julaさんのメール
jula です。
ロックさん。
「欲の昇華」
について私なりの解釈など。
元の大元の神様は、喜び、歓喜、弥栄で全て包んでしまうようです。
内側(霊的なもの物質的なもの問わず)より緻密にしていきつつ、神界、霊界、物質
界とも拡大もしていきたい。
それがゆえに3つの大元の神を産み(それとも分かれたのでしょうか?)
産まれた神からまた更に分かれて行きを繰り返し、物質世界での神の入れ物となりう
る、人民、臣民を育んでいるように思えます。
神示では幽界があまりよろしくないところのように書かれています。
一方で善悪は両方必要とも言っているようです。
サタンが為すであろうことも、元の大元の神様の意向に適うように、配下の神が、予
め予定調和的に仕組んでいたもののように思えます。
スケール大きすぎとなってしまいますが、まさに必要悪なのではないかなと思いま
す。
ナルとは成る言(コト)ぞ。
成るは表、
主(曰(シ)ゆ)ぞ。
ウムとは (ウム)のこと。
生むは裏、従(二ゆ)ぞ。
ナルは内、ウムはソト。
ナルには内の陰陽合せ、
ウムにはソトの陰陽合せよ。
成ると生むは同じであるぞ。
違ふのぢゃぞ。
成ることを生むと申すことあるぞ。
生むこと成ると見ることあるぞ。
ナルとは (ナル)こと、
自分が大きく成ることぞ。
自分の中に自分つくり、
内に生きることぞ。
ウムとは自分の中に自分つくり外におくことぞ。
このこと判れば石屋の仕組判る。
(十一月裏四日)
一二十
黄金の巻 第047帖 (558)
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なりなると申してあろうが。
なると申すのは内分は同じであるが、形の変ることであるぞ。
ウムとナルとは同じであって同じでないぞ。
夏の巻 第05帖 (722)
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ウムと申すことは、自分をよりよく生長さすこと。
一つ生めば自分は一段と上に昇る。
この道理わかるであろうがな。
産むことによって、自分が平面から立体になるのであるぞ。
毎日、一生懸命に掃除してゐても、何処かにホコリ残るもんぢゃ。
まして掃除せん心にホコリつもってゐること位、誰にでも判ってゐるであろうが。
神示で掃除せよ。
大病にかかると借金してでも名医にかかるのに、
霊的大病は知らん顔でよいのか。
信仰を得て霊的に病気を治すのは、
一瞬には治らんぞ。
奇跡的に治るとみるのは間違ひ。
迷信ぞ。
時間もいり手数もいる。
物も金もいる。
大き努力いるのであるぞ。
取違ひ多いのう。
夏の巻 第09帖 (726)
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●極端な解釈をしてしまえば、産めや、増やせや、といったとこでしょうか?
じたばたしながらも生み出していくことで、見えてくる、分かってくることも色々あ
るとおもいます。
解釈がらみでも色々成果になっていると思います。
産まれた子供見ていても、自分や嫁さんに似ているところはあっても微妙に違うな〜
などと思えます。
ジタバタトライ&エラー繰り返していくことで、ある一定の完成、成果としてのナル
となり、やがては無限に繋がっていくというところではないでしょうか?
「事を動かす、進展させる、展開させる作用が強い悪の御用も必要」
という感じなのだと思います。
悪の御用を含めて、各々の得意とするところをもって事にあたっていきな
さい。
そうやって見ていくと、為さない、止める、やめさせる、滅する、といったことが、
歓喜、弥栄から遠いことと思えてきます。
因みに“昇華”で検索すると以下の帖がヒットしました。
ひふみ神示 第十七巻 地震の巻 第七帖 384
昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年) 384
地上には、地上の順序があり、法則がある。
霊界には、霊界の順序があり、法則がある。
霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上に
はうつし得ず、結果し得ないのである。
また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。
しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩
序され、法則され、統一されているのである。
その秩序、法則、統一は、一応 完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。
故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである。
これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もある。
しかし、これこそ善を生かして、更に活力を与え、悪を浄化して必要の悪とし、
必然悪として生かすのである。
生きたる真理の大道であり、
神の御旨なることを知り得るのである。
本来 悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らね
ばならない。
これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である。
一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、
一の天界は、極めて低い囚われの水の世界
であったことを体得する。
更に一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。
地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、
三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、
二の天界は悪に感じられる場合が多い。
悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、
この実状を感覚し分け得た上、
体得する霊人は極めて少ない如く、
