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人材
 一般に幕府は保守的・門閥主義的であると思われがちであるが、実際には薩摩や長州に比べても遥かに柔軟な人材登用を行っている。
 その一例が大鳥や榎本であり、幕府は開国以来蘭学や外国語に通じた人材であれば、町医者や町年寄といった本来官職外の人材でも積極的に旗本に取り立てた。しかし、彼らによって政権が担当されることは決して無く、彼ら新進気鋭の官僚は何時も不十分な環境で仕事をせざるを得なかった。特に保守派・改革派の政争の影響で、新設官職の設置と閉鎖を繰り返した為、各々の分野を深く徹底して研究する事が出来なかったのは、大きな痛手であったと言っていいだろう。


*幕末期の幕府要人

阿部 正弘 安藤 信正 板倉 勝靜 稲葉 正邦
伊庭 八郎 榎本 武揚 大久保 一翁 大河内 正質
大鳥 圭介 小笠原 長行 大給 乗謨 小栗 忠順
男谷 信友 ■■■■ ■■■■ ■■■■
勝 海舟 木村 芥舟 窪田 鎮章 栗本 鋤雲
■■■■ ■■■■ ■■■■ ■■■■
徳川 家茂 徳川 慶勝 滝川具挙 竹中 重固
永井 尚志 沼間 守一 ■■■■ ■■■■
一橋 慶喜 人見 勝太郎 古屋 佐久左衛門 堀田 正睦
牧野忠恭 松平容保 松平定敬 松平 忠敏
松平 太郎 松平慶永 ■■■■ ■■■■
山岡 鉄太郎 ■■■■ ■■■■ ■■■■
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阿部 正弘 あべ まさひろ(1819.10.16〜1857.6.17)
 備後福山十一万石藩主。伊勢守。早くから開明的思想を持ち、諸外国の開国要求に対して諸侯や幕吏に広く諮問して門閥の打破と幕政の改革を目指した。
 水野忠邦の後を受けて老中に就任した。以後、海軍の開設や洋学所の設置など改革を進めた。また改革派諸侯の最先端である島津斉彬とは友人である。しかし、過労の為安政四(1857)年、三十八歳の若さで病死した。
 端正な容貌と温厚な性格を以って知られ、人の意見を良く聞き、自分と違った意見の持ち主でも排斥せず、長所のみを認めて使った。ただその一方で世間からは色好みと見られる事が有ったらしく、夭折した際にも「若い妾に溺れて腎虚で死んだ」等と誹謗された。
阿部定弘

安藤 信正 あんどう のぶまさ
 磐城平藩四万石藩主。長門守。美男子と俊才で知られる。
 寺社奉行時代、遊女を買った僧侶を調査する事になったが、遊女が上得意の僧侶を売る筈も無く、捜査は難航した。そこで安藤は御白洲に遊女を呼び付け、直接に訊問する事とした。安藤の質問にも遊女は口を割らなかったが、安藤は砕けた調子で郭言葉を使って訊問。安藤の美男子振りと世情に通じた様に遊女は惚れ惚れとしてしまい、僧侶の罪を全て白状した。
 この功績で安藤は老中に昇進し、幕政に携わる事になる。幕末には、和宮降嫁を実現して公武合体を推し進めたが、それによって尊王攘夷派の恨みを買ってしまい、坂下門外で浪士達に依る襲撃を受けた。安藤は慌てて籠を捨てて逃亡したので、士道不覚悟として老中職を免ぜられた。

板倉 勝靜 いたくら かつきよ(1823.1.4〜1889.4.6)
 松平定信の孫に当たる、温厚だが頑固な紳士。板倉勝静
 譜代の名門板倉氏(備中松山五万石)を継ぎ、伊賀守を称した。藩政においては「松山の新井白石」と呼ばれた陽明学者・山田方谷を信任して大いに治績を上げ、十万両の借金を抱えた松山藩を十万両の貯蓄を持つ雄藩に生まれ変わらせた。
 幕政においては開国派の最古参とも言うべき人物で、早くからその才能を評価され、幕府の要職を歴任した。国内思想は穏健な公武合体派で、文久元(1861)年に老中に就任したが、元治元年天狗党事件に巻き込まれて失脚した。その後、第一次長州征伐に従軍。慶応元年、家茂の要請で老中・勝手掛に復職し、一橋慶喜を助けて外交・内政の実務に就いた。但し実務に当たっては保守的であり(幕末には参勤交替が廃止されるのだが、板倉はこの時強硬に反対している)、幕政改革を推し進める一橋慶喜とは時に鋭く対立した。
 また紳士だけに腹芸が出来ず、第二次長州征伐に際しては大久保一蔵に良いようにあしらわれ、薩摩の協力を引き出せずに終わってしまった。
 大政奉還にも内心は不満を抱いていたと云い、鳥羽伏見の戦いに際しては強攻策を献じて開戦のきっかけを作った。しかし敗戦が決まると慶喜と共に大坂城を脱出。戊辰戦争では、隠居して奥羽越列藩同盟・箱館政府にも参加した。箱館渡航の際、榎本艦隊では従者は3名までと決められていた。そこで桑名・唐津・松山藩士らは編成を解いて新選組に入隊して乗船したが、松山藩士はその際「新選組に参加するのは船に乗る為の方便で、箱館では旧藩主の許に戻る」と言ってしまった為に土方の激怒を買ってしまった。
 箱館政府に参加した時点で、勝静の行動は新政府に知られる事となり、新政府は岡山藩・浅尾藩等の近隣諸藩に松山藩攻撃を指示した。留守を預かっていた方谷は逸早く恭順し、藩士西郷熊三郎を派遣して勝静にも降伏を勧めた。板倉は降伏を認めなかったが、西郷は一計を案じてプロシア商船の船長ウェーウを1万$で雇い、板倉を晩餐に招待させた。そしてそのまま仙台に連れ返り、そこで別の船に乗り換えて東京に帰還した。事此処に至って漸く板倉も新政府に降伏し、安中藩に永隠居となった。
 戦後は慰霊に務めたが、一橋慶喜に対してだけは厳しく批判したと云う。
 新選組に対しては好意的であり、しばしば将軍から極秘の任務を仲介して来る。

 

