| 4.初めての休職 茂春は業務の負荷に耐え切れずに、ついに自宅でパニック発作を起こしてしまったのだった。 パニック発作を起こした翌日もなんとか会社に行って、茂春が所属する開発チームのチーム長である宮川チーム長と笹山主任に話を切り出した。 『ちょっとお話したいことがあるのですが。』 茂春の虚ろな表情を見て、笹山はただならぬ状況を察知して、 『会議室に行こか。』 そう言って宮川にも声を掛けて三人で誰もいない会議室に行った。 茂春は重い口調で話を始めた。 『実は昨日ついに壊れてしまいました。』 壊れたと言う表現は適切でないかもしれないが、パニック発作を起こした人間は自分が壊れてしまうのではないかという恐怖心を抱くものだ。 壊れたという表現を聞いて、茂春がうつ病を患っていると知っている宮川と笹山は状況がだいたい想像できた。 日頃の業務量がかなり多いことは宮川も笹山も十分承知のことであったからだ。 『昨日、体が痙攣して倒れてしまって。』 笹山は今茂春がいなくなると業務が滞るので、それを心配して取り繕うように口を開いた。 『わかった。 とにかく今は休もう。 暫くまた早く帰るようにしたらいい。』 笹山はまた以前のように茂春が帰宅時間を早くすれば、また回復するだろうと思っていた。 そんな笹山の言葉に今回はそれでは回復する見込みがないと思った茂春は、 『実はちょうどメンタルヘルス室の和島先生に連絡をとっていて明日面談をすることになっているのです。』 と言った。 実際タイミングがいいというか、和島との面談が翌日を予定していたのだった。 笹山も専門家ではない為、茂春がメンタルヘルスの専門家の和島と面談することに了承をした。 『解った。 明日和島先生の所にいって今回のことを相談しなさい。 宮川チーム長、それでいいですよね?』 『そうだね。 また倒れると大変だから、まずは和島先生の所にいって相談するといい。 今日はとりあえず仕事をする必要はないから。』 宮川はそう言った。 皆心配はしてくれたが、茂春が長期の休暇を取ることなど予想していなかったし、今回も暫くの間だけ早く帰宅すれば軽快するものと思っていた。 茂春はその相談が終った後、その日は仕事も殆どせずに、デスクの書類整理など簡単な作業をしだけだった。 翌日、茂春は休暇をとって、夕方メンタルヘルス室の和島を訪ねていった。 数日前の茂春のパニック発作が異常であった為に妻の宏子も心配して同席した。 『和島先生、実は一昨日パニック発作を起こして、体が痙攣して、、、 過呼吸になって死ぬかと思いました。』 茂春の重い口調に和島が心配そうに口を開いた。 『そうですか。 君の今迄の業務状況は尋常じゃなかったみたいだからね。』 そこで宏子が話に割り込んできた。 『本当に酷いパニック発作でこの人が死ぬのかと思いました。 こんな状況で仕事は続けられるのでしょうか?』 『水野君がいる部署は我社でも特異な部署だからね。 今のまま仕事を続けると大変なことになるかもしれない。 とりあえず、今日は精神科に行って診断書をもらって来ませんか? それを見て、今後の身の振り方を考えませんか?』 和島は状況を冷静に判断して今の茂春には精神科を受診して休養をとる必要があると考えていた。 茂春は、 『やはり精神科にかからないといけないのか。』 と思った。 そんな状態になった自分が哀しかった。 誰もいないのならば、泣きたいくらいであった。 でもしょうがないとも思った。 あんなパニック発作を起こしたのでは今までかかっていた普通の内科ではもう対応しきれないと思ったからだ。 実際その日の午前中の間に安田クリニックに相談に言った。 事情を話した後、安田は、 『もう僕の範疇は越えたと思います。 力足らずですみませんでした。 精神科への紹介状は書きますから。。』 と茂春以上に恐縮されてしまった。 安田の紹介状を携えて、茂春と宏子は和島に紹介してもらった池田クリニックに午後から行く事にした。 茂春は池田クリニックに入る時には流石に躊躇した。 ついに精神科の敷居をまたぐことになったからだ。 ただ、クリニックの中に一旦入ってみると、今まで持っていた精神科のイメージとは違って、静かなクラシック音楽が流れていて落ち着いたいい雰囲気だった。 茂春はそれまで精神科には偏見をもっていたが、待合室にいる他の患者さん達も見た目には普通の人だった。 それを確認して茂春はほっとして、 『精神科と言っても他の病院とはあまり大差ないんだな。』 と安心した。 ほどなくして、茂春は診察室に呼ばれた。 診察室には大きい机があり、その前に精神科医の池田が座っていた。 池田は70歳位の白髪の老人であったが、見た目は頭のいい感じで悪い印象ではなっかった。 池田の前にはイスが二つあって、そこに茂春と宏子は座った。 