地上人に到りては極めて稀であることを知らなくてはならない。
悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは原因の世界より伝えられたる一つの因果であると云う平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べた処で明白
となり、己を愛するは、先ず悪の第一歩なりと考える、その考えが悪的であることを
知らねばならぬ。
来るべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。
しかし、それが最高の理想郷ではない。
更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つ
世界が訪れることを知り、努力しなければならぬ。
地震の巻 第07帖 (384)
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ひふみ神示 補巻 月光の巻 第五十二帖 839
昭和三十四年三月三日、旧一月二十四日(1959年) 839
そなたはつまらんことにいつも心を残すから つまらんことが出てくるのであるぞ。
心を残すと云うことは、霊界とのつながりがあることぞ。
つまらん霊界にいつ迄くっついてゐるのぢゃ。
何ごとも清めて下されよ。
清めるとは和すことであるぞ。
同じもの同士では和ではない。
違ったものが和すことによって新しきものを生むのであるぞ。
奇数と偶数を合せて、新しき奇数を生み出すのであるぞ。
それがまことの和であり清めであるぞ。
善は悪と、陰は陽と和すことぢゃ。
和すには同じあり方で、例へば五と五との立場で和すのであるが、
位に於ては陽が中心であり、
陰が外でなければならん。
天が主であり地が従でなければならん。
男が上で女が下ぢゃ、
これが和の正しきあり方ぞ。
さかさまならんぞ。
これを公平と申すぞ。
口先ばかりでよいことを申すと悪くなるのぢゃ。
心と行が伴はねばならん。
判りきったこの道理が行はれないのは、
そなたをとり巻く霊の世界に幽界の力が強いからぢゃ。
そなたの心の大半を幽界的なもので占めてゐるからぞ。
己自身のいくさ まだまだと申してあろうがな。
このいくさ中々ぢゃが、
正しく和して早う弥栄結構ぞ。
そなたのもつ悪いくせを治して下されよ。
そのくせ治すことが御神業ぞ。
自分で世界を建直すような大きこと申して御座るが、
そなたのくせを治すことが最も大切な御用でないか。
これに気がつかねば落第ぞ。
おそれてはならん。
おそれ生むからぞ。
喜べ、喜べ、喜べばよろこび生むぞ。
喜びは神ぢゃ。
神様御自身も刻々弥栄して御座るぞ。
故にこそ生長なされるのぢゃ。
人間も同様でなくてはならん。
昨日の自分であってはならん。
今の自分ぞ。
中今のわれに生きねばならん。
われにどんな力があったとて、
我を出してはならんぞ。
我を出すと力なくなるぞ。
我を、大き我に昇華させよ。
大我にとけ入らねばならん。
大我にとけ入ったとて、小我がなくなるのではないぞ。
人おろがめよ。
物おろがめよ。
おろがむと自分の喜びとなり、
拝まれたものも喜びとなるぞ。
うれしうれしとはそのことぞ。
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トッチさんのメール
トッチです。
ロックさん、お疲れ様です。
神示風に言えば
「欲もあってはならん」
「無くてもならん」
となるのでしょうかね。
外国の風潮とは単純に海外の文化と言う事ですよね。
神示ばかり読んでいると、外国が幽界と一緒にされているあの外国に見えてしまいます。
これも解読習慣病?
むか〜しですが、共産主義と資本主義について友人と話たことがあったのですが、友人は共産体制を良しとしていました。
それに対し私は、
「理想としては良いかもしれないが、人間に我欲がある限り共産体制は不可能だ」
と言った事があります。
欲があると成り立たない世界。
かといって破壊と生産のもとに成り立っている資本主義も頂けません。
これもむか〜しですが、会社の人間に、
「もしも日本が共産主義国だったらどう?」
と聞いた事があります。
答えは
「競争が無ければ張り合いは無いし、つまんない」
「意欲が出なくなるんじゃないの」
でした。
こちらは欲が無ければ発展は無いと言うことになりそうですね。
これを神示に言わせれば資本主義も共産主義も、
どちらも偏りすぎの片輪となります。
では、どんな状態が良いのでしょう。
神示ではミロクの世となります。
では、ミロクの世とは?
そこで生きるためには何が必要?
ここから考えていけば何かが見つかるのではないでしょうか。
私も「欲の昇華」に付きましては、まだまだ勉強しなければいけないようです。
って、結論を避けてこんな事しか言えなくてスミマセン。。。
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ロックさんのメール
ロックです。
julaさん、こんにちは。
この部分は、自身の現在抱えている課題の部分とも直結することでもあるので、ちょっと考えてしまっています。
作る喜びや達成した喜びの様な精神的な「喜」を与えられるものであるのなら、
欲を昇華するのにいいのかなとも思います。
でも、これは支配層の方々も、わたしたちから見たら良し悪しはあると思いますが、作るときに感じるような
精神的な「喜」は持っていると思います。
サタンもそれは持っていると思います。
この時代ですから、必要悪の立場のような方々が、
自らの「喜」のために行うことで世相が暗くなればなるほどその反面
「喜」を感じる手段もあるでしょう。
ただ「誠を通じたものなら、その爽快さが引き立つ事が出来て、持ち得た欲を昇華することも出来るのでは」
という考えを現時点では持っています。
心の部分は、それらがうまく行けば行くほど鍛えなければいけない事も数多く発生すると思いますが、自分も喜べて、みんなも喜べるような物を作りたいものです。
欧米では虫の鳴き声が雑音と感じ、日本ではそれは風流と感じる精神的な部分などにヒントがある気がします。
この問題は難しいことですが、きちんと向かいあいたい事です。
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