稲葉 正邦 いなば まさくに(1834〜1898)
 淀藩十万二千石藩主。
 稲葉氏は春日局の三男稲葉正勝を開祖とする名門で、また淀藩は畿内で最も有力な譜代大名であった。藩主は主に幕府での老中や所司代等の要職を務める一方、内政は全て城代家老の田辺氏が担当する事になっていた。
 正邦は二本松藩丹羽氏からの養子であり、清新な志を持って改革に臨んだが、保守的な城代家老田辺権太夫の抵抗に遭って挫折。以来、田辺氏とは不仲となったと言われている。
 文久三(1863)年から元治元(1864)年に掛けて京都所司代を担当したが、余り実績は無く、八月十八日の政変でもクーデターの報告を聞いて吃驚してしまうほどであった。それでも、その功績で老中・海軍総裁に就任し、一橋慶喜の数少ない味方として彼を支援。主に国内事務総裁として将軍不在の江戸城を統括した。
 但しこうした華々しい活躍とは裏腹に藩政の掌握は遅々として進まず、第二次長州征伐が勃発すると淀藩からも兵を派遣しようとしたが、またも田辺氏の反対によって中止された。
 鳥羽・伏見の戦いにおいては、正邦は引き続き江戸城にて留守を担当。淀城は幕府軍の根拠地として陸軍奉行竹中重固らが駐留して指揮を取る等活用されたが、途中で国許の家臣達が主君の意向を無視して官軍を城内に引き入れて旧幕府軍を締め出した為、旧幕府軍は壊乱して大坂城に退却する羽目に陥った。
 これらの報を江戸で聞いた正邦は老中を辞任して淀に退去し、恭順した。維新後は子爵に叙され、田辺氏は鳥羽・伏見の戦いの初期において幕府軍に協力したと云う言い掛かりに近い理由で切腹に処された。

 

伊庭 八郎 いば はちろう(1843〜1869.5.12)
 秀穎(ひでさと)。奥詰300俵10人扶持の上級旗本。旗本である心形刀流宗家伊庭氏の嫡男であり、免許皆伝の腕前。美男で剣の天才で、体付きは役者の様だったが意外な底力がある。性格は明朗で、徳川氏に対して強い忠誠心を抱いている。
 若い頃から試衛館道場に出入りしており、近藤周助に盛蕎麦をご馳走になっていたと云う。尤も、蕎麦とセットになっている老人の軍談講釈が始まると、こっそり抜け出してしまったと云うから、抜け目が無いと云うか何と云うか……その他にも、土方と共に周助老人に遊郭に行く為の小遣いをねだったりと、試衛館の面々とはかなり縁の深い友人関係を結んで居るようだ。
 十四代将軍徳川家茂が大坂に下向すると、奥詰剣士として随行。将軍死後もそのまま大坂に留まり、奥詰が遊撃隊に改変されると遊撃隊隊士となった。
 鳥羽伏見の戦いでは常に遊撃隊の先頭を駆け、薩摩藩の野津鎮雄から「幕軍流石に伊庭八郎あり」と賞賛された。その際、銃弾を受けて負傷。鎧が固かったので弾は通らなかったが、吐血して江戸に後送された。その後、遊撃隊副長に昇進。箱根で官軍を迎え撃ったが敗北。その際、失意の余り呆然とした所を小田原藩の高橋蒔太郎と云う平凡な腕前の藩士に左腕を切り落とされた。但しこれには別の説もあり、返し技と小手斬りを得意とする剣術流派・雖井蛙流を使う鳥取藩士梶浦清蔵の見事な小手を受けたとも言われて居る。
 しかしこうした逆境にも屈せずに函館戦争まで転戦し、最後は五稜郭で療養中に砲弾を受けて戦死した。
 家柄、容姿、剣術、忠誠心何れもずば抜けている為、よく小説等に半ば無敵のヒーローとして取り上げられるが、実際には戦略・戦術的才能や人を纏める力に欠けており、遊撃隊の隊長選挙でも人見に負けて副長止まりだったりする。
 新選組には好意的で、あらゆる面で協力してくれる。
伊庭八郎

 

榎本 武揚 えのもと たけあき(1836.8.25〜1908.10.26)
 釜次郎、和泉守。父の代に100俵取り御家人になり、少年時代には昌平坂学問所、中浜万次郎の私塾等に通って和漢の学問を学んだ。また青年時代には長崎海軍伝習所で海軍技術を身に付け、後に軍艦操練所教授方出役に配属された。文久2(1862)年6月から慶応3(1867)2月にかけてオランダに留学して、海軍軍制について深く学び、幕府海軍一の智者と称される。帰国後は軍艦頭並として開陽艦長となり、以後幕府崩壊の中で海軍副総裁に就任して幕府艦隊を掌握した。以後、過激な主戦論を唱える。
 しかし、新政府が江戸を占領すると幕府艦隊・幕府歩兵等を糾合して「榎本艦隊」を創設、更に厳しく新政府に対抗した。最終的には蝦夷五稜郭に独立国家を建設し自ら総裁となったが、新政府軍に滅ぼされた。
 榎本は幾つかの逸話と共に降伏し、以後は明治政府の重要な技術官僚の一人として活躍した。この事から、彼を責める人々も多く、卑劣な裏切り者として評価される事も多い。性格は豪快だが、優柔不断な面も合わせ持つ。
榎本武揚(五稜郭時代)

   

大久保 忠寛 おおくぼ ただひろ(1817.11.29〜1888.7.31)大久保忠寛
 隠居して一翁(いちおう)と号す。500石取り名門旗本出身の温厚な官僚。洋学に通じ、海防掛、軍制改正用掛、蕃書調所頭取、外国貿易取調掛等の要職を歴任。一時期京都町奉行に就いたが、安政の大獄に際して尊皇派志士に理解を示した為、逆に免職された。
 文久元(1861)年に外国奉行に復帰。翌年、将軍家茂の上洛に従って上京する中で一橋慶喜と出会う。此処で、彼は「幕府が攘夷を出来ないのであれば、政権を返上して一大名に戻り、攘夷の先駆けとなろう」と大政奉還論を主張し、朝廷よりの幕政改革を志していた慶喜の信任を得た。以後、慶喜の元で大目付、側御用取次等の参謀的なポストを務める。
 政局に対しては内戦とそれに伴う外国の干渉を怖れ、幕臣ながら公儀政体を主張。よって主戦論を唱える新選組に対しては、その凶暴さをかなり批判的に見ている。
 維新後もその知識を買われて初代東京府知事や議員となった。

 

大河内 正質 おおこうち まさただ(1844.05.27.〜1901.06.02.)
 松平豊前守とも。上総国大喜多藩二万石藩主。大河内家は家康以来続く名門家系であり、正質も若年寄として一橋慶喜の側に仕え、洋式陸軍の建設に尽力した。どうも若いだけに物怖じしない性質であったらしい。
 慶応三(1867)年三月に大坂城でシャノワン以下のフランス陸軍教官団と酒を飲んだ時には大いに歓談し、特にブリュネー大尉の金の飾りの付いた長靴にすっかり惚れ込み、是非履かせてくれと頼み込み、遂には長靴を譲って貰ったと云う。また十二月十二日、幕府首脳が京都から撤退する途上でアーネスト・サトウに出会った際には、他の老中達が憔悴してサトウに気付きもしなかったのに対して、彼だけは快活に挨拶をしたと云う。
 十二月十五日、大坂城で老中に昇進。鳥羽伏見の戦いには全軍司令官たる「総督」として淀本営に入ったが、淀藩の裏切りにあって大坂城に退却した。大坂城では密かに退去した慶喜に置き去りにされてしまい、退却の指揮を執るでも責めを負って自刃するでも無く自失呆然。後の任務を「大坂城仮留守監察」妻木多宮頼矩に任せて退去した。妻木は工兵の過失に見せかけて大坂城に放火して焼き払い、辛うじて徳川家の面目を保った。
 維新後は一時陸軍に奉職、陸軍少佐に就任したが、間も無く引退して東京都麹町区長・貴族院議員等を務めた。

