【参考資料 その他‐1】
T4作戦
虐殺の持つ組織性・計画性
理由なき殺人―ホロコースト
一掃されなかったナチス
歴史決議

 


 

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 T4作戦
■「アウシュビッツと〈アウシュビッツの嘘〉」 ティル・バスティアン著 石田勇治 他編著 白水社 1995年 P22〜24
 ナチの絶滅裝置が殺人の「試運転」を行ったのが、いわゆるT4作戦であった。この名は、作戦の拠点がティーアガルテン通り 四番地の屋敷にあったことから、その頭文字をとってこう呼ばれた。T4作戦の目的は、数千人の心身障害者を殺害することにあった。 つまり、ヒトラーは一九三九年十月末、「総統祕密布告」(ただし日付は九月一日)を発し、「特命を受けた医師の権限を拡大し 、診断の結果もはや治る見込がなく、その病状が重篤と判断された者には尊厳死を施す」ことを認めたのである。もちろん、実際に 行われたことは「尊厳死」などといえるものではなかった。すでに十月九日には、その夏に設立されたばかりの「帝国治療・療養施設研究チーム」が、病院や療養所の医師たちに安樂死に関する申告書類を送り始め、医師は記入を義務付けられた。そして、返送された書類は鑑定官が手分けして目を通し、余計は一切書かずに、ただ「はい」「いいえ」あるいは「不明」と記入した。「はい」は、ガスによる死を意味した。その場合、まず当該患者を施設に連行する準備命令がだされる。車内にカーテンをひいたバスが来て、そこから六ヵ所(ハーダマー、グラーフェネック、ベルンブルグ、ブランデンブルグ、リンツ近郊のハルトハイム、ピルナ郊外のゾネンシュタイン)の殺人施設に送られた。そこのガス室はシャワー室であると偽られていた。施設の職員たちは兵舍に住み、特別手当を支給され、酒類を十分にあてがわれた。施設には付属の「弔文局」があって、犠牲者の身内に偽りの弔電を送っていた。

(中略)

 のべ八万から十万の病人や心身障害者がこの殺人作戦の犠牲となった。ヒトラーは一九四一年八月二十四日、突然T4作戦の 中止命令を下した。だが、その動機ははっきりしていない。



 虐殺の持つ組織性・計画性
■「南京事件」 秦郁彦 中公新書 1986年 P186〜187
呼称の由来をあたってみると、事件を最初に報道した英人記者のティンパーリーは "Japanese Terror" (訳語は「日本軍の暴行」) と表現しているが、一般的には「南京アトローシティ」が使われたらしい。
 日記に基いて書かれた当時の外務省東亜局長石射猪太郎の回想録に、「私は当時から南京アトローシティと呼んでいた……」 (『外交官の一生』三〇六ページ)とあるのが有力な裏付けになる。
 しかし英和辞典を調べてみると、「アトローシティ」(atrocity)という英語は広く残虐行為を意味し、虐殺と同義ではない。 虐殺には massacre という、より適切な英語があり、西洋史では「セント・バーソロミューの虐殺」や、 アメリカ独立戦争の發端となった「ボストンの虐殺」(Boston Massacre)が 著名だが、後者で殺されたのはわずか数名である。第二次世界大戦では数百万人のユダヤ人をガス室に送った 「アウシュビッツの虐殺」や数千人のポーランド人青年将校を集団殺害した「カチンの森の虐殺」が知られている。
 してみると、”虐殺”は、殺された人数の多少よりも、事件全体の性格、とくに組織性・計画性にかかわる概念らしいと見当がつく。 現在でも欧米ではアトローシティかレープを使うのが一般的で、ディック・ウイルソンの近著『虎が戦う時』(When Tiger fight)には Rape of Nankng とある。レープは法律用語としては「強姦」だが、広義では各種の「暴行」を意味する。
 ついでに書くと、中国では「(大)屠殺」と呼んでいる例が多いようだが、これも”虐殺”にふくまれる組織性・計画性のニュアンスは希薄 である。
 わが国の「大虐殺派」は「西のアウシュビッツ、東の南京」と好んで並べるが、この二つは本質的に別物と考えるべきだろう。



 理由なき殺人―ホロコースト
■「異なる悲劇 日本とドイツ」 西尾幹二 文春文庫 1997年 P22〜23
 ヒトラーは外国に侵略し、そこを支配する統治目的からみてそうする必要がなにもなく、 その口実すらないときでも、おびただしい数の人間を殺害しているのである。これがどうしても理解 できない最も深い謎である。大量殺戮は実際上の観点からみても彼の軍事的利益に反していた。 毎日のように全ヨーロッパから犠牲者を集め、強制収容所へ送りこむ大量輸送は、軍事物資や兵員 を補給する車輛をそれだけ奪い、ことに戦争末期には相当な負担を強いたはずである。しかし末期になれば なるほどこの非軍事的努力のほうが加速された。アウシュビッツにガス室が設営されたのは一九四二年 以降である。
 大量殺戮はヒトラーの軍事的利益に反しただけでなく、政治的利益にも反している。連合国側は通例 の戦争犯罪とは異なる犯罪が巨大規模で行われている情報を得て以来、外交交渉による平和的妥結 をあきらめた。とことん勝利し、ヒトラーを裁判にかけるのでなければ、決著が図れない。このとき戦争 目的が変わったのである。連合国側は正義の戦争の大儀名分をわがものにした。もしヒトラーの軍隊が 、ソヴィエトを共産主義から解放するという明白な目的に従って行動し、それ以外の不可解な犯罪を犯して いないとしたら、ソヴィエトを除く連合国側は、判断に苦慮し、ヒトラーとなんらかの取引きをしたかもしれない 。否、ソヴィエトの領内からさえドイツ軍を解放軍として歓迎する動きが出てきたかもしれない。ヒトラーは ある点では政治的嗅覚の鋭い天才である。そんなことが分からなかったはずはない。しかし、政治的計算 よりも、殺人のよろこびのほうが彼を圧倒した。理由なき殺人―彼にはむろん理由があるが―への 果てしない誘惑に彼は屈した。
 以上のとおり、ナチスの犯罪は通例の戦争犯罪とは別物であったと理解されなくては、その本質を見誤る ことになろう。



