鬼が醜いなど、誰が言ったのだろう。
鬼神暗疑
ふと目を開く。
物言わぬ闇が拡がっているだけ。別に違いは無い。
それでも、何か落ち着かない気分で、山南は床を抜け出した。
そっと障子を開けると、畳に走る月の光。
――――いい月だ…。
満月とまではいかない、少し欠けた白い月。
さわっ…と、静かな風に葉が揺れる。
不穏な輩が動くのは、新月の闇夜と相場が決まっている。
それか風の強い日か。血の匂いを隠す為に。
せめて今宵だけでも、何事も無く過ぎれば良い。
土方に聞かれたら鼻で笑われるのであろうが、それが山南の本心だった。
もう一度寝る為に少し歩こうか。そう思いふと見ると、月光では無い、火の灯りがある部屋から洩れている事に気付く。
土方の部屋である。
「土方君…?」
開け放された障子の内側へ遠慮勝ちに声をかけると。
「なんだ。山南さんか」
十分とは言えない灯りの中、書簡に目を通す格好のまま、振り返る事もせず、言葉だけで土方が返した。
「あんたはもう寝たとばかり思っていたが」
「目が覚めてしまってね。そう言う君は…-----」
灯りの油には、継ぎ足された跡がある。
「----ずっと起きていた様だけれど?」
「何が言いたい」
「別に。昼、明るい内にした方が。油が勿体無く無いと思っただけさ」
「昼には昼、やらなければならない事がある。それに今夜は」
ようやく顔を上げて山南を------いや、月を見上げた。
「月も明るい」
その言葉に、山南もまた月を見上げた。
「いい月だ」
「ああ。妙な気を起こすのにはもってこいのな」
改めて口に出していった言葉に、水をさされた。
「なぜ?明るい夜に事を起こす奴なんて居ないだろう?」
「次の新月の日に何かするなら、もうそろそろ作を練り始める。今夜、山崎君に探り入れをさせているから、明日には何か解っているだろう」
「…」
肩肘をついて、小馬鹿にした表情で山南を見上げる土方。
白い月灯りに曝された首筋に、薄く、しかしはっきりと残る紅い跡。
無意識にそれを追ってしまい、目を逸らす。
「また、忙しくなる」
視界から彼の姿を無くしても、彼の低く心地よい声が耳を打った。
見すかされている…?
当の土方にそんな気は無いのだろう。しかし、もう
止められなかった。
話は終わったとばかりに手元に目線を戻した土方の、その首筋の跡にそっと指を這わす。
ほんの僅かに身じろいだ、それと同時に同じ場所に口付けた。
今度ははっきりと反応。
「山南さ…っ!」
体をこちらに向けるその力を利用して、畳に押し倒した。
頭を打ったらしくほんの少し顔をゆがめるが、変わらない口調で。
「…で…何がしたいんだ」
変わらない表情で。疑問形では無く、確認するような言葉。
「土方君。君を寝かし付ける役の山崎君は今夜いないと…そう言ったね?」
「ああ」
もう後には引けない。
「その役を、私がやろうと思うがどうだろう」
「…好きにしろ」
そう言って目を閉じた、その真意がなんなのか…-----。
山南には解らなかった。
後始末をし、土方を布団に寝かせた山南が、その部屋の障子を閉めた時、月はかなり傾いていた。
あの後。着物の下から現われた白い躯にも、あの紅い跡は点々と付いていて、それが妙に許せなくて随分酷い事をしたと思う。
それでも、そうした事を喜んでいる自分も確かにいて、なぜだか無性に笑いたくなった。
そして思う。
彼も、こんな自分の事を笑っているのでは無いかと。
月を見上げる。
人を狂わせる月。白い月。
人を狂わせる、白い…。
鬼が醜いなど、誰が言ったのだろうか。
山南が知る鬼は醜くなど無く、むしろとても美しくて。
捕まれば最後、逃げる事が適わなくなる。そう知っていても。
「もう、逃げられないかもしれないな…」
山南はそう呟くと、自室の障子を、月の灯りが入らぬ様に、ぴたりと閉じた。