 

大鳥 圭介  おおとり けいすけ(1833.2.25〜1911.6.15)大鳥圭介
 播磨国赤穂在赤松村の村医者小林直輔の息子。少年時代に、先ず備前の閑谷塾で漢学を、次いで大坂の適塾で蘭学を学ぶ。ペリー来航後、医学よりも兵学を志し、江川太郎左衛門英敏に師事。更に横浜で宣教師トムソンから英語を習得した。こうして洋学のエリートコースを歩む彼を、師の江川は幕府に推薦、こうして赤穂の村医者は一気に百石二十人扶持の堂々たる幕臣となった。
 幕府には最初翻訳者として雇われたが、やがて伝習隊付属の歩兵指図役、最終的には歩兵奉行に取り立てられた。100石20人扶持。その学才は広く知られ、幕府が崩壊すると一躍陸軍の重鎮に推載された。江戸開城後は、宇都宮、日光を経て会津に転戦した。会津藩が籠城体勢に入ると仙台に逃れ、榎本艦隊と合流して函館政府に参画した。函館政府では陸軍奉行として土方の上司となった。この頃の彼の指揮は必ずしも名将とは云えず、土佐藩の名将板垣退助に「大鳥は攻めてくる時にもわざわざ道普請をして攻めてくるので戦いやすい」等と嘲笑われたが、不思議と兵士達に慕われた。負けても余りくよくよせず、追い詰められたらさっさと降参してしまう軽さが、兵士達に好かれたのだろうか。
 ただ断って置かねばならないのは、司馬遼太郎が「燃えよ剣」で土方のヒーロー性を高める為に叩きまくった大鳥は、史実の大鳥とは違う、飽くまで小説の人物で有ると云う事である。土方等の実戦叩き上げが中隊長・小隊長クラスならば、此の鷹揚さは連隊長・師団長の資質と云えよう。実戦でも、彼は後方から良く軍隊を指揮し、江戸から奥州に到る飢餓街道とも云うべき道のりでも決して兵を略奪に走らせず、解散させもしなかった。此こそ「道普請」の効能であろう。ただ惜しむらくは、当時の日本人には(今でもそうか(^^;))前線絶対主義・叩き上げ信仰とでも云う妙な発想があって、その為彼の冷静な判断は評価されず、同時代人からは臆病者、後世からは無能物、土方ファンからは足手まといと罵られている。
 五稜郭開城に際しては、自決を計る幹部一同に対し、「死ぬのはいつでも出来る。此処は一番降伏としゃれ込もうか」と提案し、死ぬことなく捕虜となった(この辺の軽薄さが、悲壮な死を重んじる新撰組ファンの神経を逆なでし、先に述べたような不当な評価へ繋がっていくのかもしれないが……)。その後、三年間の虜囚生活を経て明治五年に赦免。明治政府から軍務に復帰するよう要請を受けたが、「敗軍の将、兵を語らず」と称して文官に就任。北海道開拓使御用係を振り出しに、五年大蔵少丞として大蔵少輔吉田清成の渡米随行、陸軍省四等出仕、工部省四等出仕、工部権頭兼製作頭、工部頭を歴任。明治九年と十三年には内国勧業博覧会御用係として殖産興業に活躍し、九年には工部大書記官、十四年には工部技監とテクノクラートとしての地歩を着実な物にしている。
 その後も、工部大学学校長、学習院長等の高級官僚としての道を歩んだが、明治二十二年には特命全権公使として清国に赴任、外交官としてのキャリアを始める。更に二十六年、朝鮮駐剳公使を兼務、まともな外交官なら「引いて」しまうような強引な手法で朝鮮・清側を押しまくった。日清戦争後、帰国して枢密顧問官。

 

小笠原 長行 おがさわら ながみち(1822〜1891)
 壱岐守。九州唐津藩六万石の世子。洋学を修め見識ある有能な人物として知られた。
 当初、唐津藩初代藩主小笠原長昌の庶子として生まれたので冷遇されたが、江戸屋敷で学問を収め、秋月種樹・本多忠紀と並んで「天下の三公子」と謳われた。安政四(1857)年九月、その才能を買われ、四代後の藩主である長国の養嗣子として政界に進出した。
 最初は奏者番に就任したが、洋学の才能を疎まれて上役から虐められた。その様は芝居の忠臣蔵の如くであったらしい。嫌気の差した長行は、持病の脚気もあり、病気療養の願いを出したが、上役は聞き入れなかった。其処で長行は、将軍に献上品を取り次ぐ際に態と転んで庭に落ち、将軍の注意を引くと、持病の脚気を訴えると同時に奏者番の悪習八ヶ条を挙げた意見書を提出した。その為奏者番は廃止され、上役は罷免された。
 その後、山内容堂の推挙に依り、改革派として老中に就任した。家督相続以前の部屋住みの身分で幕府の官職に就く等は極めて例外的な措置で、それだけに知遇に答えようと幕府の威信再興の為に奔走した。特に朝廷が長州藩に握られた一時期には洋式歩兵を率いて朝廷占拠クーデターを起こそうとさえした。第二次長州征伐では九州諸藩軍を統率して戦闘し、敗走。それでも処罰は無く、慶喜が将軍となると外国事務総裁に昇進して外交を担当した。
 戊辰戦争に際しては榎本武揚と共に函館に脱走。此処で榎本は藩主の随員は三名までと制限したので、唐津藩士は新選組に編入した。ちなみに、彼の実弟である小笠原胖之助も三好胖(ゆたか)と改名して新選組に入隊し、松前藩との戦闘で死亡している。明治二年、新政府軍の蝦夷地攻撃が始まると、榎本の意向を受けて恭順した。その後は病気と称して屋敷に篭り、一切世に出る事は無かった。
小笠原長行

 