そして、喋る気力のない茂春に代わって、宏子が一昨日の茂春が倒れた様子をかいつまんで池田に説明した。 『大変でしたね。 和島先生からも簡単にお話は聞いています。』 と優しい、しかしはっきりした口調で池田が言った。 『状況を把握する為に別室で100項目程あるチェックシートに今の水野さんの状態を記載して貰えますか?』 と言って看護師を呼んだ。 看護師が茂春と宏子を別室に案内した。 そこで茂春と宏子は看護師から渡されたチェックシートをつけていった。 チェックシートをつけていると、殆どがネガティブな結果になっていた。 付け終わってチェックシートを看護師に渡すと一旦待合室で茂春達は待たされた。 程なくして、池田から診察室に呼ばれた。 茂春達は診察室に入って、池田の前のイスに座った。 『水野さん。あなたの今の状態は普通の状態を100とすると10か20しかないですね。 かなり危険な状態です。 辛かったですね。 でももう大丈夫ですから。 暫く会社を休んでゆっくり休養をとった方がいいですよ。 私から和島先生に電話しますから。 ね。 そして死んだりするなんて考えないで下さいね。 生きていればいいことが必ずありますから。 お子さんだっているでしょう? 子供には父親は寝たきりでいたって、いて欲しい存在なんです。 死なないで下さいね。 約束してくださいね。 そしてゆっくり休めば必ずよくなりますからね。』 そう言って池田は茂春の手をとって暖かく握って、優しく見つめてくれた。 茂春は泣いてしまった。 嬉しかった。 やっと自分を理解してくれる人に合えたと思った。 『この人に任せよう。 今は休めばいいんだ。』 咽びながらそう思った。 池田は茂春の手を離すと、受話器を取って和島に電話をした。 『あ、和島先生ですか? 今水野さんの診察をしたんですが、かなり酷い状態ですね。 このまま会社にいると状況は更に酷くなります。 暫く休職させた方がいいと思うのですが、如何でしょうか?』 和島は、 『やはりそうですか。 解りました。 早速休職の手続きを取ります。 診断書を書いて戴いて水野さんに渡して貰えませんか? 病院の帰りに会社のメンタルヘルス室に水野さんに診断書を持ってきてもらうよに伝えてもらえませんか?』 『わかりました。 とりあえず1ヶ月の休養が必要との内容で診断書を書きます。』 池田は電話を切ると水野に、 『今から診断書を書きますからそれをもって再度メンタルヘルス室に行って和島先生に渡して来て下さい。 休職の手続きは和島先生がしてくれる筈だから、あなたは心配しないで明日からゆっくり休んでくださいね。 それから奥さん、今日から沢山のお薬を処方します。 一度に全部飲むと危険なお薬です。 お薬の管理は奥さんがしてあげてください。 そしてご主人を守ってあげてください。 御主人が悪いんじゃないんですよ。 御主人はただのうつ病という病気なんです。 治療すれば、必ず良くなります。 ここにうつ病の人への対応の仕方を書いたパンフレットがあります。 これを良く読んで下さい。 そしてご主人を労わって上げてください。 これから暫くご主人と二人での時間が持てますね。 今まで過ごせなかった分を取り返してくださいね。 それから、暫くはご主人と一緒に受診してくださいね。 そして奥さんから見たご主人の様子を報告してください。 お願いしますね。』 そう言って池田は宏子にパンプレットを渡して、今回の診療は終った。 宏子も茂春の病気がどういったものかまだ解らなかったが、 『自分がしっかりしないといけないのね。 お薬の管理と、この人の管理をちゃんとすること。 もう二度と倒れさせたりしない!』 そう心に誓うのであった。 茂春達は待合室で待っていると受付から呼ばれた。 池田クリニックでは院外処方なので、処方箋を渡された。 その内容をみて茂春は愕然とした。 内容は以下のとおりだ。 アンプリット(三環系:抗鬱薬)10mg×2/日 ドグマチール(元々胃薬:抗鬱薬)50mg×3/日 デパス(チエノジアゼピン系:抗不安薬 睡眠薬)0.5mg×4錠/日 レスミット(ベンゾジアゼピン系:抗不安薬)5mg×3/日 バランス(ベンゾジアゼピン系:抗不安薬)5mg×2/日 ワイパックス(ベンゾジアゼピン系:抗不安薬)0.5mg×2/日 『さすがに内科の処方とは違ってお薬の種類が多いな。 でもこれで、うつ状態から脱せるのならばしょうがないかな。 今は池田先生を信頼しよう。』 茂春はそう思った。 近所の調剤薬局で処方箋を渡して、お薬をもらった。 膨大な量だ。 『これを毎日飲むのか。 ちょっと気が重いな。 でも宏子がお薬を管理してくれるのだから自分はそれに従おう。 これでうつ症状が軽快するならばそれはそれでいいしな。』 