらってくれ!
ちゃんと安全管理ができる新任の担当者を連れてきてくれ!
とにかく至急御社の新しい工事体制表を出してくれよ!』
茂春のその一言で、それまでのメーカの安全担当責任者は首になったのだった。

 毎日がそんな会議の連続だった。
茂春は秋川からから何度も怒鳴られるので、怒鳴られないようにメーカをコントロールする為に自分も段々イライラしながら仕事をするようになっていった。
あまりにイライラするので、休日の土曜日に安田内科に行って医師の安田に相談した。
『メーカが決められた事を守れないからついイライラして怒鳴ってしまいます。
自宅に帰る時間も夜中の3時頃でそれから寝ても寝つきが悪く睡眠時間も十分にとれません。
なんとかイライラを押さえる薬と、熟睡できる薬をもらえないでしょうか?』
安田は困った顔で茂春の顔を見ながら言った。
『メーカが決められて事を守れないからイライラするのは普通のことだと思いますよ。
でもイライラするのは辛いでしょうから、安定剤のデパスを処方しますね。
でも水野さんの睡眠時間は極端に短いですね。
水野さんの働き方は異常ではないですか?
上司の方は何も言わないのですか?』
安田は茂春の勤務状態が異常になっているのを危惧したのだった。
『今、我社始まって以来の量産工場の立上げでみんな頑張っているんです。
頑張っているのは私だけではないのです。
なんとかこの山場をお薬の力で乗り越えられるようにして貰えないでしょうか。』
茂春は自分だけが苦しいのではないと思っていた。
『しょうがないですね。
でも限界を感じたらいつでも言って下さいね。
私からあなたの会社の産業医に連絡して相談することも出来ますからね。
取敢えず、短い時間でも眠られるように短期型のマイスリーという睡眠薬を出しますから。』
安田は困った顔をしてそう言って、デパスとマイスリーを追加で処方した。
茂春はこれで何とか乗り切れるかなと思っていた。

 しかし状況は悪くなる一方だった。
秋川のチェックが厳しく色々な工事の許可がなかなか降りなくなっていった。
工程もどんどん遅れて行く。
しかし工場完成予定日程は遅れることはない。
茂春はガスメーカの担当者を毎日会議室に呼び出しては、工程が何故遅れるのかと問い詰めた。
担当者は、困った顔をして言った。
『秋川さんが厳しくて、安全管理にばかり集中しないといけなくなって設計に手が回らないのです。
工事管理者も設計管理ができなくて安全管理ばかりに手をとられて設計が遅れてしまっているのです。
普通の半導体工場ではこんな安全管理はしませんよ。』
『そんなことは知らない!
お宅の会社は何があっても工事は遅延しない、追加料金は請求しないと一筆念書を書いているじゃないか?
すぐに人間を増やして遅れている工程を取り戻せ!
24時間体制でやってもらってもうちは一向に構わないから24時間体制を組んでやってくれ。
もし工程が遅れたら損害遅延金を請求するからな!』
茂春も必死だった。
遅れている工程を取り戻す為にメーカに無理を承知で厳しい工程を了承させた。
メーカとの交渉が終るとメーカから提出されている承認図をチェックして秋川チーム長に了承を貰わないといけない。
しかし、秋川は一人で工場全体の工事を監督しているので、事務所の席に殆どいない。
かといって、秋川の了承を貰わないと、後で秋川から聞いていないと怒鳴られる。
時間が足りなかった。
絶対的に人が足りなかった。