大給 乗謨  おぎゅう のりかた(1839.11.13〜1910.1.6)
 正四位下、縫殿頭。菊間詰。名門大給松平氏で、代々三河奥殿と信州田野口に合計1万6千石を領し、三河奥殿に陣屋を構えていた。しかし乗の襲封と共に信州田野口に居所を遷し、田野口藩と名称を改めた。奥殿では全国でも希に見る程の善政が敷かれて居たので、この移転には領民からの反対運動が巻き起こったといわれている。
 乗謨は若い頃から漢文の天才と評され、幕府内では改革派・親フランス派として海陸御備向・大番頭・若年寄等を歴任し、遂には二十四歳にして老中格・陸軍総裁に就任。殊にフランス公使ロッシュにその才能を高く評価されていた。
 また、大給氏は三河時代から信州に移るまで陣屋のみで城を持たなかったが、風雲急を告げる時勢に鑑みて信州田野口に龍岡城を築こうとした。龍岡城は、規模こそ違えど五稜郭と同型のヴォーバン式の五芒星形の要塞であり、築城には実に四万両が投入された。慶応三(1867)年に龍岡城内城が完成したが、外郭は完成を見ずに明治維新を迎えた。尤も龍岡城は規模が小さく(胸壁が低く、砲台も北方に1基のみ)戦闘に用いるのは難しいので、飽くまで試作品であったとされている。その他、農兵を徴募して銃隊を編成する等軍制の改革に務めた。
 戊辰戦争が勃発すると、田野口藩は周辺諸藩と共に恭順。乗謨は謹慎処分を命ぜられ、謹慎を解かれた後は北越戦線に藩兵を送り出して官軍の一員として尽力した。
 維新後、田野口藩は改革の負担と膨大な戦費に耐えられず、廃藩置県以前に財政難を理由に版籍を返納した。乗は名を亘と改め、博愛社(後の日本赤十字社)の設立に尽力し、副社長となった。明治四十三(1910)年一月六日、老衰の為東京で死去。享年七十二歳。

 

小栗 忠順 おぐり ただまさ(1827〜1866.4.6)小栗上野介
 上野介。2700石。開祖忠政は戦国時代から家康に仕え、度々一番槍の功績を果たしたので、「又一」の名を授かった程の名門旗本。以来、代々又一の名乗りを継承している。
 そしてその当主忠順は、幼い頃からその才気と剛胆さを恐れられた秀才官僚であった。1861年に目付として日米修好通称条約批准の使節団に随行してアメリカと互角の外交をして以来頭角を現し、改革派の巨頭となった。その後彼はロシアとの外交に失敗して一時的に罷免されたが、やがて陸軍奉行・海軍奉行・勘定奉行として復帰。特に勘定奉行として苦しい幕府財政を遣り繰りして、横須賀造船所、フランス陸軍教官やイギリス海軍教官の誘致、貨幣制度や関税制度の改正と言った多くの金のかかる改革を行った。その先見の明は、彼の行った改革の殆どが明治政府に引き継がれていることからも明らかである。
 思想的には完全な佐幕派。幕府に旗本としての誇りと忠誠心を持っており、朝廷・尊王派に対しては厳しい態度を取る。特にフランスの支援を受けて幕府を再興しようと画策したが、穏健派である勝海舟の策謀によって失敗した。なおこの世界では、実は新選組も洋式化してしまおうと企んでいる。
 鳥羽伏見の戦いの後も抗戦を主張したが、徳川慶喜には容れられず、解任されて知行地に戻った。此処で農兵を訓練して時節を待つが、彼の能力と幕府への忠誠を怖れた新政府によって捕縛され、斬首に処された。

 

男谷 信友 おたに のぶとも(1798〜1864.12.27)
 精十郎。百俵高の御家人から累進し、御徒頭千石、御旗奉行、西丸御留守居役を経て三千石高まで累進した。
 直心影流の免許皆伝者で麻布狸穴に道場を開き、多数の門弟を擁していたが、性格は温厚で書画に親しみ、他流試合に臨むと必ず3本勝負のうち1本を譲ったという。また門弟には榊原鍵吉や島田虎之助と言った有名な剣士が居り、腕前と人格、指導力の全てを備えた「幕末の剣聖」と称された。
 其の腕前を見込まれ、幕府から講武所頭取兼剣術師範役を命ぜられ、設立に奔走した。彼の作った講武所は世に多くの剣客を送り出したが、所詮押し寄せる洋式化の波には抗し得ず、講武所は解体されて奥詰となってしまう。幸いにして、男谷はその崩壊に会う前、元治元(1864)年十二月二十七日にこの世を去った。
男谷精十郎

 

勝 海舟  かつ かいしゅう(1823.1.30〜1899.1.19)
 安房守。義邦。小普請組の貧乏旗本出身。西洋海軍技術に優れ、頭も切れたので軍艦奉行を務めたが毒舌家で、保守派の反感を買ってしばしば官職から外された。時代に対してずば抜けた観察眼を持ち、既に徳川幕府をいかに上手に潰すかを考えていると言う食わせ者。
 新選組に対しては、回顧録の中で「彼探索を名とし、財宝を私する事甚だしく、下民、是が為に災いを被るもっとも多し」と云っており、友好的とは云えない。しかしだからと云って敵対関係かと云うと相でも無く、三浦啓之助の依託や甲陽鎮撫隊の結成等意外な縁で繋がっていたりする。
勝安房

 

木村 芥舟  きむら かいしゅう(1830.2.5〜1901.12.9)
 喜毅、摂津守。200俵取り名門旗本出身の温厚で聡明な官僚。幕末の初期の段階で目付に就任し、幕府海軍創設に尽力。長崎海軍伝習所所長、軍艦奉行等を歴任した。特に咸臨丸の太平洋横断に際して軍艦奉行として咸臨丸に乗り込んだ。この時、福沢諭吉を自分の従者として随員に加えると言う英断を下している。
 病弱だったので、表立っては余り活躍しておらず、幕府の薩摩藩三田藩邸襲撃に際しても海軍側の総責任者でありながら襲撃を直前まで知らされていなかったらしい。結局、慌てて出動して艦隊を指揮し、脱出する鳳翔丸を追撃させたものの鳳翔丸を取り逃がしてしまった。
 

 

窪田 鎮章 くぼた しずあき(????〜1868.07.04.)
 備前守。二千石取旗本で、鎌倉時代から続き、特に戦国時代に竜造寺氏と対立して威勢を誇った「蒲池(かまち)氏」の末裔と云う名門であった。
 幕末には神奈川奉行所取締役を務めた。洋学に理解が有り、奉行所与力であった古屋佐久左衛門の『英国歩兵操典』翻訳を助けた。
 その一方で、講武所教授であった佐々木只三郎と共に清河八郎の暗殺に携わったり、今井信郎の結婚の仲人をつとめる等、講武所系の人士との付き合いも深かった。
 その後、時期は不明だが、陸軍に転じて歩兵頭に昇進。大坂で急募された第十二連隊の指揮を担当した。
 鳥羽伏見の戦いでは、第十二連隊と共に伏見方面に出陣。大いに活躍して伏見方面を支えたが、後に鳥羽方面に移動を命ぜられ、慶応四年七月四日の午後二時頃戦死した。

 