と茂春は思った。 池田クリニックからの帰りに会社のメンタルヘルス室に和島を訪ねた。 『池田先生から聞かれたとは思いますが、休職することになって診断書を書いていただきました。 これをどうしたらいいでしょうか?』 宏子は池田に書いてもらった診断書を和島に渡した。 『いいですよ。 これはこちらで処理します。 今日から早速休養に入ってください。 会社のことは何も心配することはありませんからね。 今はとにかく彼をゆっくり休ませてください。 それから暫くは週に1日のペースでこちらにご夫婦でカウンセリングに来られませんか? なに、カウンセリングといっても大したことではないです。 ただご主人の状況を30分程度話すだけですから。 来週の水曜日の15時はどうですか?』 『はい。 解りました。 来週の水曜日ですね。 また主人を連れてお伺いします。』 宏子が気丈にそう答えた。 茂春にはもう答える元気すらないのが解っていたからだ。 自宅までの車の運転も宏子がすると言い出した。 『あなたはとにかくゆっくりするのが仕事だから、あとは全部私に任せて頂戴ね。』 宏子は気さくにそう笑って言ってみせた。 だが、宏子も不安だった。 『本当にこの人は治るのかしら? 一体これからどうしたらいいのかしら? ううん。駄目、駄目、私がしっかりしなくちゃ。 とにかく今は池田先生と和島先生を信頼してお任せするしかないわ。』 自宅に帰って茂春は布団の上に倒れこむように寝こんだ。 すると宏子が水と薬を持ってきて、 『さぁ飲んで。 飲んで休んでいれば必ず良くなるから。 家のことは心配しないで、私が全部するから。 あなたはとにかく横になっていればいいんだから。』 その晩、茂春は何も考えずにとりあえず薬を飲んで寝る事にした。 翌朝、茂春は目を醒ましたが、体が重く気分も悪い。 『さすがに、薬は直ぐに効かないんだな。 本に書いてある通り、2週間は耐えないといけないか。』 そうは思ったが、休職することになった自分が許せなかった。 『なんでこんなことになったんだ。 私としては仕事は頑張ってきたのに、結局皆に迷惑をかけることになった。 どうしようもない奴だ。 今の仕事のせいでうつ病になったんじゃない。 先輩の神尾に苛められたからだ。 今の職場の皆が悪いんじゃない。 このことを上司に伝えないと。。。』 茂春はそう思って、会社から持って帰ってきていたパソコンの電源を入れると宮川チーム長と笹山主任宛てにメールを書き出した。 **************************************** この度下名は、ご存知のとおり「うつ病」が再発して業務不可の判断を精神科医及びメンタルヘルス室から申し渡されました。 下名としてはすこしづつでも業務を続けて半導体事業の玉成を夢見て日夜体力の続く限り業務に邁進してきたつもりですが、結果としてこのようになってしまい、皆様にご迷惑をおかけすると共に、自分自身が不甲斐なく、不本意で情けない限りです。 突然このようになったかと思われる方もいられるかと思いますので、今までの経緯を状況をさかのぼって御説明致します。 うつ病というのはなった本人しか解らないと思われがちですが、少しでも御理解戴ければ幸いです。 **************************************** そういった書き出しで今まで神尾に苛められてうつ病になったことから事細かにA4用紙4頁分の文章を書いた。 宮川と笹山宛てにメールして、このメールを一緒に業務をしていた同僚や後輩に転送してくれるようにお願いした。 だが、それを見た笹山はこのメールを社内に回覧することは後々茂春の立場を悪くはしても良くはしないと判断して、宮川と相談して二人だけで誰にも言わないことにした。 茂春としてはメールを打ったことで、同僚に今の自分の苦しみが少しは解ってもらえたものと安心していた。 そして治療に専念することにした。 その頃会社では茂春が倒れた事が噂になって、社内問題に発展していた。 組合と勤労から、山川グループ長宛てに、 『いったい半導体事業室ではどういった業務管理をしていたのか?』 との問い合わせが来ていた。 山川も工場立上げで多忙を極めていたので、部下の業務管理が手薄になっていたことを認めた。 そして、それを改善する約束を組合と勤労にしたのだった。 茂春が休職して1週間が過ぎて、山川グループ長が庶務の辻田女史を連れて茂春の自宅に見舞いに来た。 宏子に案内されて、山川と辻田がリビングに入って来た。 『どうね? 水野君? 少しは元気になったかな?』 山川はいつもの愛想の良い語り口で茂春に問い掛けてきた。 その時はまだ茂春も病状が回復していなかった為、愛想笑いをする余裕もなく、とにかく焦っていた。 