 一掃されなかったナチス
■「一掃されなかったナチス 」 八木茂 「諸君!」94年2月号(「異なる悲劇 日本とドイツ」 西尾幹二著 P91〜93)
「(アメリカはニュルンベルク裁判の後、対ソ冷戦に役立つ科学者や諜報部員など、自国に有益なナチを選り分け、特赦した上で) ナチ戦犯の浄化作用をドイツに任せることにした。というのは、ニュルンベルク裁判と併行して公職追放者リストを作成するために調査に乗り出したのだが、約千二百万名に上るリストが山積みされお手上げとなったのである。ドイツの人口は六千万だったので、女子供老人を除けば大体二人に一人は大なり小なりナチ協力者という内訳であった。常識的に考えると、国民はすべてナチに協力したのだから、罪としては大同小異、公職追放リストを作成する者も当然ナチであった以上、誰が誰を裁くのか支離滅裂であった。
 戦後一年経った時のドイツの世論調査によると(一九四六年)、ナチの過ちを列挙しても結論として肯定している者が六〇%であった。さらに、ナチのユダヤ人虐殺の下手人達、その裁判官達はすべて行為が記録されているにも拘らず裁くことは全く不可能であった。
 ドイツ刑法第二二一条に明記されている殺害の動機、殺人欲、性的欲望、物品金銭所有欲……その他低級な動機が細々と列挙されているが、どれもナチのユダヤ人殺害に該当するものがない。
アウシュビッツが如何に残酷であろうと、前代未聞の殺人国家の従業員である下手人達の大量生産的な組織の中での行動は、どこを押しても法的に尻尾をつかむ何の手懸りもなかった。
 一九五二年国連総会で決議された『民族絶滅の犯罪処罰協定』に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)も署名し、それは翌年のドイツ刑法二二〇条の別項に生かされることとなったが、ドイツの憲法第一〇三条によれば、新法は過去に遡って適用出来ないので、ナチ犯罪者達は憲法によって護られている形である。さらにナチにとって安全なのは、ドイツの刑法では例えばナチ政権が規定した法律条項に従って事を運んだ時、それがナチ時代に合法的であったならば、たとえ犯罪的な人道にもとる事であっても断罪は許されないのである。だから、例えば東欧のユダヤ人狩りで辣腕を振ったアイヒマンや、リヨンの鬼バルビーなど、所詮ドイツでは裁判にもかけられない人達なのであった。
 特にナチの手足となって、多くの善男善女を死に駆り立てたナチ法廷の裁判官達は、唯の一人として断罪されていない。否それどころか、戦後もそのような鬼裁判官や検事達は返り咲いて、ドイツ連邦裁判所の裁判官になった人も幾人かいるし、検事総長とか判事会総裁などナチの法服をそのままドイツ連邦の法服に着替えて活躍している者も少なくなかった。
 確かにフランクフルトでもデュッセルドルフでも、残虐行為に関する裁判は行われた。だがそれはナチ時代の法に照らし合わせて、当時合法的であったかどうかの基準で裁かれたのである。例えばガス室に連れて行かれる人たちを途中で殴ったり蹴ったりして傷を負わせたとか、子供を乱暴に扱って苦しめたとか、どうせ殺される人達にとってどうでもいいような罪状で、一番下級の現場の者だけが裁かれた。
 数百万のユダヤ人やジプシー、それに捕虜や政治犯、ナチ抵抗者、そういう人達を殺害する事を決定した裁判官。死に至るキャンプへの狩り出し、輸送を指揮した者。ガス室を設計したり、人体実験の施設を作った者。そこで非人道的研究に携わった者達―それらの人達は、先の理由でドイツでは裁いたり、断罪出来なかったのである。



 歴史決議
■建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議
 http://www.panda-mag.net/keyword/ra/rekishiketsugi.htm
81年6月27日から29日まで北京で開催された第11期6中全会で決議された。決議では、毛沢東の功績と毛沢東思想を基本的に肯定したうえで、実事求是の立場で、建国以来の32年間の功罪を評価した。

(中略)

 決議の核心は毛沢東が発動した「文化大革命」と、毛沢東の「プロレタリア独裁の下での継続革命論」の否定だった。「文化大革命はいかなる意味でも革命や社会進歩とはいえない」とし、「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党と国家、各民族人民に重大な災難をもたらした内乱」と断罪するとともに、「毛沢東同志は偉大なマルクス主義者だった。文革では重大な誤りを犯したが、その功績は誤りよりも大きい。功績第一、誤り第二」とした。




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