栗本 鋤雲  くりもと じょううん(1822.3.10〜1897.3.6)
 元は幕府の医官であったが、文久2(1862)年300石取り幕臣に取り立てられた。外国語・外交に精通した親仏派の秀才官僚で、最初目付に、次いで外国奉行、勘定奉行格、函館奉行に就任して、フランスの支援による幕府再興を画策した。フランス公使館通弁官カションとは友人である。幕府瓦解時にはフランスにいたが、フランスの援軍申し出を謝絶して堂々帰国。明治政府からの仕官要請にも応えずに、野にあって新聞記者などを務めた。
 新選組に対しては好意的である。
栗本鋤雲

 

滝川具挙 たきがわ ともあき(???〜???)
 戦国時代の武将滝川雄利(としかつ)の子孫で、幕臣滝川三郎四郎の子。目付、外国奉行等を経て、文久二(1862)年八月から元治元(1864)年七月に掛けて京都町奉行を務めた。その間、京都守護職松平容保と協力して京都の治安維持に務めたが、指揮下の同心達の統制には苦労したらしく、会津藩士広沢安任に「部下の同心が幾らお金をやっても動いてくれないので、奉行の職務がまっとう出来ない」とぼやいた。
 元治元(1864)年、大目付・播磨守に就任。
 水戸天狗党が決起すると、小田原藩兵・福井藩兵・加賀藩兵等を率いて敦賀に展開。厳しい道中に疲労困憊し、また自分達が主と仰ぐ徳川慶喜に敵と見なされて意気消沈する天狗党は、加賀藩兵隊長永原甚七郎を通じて陳情書を提出し、慶喜の手許に渡そうとした。しかし、天狗党の戦意乏しきを侮った滝川は、「彼らは既に武器を持って反乱を起こしているのだ。今更釈明など受け取れない」と言い放ってこれを遮り、降伏を強要した。更に加賀藩の周旋を批判し、天狗党殲滅を主張した。しかし、永原はこれに対して反発し、天狗党の降伏を促し、天狗党の乱を終結に導いた。
 戦後処理においては、厳しい処罰を主張。降伏者700〜800名の内士分350名が斬首され、残余は流罪・遠島と云う厳しい処罰が下された。
 慶応三(1867)年末,「薩摩藩邸焼き討ち」の成果を携えて大坂城に出向。慶喜に薩長との開戦を迫ったので、此処に幕府軍は京都に向けて進撃を開始し、翌年一月の鳥羽伏見の戦いとなった。この戦いにおいて滝川は鳥羽方面軍の先頭に立ち、朝廷に対して薩長の非を訴える「討薩表」を掲げていた。しかし、下鳥羽を固める薩摩軍の指揮官・椎原小弥太に阻まれて右往左往する内に砲撃を受け、狂乱した乗馬もろとも後方に駆け去ってしまったと云う……往年、水戸天狗党の趣意書を撥ね付けた報いであろうか。
 その後、淀城にあって幕府軍を指揮するが敗北。その責を問われて免職となり、登城禁止。その後の消息は不明だが、一説に依ると静岡で引退生活を送っていたと言われている。
 その子、滝川充太郎は伝習隊に所属して第二大隊の小隊長に任命されており、関東を転戦する等活躍した。こちらは西南戦争で政府軍(別働第二旅団第十九中隊)を率いて奮戦し、戦死したとの事である。親に似ない勇将ぶりであった。
 新選組に対しては、非常に協力的。しかし、やや非情に過ぎる面もあり、もしもPCが敵に対して微温的な措置を取れば、厳しく糾弾するだろう。

 

竹中 重固 たけなか しげかた
 高名な軍師・竹中半兵衛重治の十四代目子孫。半兵衛の長男・丹後守重門を開祖とし、代々丹後守を名乗る。竹中半兵衛ゆかりの美濃国不破郡に所領を持つ五千石の旗本。但し格式は八万石とされた。
 代々非職であったが、元治元年に至って大番頭に抜擢されて以来トントン拍子で昇進し、慶応年間に若年寄兼陸軍奉行に就任。「半兵衛の再来」と謳われるほどの秀才で、常に陸軍のトップに有り続けた。
 第二次長州征伐に際しては、「惣軍陸軍奉行」として芸州口に出陣。功名心が強く自信過剰で、緒戦で敗退した彦根藩兵・高田藩兵を嘲笑し、「何なら幕府歩兵を半分貸そう」等と云って不興を買った。その後、大島口作戦を指揮。歩兵隊を富士山等の軍艦に依る支援砲撃下で上陸させると言う近代的作戦で緒戦を制した。竹中としては、長州藩の支藩でやや佐幕的な吉川監物の岩国藩を攻撃して脱落させようとしたが、第二奇兵隊を主力とする長州兵と島民ゲリラの蜂起の前に挫折した。
 鳥羽伏見の戦いに於いては実質的な総司令官として幕軍を指揮した。しかし、彼が作戦の打ち合わせに大坂に戻った為に幕軍の士気が崩壊し、鳥羽伏見の戦いは幕軍の敗戦となった。鳥羽伏見後は大坂城に置き捨てられたので、単身江戸に退去。関東で浜田藩兵・鳥羽藩兵・旧幕伝習大隊の脱走者300名で「純忠隊」を結成した。この部隊は彰義隊に呼応して蜂起したが、上野戦争で彰義隊が鎮圧されると自然に解散した。その後、東北に逃れて幻の輪王寺宮政権の陸軍総司令官に擬されるが、政府自体が流れたので実現しなかった。その後更に榎本艦隊に合流し、箱館政府では「吉野春山」と名を改め、陸海軍裁判頭取を務めた。
 明治二年五月、旧大名・旗本らを五稜郭から脱出させると言う榎本の意向を受け、外国船で東京に帰還。明治政府に恭順し、領土没収・士籍削除とされた。維新後は殖産興業に務めた。
 なお、娘の鶴は雛人形作りを学んで鶴屋半兵衛を創始。現代まで続く人形ブランドを確立している。

 

徳川 家茂 とくがわ いえもち(1846.5.24〜1866.7.20)徳川家茂
 元は紀州藩主だったが、第13代将軍家慶の急死によって急遽若くして第14代将軍となった。容姿は美しく、性格は順良で、いかにも日本人が好みそうな貴公子で、臍曲がりの幕臣勝海舟もこの将軍には心服したというくらいである。
 病弱ながらも江戸と大坂を汽船で往復し、朝廷と幕府の間の調整に勤めた。また、その大坂行きには尊皇派志士達のテロの危険がつきまとっていた為、浪士隊が編成されたという経緯もあり、新選組とも縁がある。新選組自体も、何度か家茂の上洛に従って大阪城の警護などに携わっている。しかし、朝幕間の板挟みにあって苦慮する内に、第二次長州征伐の最中に大坂城で、21歳の若さで病死した。此の大坂滞在は大坂の経済に多大な負担を掛け、旗本や江戸市民の贔屓とは裏腹に、大坂の庶民には嫌われていたようだ。
 また性格も必ずしも「純良」では片付けられず、開明派の一橋慶喜とは非常に不仲。或る時大番頭室賀出羽守が「将軍を悩ます一橋慶喜を刺す」と発言すると、眉を顰めながらもやや喜ぶ風で有ったと云われている。更に、第二次長州征伐に出陣する直前には「自分が死んだ時には田安亀之助(御三卿田安家当主慶頼の子。当時何と2歳)を立てよ」と遺言する等、天下国家より自派の安寧を優先する振る舞いも見られた。もし彼が虚心坦懐にこの国の行く末を考え、幕府内で孤立しがちだった一橋慶喜に支援を与え続けていたら……日本の近代は、違った形になったのかも知れないのである。