 茂春が担当するメーカはガス会社以外に7社ほどあった。
その全てのメーカの工事管理をして、工事内容を秋川に了承を貰わないといけない。
工程が遅れてきて24時間の対応をさせるメーカもガス会社以外に数社でてきた。
その為、設計なのに工事を管理する茂春も24時間で対応しないといけなかった。
茂春は毎日各メーカの工事が終った後の作業終了ミーティングまでいないといけなかった。
メーカは24時間体制で仕事をしているから、茂春も帰宅するのは深夜か早朝だった。
また朝はメーカとの朝ミーティングをする前に当日の作業内容のチェックをしないといけないので6時には会社に出ていた。
もう限界が近づいていた。
茂春は、少しでも早く帰宅したい為に、帰宅時は車が少なくなっている道路を時速100km/hで車を飛ばしていた。
その最中にふっと頭の中で、今ハンドルを右に切れば、死ねるよな。
そう思うことがしばしばだった。
死んで楽になりたい。
そう思っていた。
朝は5時過ぎには家を出て会社に向った。
しかし、夜中の2時とか3時過ぎにマイスリーを飲んで寝て、朝の5時頃に起きて会社に車で向うので、睡眠薬が抜けずに意識が朦朧とした状態で車を運転していた。
目を開けて運転はしているのだが、焦点が合わず、1台の対向車が2台に見えるのであった。
そんな時は片目をつぶると車が正常に1台に見えるので、いつも片目をつぶって運転していた。
もう限界だった。
自分が倒れるか死んでしまうのが先か、工事を完成させるのが先か?
チキンレースのようなものであった。
 深夜会社の事務所に残って茂春がデスクワークをしていると、先輩の縄山が声をかけてきた。
『水野君最近疲れていない?
大丈夫か?』
茂春はそんな縄山の声に自嘲気味に答えた。
『もう限界が近いです。
実は私はこれを飲んで仕事をしているんですよ。』
そういって茂春はデスクの引き出しから薬を取り出した。
『これが精神安定剤、これが抗うつ薬、これが睡眠薬。』
そう言って縄山にデパス、パキシル、マイスリーを取り出して見せた。
一瞬縄山の表情が固くなったが、すぐに和らいでこう言った。
『水野君、会社はうちだけじゃないんだよ。
世の中には一杯会社があるよ。
いざとなったら転職すればいいじゃない?
うちなんかより楽な仕事で給料もらえる所は絶対に沢山あるよ。
俺なんかいつも転職雑誌を読んでいるよ。
今の仕事だけが仕事じゃないのだから、気楽に仕事していこうよ。』
縄山はそういって笑って見せた。
『そうですね。
そうか。
転職って手もありますよね。
そうだよな。』
茂春は縄山の気さくな言葉に少し心が癒された気がした。
『そうですね。
仕事は仕事と割り切って早く帰れる時は早く帰るようにしなくちゃな。』
『水野君、それにうちの会社にはメンタルヘルス室があるじゃない。
一回相談に行ってみたら?
やっぱりこの職場の仕事量は半端ではないから、会社の組織で利用出来る所は利用しないとさ。』
『そうですね。
そうだよな。
解りました。
メンタルヘルス室のメールアドレスを調べて一回メールをしてみます。』
茂春はそう言うと社内のネットワークでメンタルヘルス室のアドレスを調べてメールを書く事にした。
メールの内容はこうだった。
『1年半前からうつ病を発症して、今抗うつ薬を飲んで仕事をしています。
最初はレスリンを飲んでいたのですが、今年の春からパキシルに変えています。
最近仕事量が膨大に増えて、精神的に安定できなくなって、安定剤のデパスと睡眠薬のマイスリーも処方して貰っています。
一度、そちらに伺って相談をしたいのですが、日程の都合はつくでしょうか?』
翌日にはメンタルヘルス室専任の臨床心理士の和島から返信のメールが届いた。
『お辛い状況で仕事をされているのですね。
一度当室に相談にこられてください。
相談内容の秘密は厳守しますので安心して来て下さい。
今週の金曜日の9時からは時間の都合はいかがでしょうか?』
といった内容であった。
茂春は午前中は現場ミーティングがある為、時間の変更の依頼メールを返信した。
『今当方は工場立上げの為多忙を極めています。
この為朝から伺うことは困難です。
本当はこんなことを言っているのは病状には悪いことは解っていますが、来週の水曜日の17時に変更できないでしょうか?』
こうし茂春は初めて会社のメンタルヘルス室に行く事を決意したのであった。