茂春は医学書を取り出して、山川にうつ病の説明から始めた。 『うつ病は脳内における脳内伝達物質のセロトニンの不足による内分泌系の病気なんです。 このため、セロトニンをお薬の力を使って増量して、体が自然と回復するのを待つしかないんです。 でも治癒率は非常に高くて投薬と休養さえとれば、必ず治る病気と言われています。』 茂春が医学書を片手に必死で山川に説明している最中に横では宏子と辻田がケーキとコーヒーを食べながら談笑していた。 『そうか! こういう病気だったのか! いや〜!!今日は辻田さんも心配してくれて一緒に来てくれたんだよね。』 『水野さんのことが心配で、無理について来てすみませんでした。』 山川が大声を張り上げた横で、辻田がすまなさそうに言った。 実は山川が一人で茂春の家に来るのは勇気が必要だったので、辻田に無理を言って一緒に来て貰ったのだった。 山川は宏子の目を見ることが出来なかった。 茂春がうつ病と知っていながら、茂春が倒れるまでサービス残業をしているのを見てみぬ振りをしていたからだ。 山川は最後まで笑っていた。 『まぁ、今はとにかくゆっくり休みなさい。 会社のことも心配しなくていいからね。 勤労と組合からもかなり怒られて、今体制を見直している最中なんだ。 君が戻ってくるまでにはしっかりとした体制を作って君に負荷がかからないようにするから心配しないでくれ。』 『申し訳ありません。』 茂春は本当にすまないことをしたと思っていた。 自分が倒れたばっかりに職場に迷惑を掛けていると思った。 山川が帰った後、宏子が茂春に言った。 『山川さんずるいわね。 一人でこないで辻田さんを連れてくるなんて。 それに最後まで私に一言も謝らなかったわ。』 宏子は会社の上司の対応が悪かったから茂春が倒れたのに何故ちゃんと謝らないのかと憤慨していた。 茂春も確かにそうではあるなと思い、苦笑した。 休職中の茂春の日課は、寝る事だった。 休職後の最初の一ヶ月は何をする気がせず、茂春はとにかく良く寝ていた。 そんなに眠れる訳ではないが、横になって目をつぶっていた。 ただ体力が落ちていたのだろうか、暫くして原因不明の高熱に冒されてしまった。 安田内科でも手の施しようがなかったので、急遽会社に併設している病院に入院することになった。 抗うつ薬等の精神科のお薬は熱が38℃以上出た場合は飲めないのだ。 熱を出さずに、完治しないといけなかった。 原因がはっきりしなかったが、1週間程度で退院できた。 無事病院から戻った茂春に宏子が言った。 『実はあなたが、いらっしゃらない間に笹山主席が一人で挨拶にこられて、 「水野は今入院していません。」 って言ったら、 真っ青な顔をして、「入院するほど酷かったんですかぁ。私が仕事をさせすぎたばっかりにすみませんでした。」 って低頭されて、困っちゃったわ。 ちゃんと入院しているのは精神科の病院ではないことは伝えたから安心されたみたいだけど、笹山主席あなたのことをかなり心配しているわよ。』 『そうか。。実質笹山主席の下で仕事をしていたからな。 それで、すまないと思っているんだろうな。』 『あんなに謝った人は笹山主席だけよ。 本当はいい人なのね。』 茂春はなんとも言えず苦笑した。 それから暫く、茂春はただひたすらゴロゴロして、3食キチンと食べて、服薬をしてというのが日課だった。 1ヶ月もそんな生活をしていただろうか、何かやろうという気が出てきた。 『折角の休みなんだから何もしない手はないよな。』 そう思った。 そこで、まず自分が今何をしたいかを、エクセルでリストアップしていった。 バイクの免許が欲しい。 パソコンが欲しい。 毎日ジュキングしたい。 毎日水泳したい。 英会話をしたい。 子供ともっと遊びたい。 家事の手伝いをしたい。 等などだ。 ただ、バイクの免許は宏子から危ないという理由で却下された。 そこで、念願のパソコンを購入することにした。 会社では勿論パソコンはあったが、自分でネットサーフィンなんかする暇なかったので、自宅でメールの送受信が出来て、ネットで遊べる環境が欲しかった。 以前だったら、PCの箱がドカっときても開ける気もしなかった筈だが、その時は違っていた。 箱を開けると真新しい注文したPCが来ていた。 それを取扱い説明書をみながらせっせと設定していって、 『できた! インターネットが出来るぞ!』 『どれどれ! わ〜!本当 凄〜い!!』 宏子も喜んでいた。 それから後の生活は充実していた。 体も回復してきたし、自分の時間でPCをしたり、ジョギングをしたり、近くのプールに泳ぎにいったり。 人生ってこんなに楽しいものかと思った。 自由ってこんなに素晴らしいものかと思った。 ただ、それは一時の快楽であって、永久には続かないことを後で知った。 |