 

徳川 慶勝 とくがわ よしかつ(1824.3.15〜1883.8.1)
 徳川御三家の一つ、尾張藩主。先代藩主の実子ではなく、養子であり、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らの実兄に当たる。尊王攘夷派である金鉄組を登用して藩政改革に成功した。しかし将軍継嗣問題では一橋派に参加し、隠居させられた。後に許されて藩政に復帰。
 御三家中では出色の人物で、第一次長州征伐の征長総督に任ぜられた。尤も、総督の任務は西郷吉之助に丸投げだったのだが……。
 思想的には公武合体派であり、幕府とは一線を画した方針を持っている。
 維新後は廃藩置県に先んじて藩地の返還と藩閥に囚われない人材の登用を建言した。

永井 尚志 ながい なおむね(1816.11.3〜1891.7.1)
 玄蕃頭、主水正。三百俵取り名門出身の温厚な官僚。後千石に加増。
 洋式兵学に精通し、一橋慶喜に深く信任された。その経歴は幕府海軍の創設から滅亡まで必ず関連していると言うきらびやかさを持つ。まず長崎目付として三年勤務の後、長崎海軍伝習所監督を兼任。次いで築地海軍学校の教官頭取、文久二(1862)年には上京して神戸海軍操練所御用掛、京都町奉行を兼任、さらに元治元(1864)年に大目付に就任し、常に京都政局の中心に位置した。そして幕府滅亡後は、函館戦争まで転戦し、函館奉行・弁天台場総督に就任した。弁天台場に後に新選組が配属されたのも、何かの運命かもしれない。
 新選組に対してはかなり好意的で、京都町奉行として出来る限りの便宜を計ってくれるだろう。
永井玄蕃頭

 

沼間 守一 ぬま もりかず(1843.12.2〜1890.5.17)
 下級旗本の出身。兵卒として幕府伝習隊に参加していたが、外国人教官に戦術的才能を評価され、25歳の若さで歩兵頭に抜擢された。幕府滅亡後は、伝習隊と共に関東を転戦し、負傷した第二大隊長本多幸七郎の後を継いで第二大隊長に就任した。しかし、今市の戦いで大鳥の作戦指揮を罵倒した為、伝習隊を離脱して奥州に脱出した。
 その後、会津藩に立ち寄って教官となった。しかし保守的な会津藩士は、身分の上下無く号令に従う事を強制される洋式調練に反発。更に泥の中でも茨の中でも這い進み、足軽のように鉄砲で戦う伝習隊のやり方に不満を抱いた。その内、彼をスパイであると決めつけて斬ると息巻く者が出ると、流石に伝習隊も辟易して会津藩を去った。その後、庄内藩に合流して官軍を苦しめた。其の活躍振りは、土佐藩の名将板垣退助に「大鳥は攻めてくる時にもわざわざ道普請をして攻めてくるので戦いやすいが、沼間は何処から出て来るか分からないので手強い」と言わしめる程であった。
 戊辰戦争終結後は、庄内藩の降伏に従って官軍に降伏。かつての敵将板垣退助に見出され、土佐藩軍に採用されたが、板垣の下野に従って彼も辞職した。そして、新聞記者となって自由民権運動に参加した。
 性格は理論的で厳しく、毒舌家。新選組には好意的である。

 

一橋 慶喜 ひとつばし よしのぶ(1837.9.29〜1913.11.22)
 水戸斉昭の実子で、御三卿の養子となった。学識に富み、決断力や知謀に長じており、「徳川家康の再来」と評された。その才覚は多岐に渡り、洋学に精通し、自ら写真機や自転車を操り、豚肉を食べ、フランス軍服を着たりした。また、騎兵頭の貴志大隈守に馬術を習い、洋装で愛馬「飛電」を乗り回す等、気侭な振る舞いも多かった。その為、保守派からは「豚一(豚を食べる一橋)」と呼ばれて忌み嫌われた。
 また大言壮語する割には気が変わりやすいと云う所もあり、この点も主戦派・保守派に批判されていた。その気分が伝染してか、現代に於ける小説の類でも余りよく書かれる事はない。しかし胆力は有り、蛤御門の変では禁裏守衛総督として諸藩軍を督戦。愛馬を撃たれて落馬しながらも退かず、長州軍が立て篭もる公家邸宅に放火する事を決断。無事に長州軍を撃退した。
 京都には側室お芳の方を同伴している。お芳の方は江戸の火消し新門辰五郎の娘であり、その縁で彼は火消し200名を率いて上京し、慶喜の為に情報収集や身辺警護に当たってくれている。
 私的な幕僚として初期には旗本出身の側用人・平岡円四郎、後には側用人・原市之進とフランス陸軍歩兵少佐・ブレアンの2名の切れ者を抱えていた。
 新選組に対する態度は不透明で、GMの解釈次第で如何様に決定しても構わない。但し直接接触する事は無く、平岡乃至は原による依頼という形を取るだろう。
徳川慶喜

 

人見 勝太郎 ひとみ かつたろう(1843〜1922)
 元は京都二条城詰め鉄砲奉行方同心。流暢な関西弁を操ったと云う。
 父親は同心ながら名声有る儒者であり、勝太郎もまたその薫陶を受けて学問と剣術を修め、一刀流免許皆伝を得た。また江川太郎左衛門から砲術も学んでいた。
 幕末に至って奥詰に抜擢され、後に更に遊撃隊に配属。何事も派手な同僚・伊庭八郎と異なり、地味な性格だが、人を纏める才能に長じていたらしい。江戸城が降伏論に傾くと、遊撃隊七十名を率いて房総半島に脱出。ここで互選に依る組織の改編が行われ、本来彼より上位に座るべき伊庭を越えて遊撃隊隊長に抜擢された。その後、林忠崇と共に箱根襲撃作戦を立案し、房総から伊豆に渡る為の船の貸し出しを榎本艦隊に依頼。中立を保っていた榎本は協力を渋ったが、和船二艘を借用して一気に渡海する事等を提案して見事に押し切り、大江丸を借用した。この作戦は兵力不足の上に確固たる戦略が無く、右往左往の挙句失敗に終った。人見は榎本艦隊の助力を請う為に江戸に行っており、戦闘には参加せず、敗報を聞くとそのまま榎本艦隊に参加。函館政府では遊撃隊隊長を大岡幸次郎に譲り、松前奉行に就任した。
 維新後、西郷隆盛を暗殺せんと鹿児島に潜入するが、私学校等の郷党教育を見てその優秀さに感動し、暗殺を断念。静岡で英語学校を開いたり、製茶業に進出する等郷里の発展に務めた。その成果を認められ、明治九年に勧業寮七等出仕として招聘された。以後累進し、明治十三年には茨城県令を勤めたと言うから恐ろしい出世のスピードである。退職後は利根川運河会社を開いて実業家としても成功を収めた。大正十一年十二月三十一日、老衰で死去。享年八十歳。死ぬ間際まで、枕元には竜の彫刻が付いた木刀を隠し持っていたと云う。
 新選組には好意的である。

 

古屋 佐久左衛門 ふるや さくざえもん(1833〜1869.6.14)
 庄屋高松虎之助の次男で、本名は勝次。出奔して江戸で洋学を学んだが、当初は大いに困窮し、按摩の真似事までして学費を稼いだと云う。
 そうした努力に感心した老御家人・古屋佐久左衛門は彼を養子とし、名跡を継がせた。以後、幕府の儒学者杉原平助に儒学を、坪井信道に蘭学を、英学を宍戸荒之助に、柳剛流岡田十松に剣術をそれぞれ学んだ。
 幕末には与力として浦賀奉行所に所属。浦賀沖に現れたペリー提督の黒船に最初の応対をした人物として有名である。その際には強大な米国の国力に圧倒されたが、その経験を生かして高名な洋式軍学者となり、日本で最初に洋式兵書を翻訳した。特に兵書のベストセラー『英国歩兵操典』の翻訳は有名である。此の功績によって幕府の軍制改革の際、歩兵指図役に抜擢された。
 性格はこの様な西洋学問の草分けにふさわしからぬ古武士の様な厳しい性格で、幕末にはもう高齢だった事もあって、歴戦の勇将の様な風貌を作り出していた。戊辰戦争では、脱走した幕府歩兵を説得する為に江戸を出るが、逆に彼らを率いて「衝鋒隊」を結成。ならず者揃いのくせ者部隊だけに時に略奪を働く者もあり、その為か最初に出陣した信州では薩摩藩城下士四番隊の一部(四十名)を率いた川村与十郎と黒木七左衛門に完敗してしまった。その後、北越戦争では「一に衝鋒、二に桑名、三に佐川の何とやら」と歌われ、その古武士然とした容貌に相応しい活躍を見せた。戊辰戦争では榎本艦隊に参加。函館政府では歩兵頭に任ぜられ、弁天砲台を守って戦死した。
 新選組に対しては好意的である。
 弟・高松凌雲も高名な医師で、強固な佐幕派である。
古屋作佐久左衛門

 

堀田 正睦 ほった まさとし(1810.8.1〜1864.4.5)
 佐倉十一万石藩主。
 儒学者依田学海や兵学者木村軍太郎と云った有為の人材を抜擢して藩政改革を行い、名声を博した。また洋学を好み、佐藤泰然を招聘して順天堂を開き、藩士に西洋砲術・医術を学ばせたので、「蘭癖大名」とあだ名され、「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれる程洋学が発展した。
 幕府内では大坂城代等を歴任したが、洋学を弾圧する天保の改革に反対し、幕閣を追われた。しかし、同じく開明派に属する老中阿部正弘が、病死する直前に老中首座に推挙した事から再び政局に臨み、幕末の難局を担当した。特に外交専門の部署である「外国奉行所」の設置は、外交実務のスムーズ化と言う意味でも、人材のプール場所と言う意味でも後の幕府外交に大きなプラスとなった。
 将軍継嗣問題に際しては一橋派に協力したが、一橋慶喜を将軍にする事は出来なかった。才知は有ったが口下手で、大奥の説得に失敗した為であった。政争に破れると、大老位を継いだ井伊直弼によって隠居させられ、四男の正倫に藩主の座を譲った。二年後病死。

 井伊に依る強引な政権奪取は両者の死後も遺恨が残り、後に水戸天狗党が幕府に討伐され、参加者達が佐倉藩にお預けとなると、佐倉藩は井伊を斬った水戸藩士に好意を持ち、武士として礼遇した。
堀田正睦

 

牧野 忠恭 まきの ただゆき(1824.10.22.〜1878.09.01.)
 長岡藩七万四千石第十一代藩主。長岡藩は三河以来の譜代大名で、元和四(1618)年の入封以来軍備の練成と新田の開墾に務め、大藩に匹敵する実力を有していた。しかし、江戸時代後期には三方領地換えや、天保の大飢饉、更には新潟港の没収等で藩政に大きな被害を被ったので、幕府に対してはやや隔意有る態度を取りがちであった。
 こうした状況下で家督を相続した忠恭は、藩政の改革に尽力し、特に名家老河井継之助を抜擢して軍備を洋式に改める等先見の明を示した。
 忠恭は幕府内では奏者番等を歴任。文久二年八月二十四日、京都所司代に就任するも尊皇攘夷運動に沸騰する京都を沈静化出来ず、十二月には京都守護職の設置と松平容保の赴任となった。これを恥辱と感じたのか、忠恭は会津藩とは余り連携を取らず、「所司代は幕閣の命令で動くものであり、所司代の命令は受けない」等と協力要請を拒絶する一幕もあった。更に六月には河井が「東北の小藩にはとても勤まらない」と申し立てて辞任している。
 しかし、幕府は忠恭を外国掛老中に任じ、政局への参加を求めた。こうした負担は長岡藩には重すぎたので、河井はまたもや辞職を願い出た。その際、慰留に来た藩主の親戚である笠間藩主に対して河井が厳しく反論した為、不敬の罪で罰せられたのは余りにも有名である。この事件のお陰で長岡藩は全ての職務を退き、忠恭も隠居して忠訓に家督を譲って自由な立場となり、軍制をフランス式に改めて藩士を八個大隊に再編する大規模な藩政改革に乗り出した。
 戊辰戦争に際しては、越後に進出して来た会津・米沢軍から同盟の誘いを受けるが、長岡藩は幕府に対しては余り恩義を感じて居なかっので、同盟を拒絶(或いは、京都での不仲を引き摺っていたのかも知れない)。河井の指揮の元武装中立を志向したが、無能かつ傲慢な官軍指揮官岩村精一郎は飽くまで長岡藩に降伏を求めたので、小千谷会談は決裂してしまった。
 官軍と戦う事になった長岡藩は朝日山の戦い等で勝利を収めるが、奇襲により長岡城を奪取されてしまい、忠恭は会津藩に逃れた。その後、長岡軍は会津・米沢兵の援軍を得て長岡城を奪還するが、その際に河井が重傷を負い、長岡藩兵は官軍の逆襲を受けて会津に退却。河井は途中で死亡し、長岡藩の組織的抵抗は瓦解した。
 忠恭は鶴ヶ城籠城に参加し、会津藩の降伏と共に恭順。明治二年に赦免され、神祇官に就職した。明治十一年死去。

 

松平 容保 まつだいら かたもり(1835〜1893)
 会津藩二十八万石藩主、京都守護職。肥後守。松平肥後守容保
 尾張徳川家支藩高須藩松平家の六男として生まれ、養子として会津松平家を相続した。ちなみに彼の兄弟は皆優秀で養子の貰い手が多く、特に次男慶勝は尾張徳川家、七男定敬は伊勢桑名藩松平家を継いでいる。
 会津松平家は三代将軍家光の異母弟保科正之が興した家であり、徳川宗家への忠誠を一途に示した稀有な藩であった。その家訓も、「もし歴代の藩主の中に、将軍家に刃向かう様な者がいれば、そいつはもう会津藩主ではないから、家臣は忠誠を尽くす事等無く、一重に徳川将軍家の為に行動せよ」と藩と云う組織の否定にすら繋がりかねない項目が有る程であった。
 容保が家督を相続した直後、ペリーが来航。その際には幕府の命令で房総半島に出陣して防備を固め、以降溜の間詰譜代大名の一人として幕政に参画した。
 文久二(1862)年、容保は京都守護職に就任。京都守護職と云うのは曰く付きの役職で、設置はされたものの皆京都朝廷と幕府の間で板挟みになる事を恐れて敬遠していた。そうした職務への就任に際して重臣達から反対の声も相次いだが、養子として家督を継いだ以上会津藩主として恥ずかしくない行動を取ろうと、歴代藩主以上に厳しい決意を持って押し切った。
 京都に到着した当初、容保は浪士らと会談して平和裏に事態を収拾せんとしたが、浪士側の足利像晒首事件によって態度を変更。禁裏守護総督の一橋慶喜や京都所司代の実弟定敬と連携し、新選組・別選組等を用いて京都を制圧した。こうした断固たる処置は、尊王派の過激な行動に辟易していた孝明天皇の信任を得、京都に「一会桑政権」と呼ばれる強固な地盤を築いた。
 しかし孝明天皇の崩御と共に権威を失い、王政復古を受けて京都守護職を退任した。
 鳥羽伏見の戦いに際しては大坂城で定敬と共に慶喜を警護するも、慶喜に連れられて将兵を見捨てて江戸に帰還し、大いに名声を損なってしまう。その後、慶喜が謹慎すると会津に帰国し、軍制を改革して戦争に備えた。
 戊辰戦争が勃発すると、奥羽越列藩同盟の中核として戦い、半年に渡って篭城したが、最後には同盟国の米沢藩が降伏したのを見て開城した。
 戦後会津藩は一旦改易され、容保は謹慎処分を受けた。そして嫡子容大(かたはる)が旧領の近くの猪苗代か、或いは陸奥国斗南かどちらかに封ぜられる事になり、その判断は会津藩に任された。当初会津藩では猪苗代を選ぶ積りであったのだが、会津藩が近くに残ると知った旧会津領民が反対の一揆を起こし、更に猪苗代住民も不穏な動きを見せたので、斗南への移封を決めた。これは、会津藩が京都守護職や戊辰戦争に掛かる費用を領民から厳しく取り立てた為に起こったものである。
 斗南藩は表高三万石でとても会津二十三万国の藩士を養えるものでは無く、藩士は塗炭の苦しみを味わった。
その後容保は謹慎を解かれ、日光東照宮宮司に就任。これをきっかけに会津藩士は旧領に戻ったり東京に出て奉職したりして斗南を離れ、廃藩置県後青森県に併合される形で消滅した。
 容保は才気は無いが誠実な人柄で、維新後は俗事に口を出さず、只管慰霊に務めた。或る時、戊辰戦争で戦死した会津藩士の慰霊祭が行われ、容保にだけ豪華な膳が出されると云う事があった。藩士達は旧藩主に気を使ったのだが、容保は箸を付けず、「私は美酒佳肴の為に慰霊祭に来たのではない。戦死者の慰霊に来たのだ」と云い、皆と同じ料理を食べたと云う。
 明治二十六年没。享年五十九歳。

 

松平定敬まつだいら さだあき(1846〜1908.07.21.)
 伊勢桑名十一万石藩主、京都所司代。越中守。
 尾張徳川家支藩高須藩松平家の七男として生まれ、末期養子として桑名松平家を相続した。
 桑名松平家は元は白河に有って松平定信を出した名門である。
 定敬は大の馬好きで、文久三(1863)年十一月五日夜半、江戸城本丸・二ノ丸が炎上した際には、八丁堀の桑名藩邸から御小姓の立見鑑三郎のみを引き連れて騎行し、家茂から大いに賞賛を受け、翌年にはその功績によって京都所司代に抜擢を受けた。以後、京都守護職の兄容保と連携して京都の治安維持に当たり、兄共々孝明天皇の信任を受け、屏風を下賜された。
 定敬は京都では特に洋装を好み、家茂から下賜されたアラブ馬
(元はオランダの献上品)に跨って所司代屋敷から二条城に出勤したと云う。その馬術は見事なもので、側近達はしばしば引き離されて藩主の姿を見失い、肝を冷やしたとか……。
 鳥羽伏見の戦いに際しては容保と共に徳川慶喜の警護に付いたが、慶喜に連れられて将兵を見捨てて江戸に帰還してしまった。江戸では容保と共に慶喜に抗戦を説いたが容れられず、慶喜が謹慎すると江戸を脱出して桑名藩の飛び地である越後柏崎六万石に移った。その頃、本拠地である桑名は藩主不在のまま官軍の接近を受け降伏しており、返す返すも大坂からの脱出が悔やまれる。
 越後では
、恭順派の家老吉村権左衛門を暗殺して藩論を佐幕で統一。江戸詰藩士や桑名から脱出して来た佐幕派藩士ら三百名を纏めて雷神隊・致人隊・風神隊・大砲隊の四個小隊を編成、長岡藩・会津藩と共に勇戦したが、長岡藩が降伏すると会津に撤退した。会津では容保と再会して共に滝沢本陣に陣を敷いたが、官軍の攻撃を受け、会津藩は籠城に追い込まれてしまう。定敬は兄と共に篭城しようとしたが、容保は定敬に脱出して外部から援軍を引き連れて助けに来るように要請した。
 容保と別れた定敬は仙台に脱出し、榎本武揚の艦隊と合流、彼らと共に箱館に向かった。その際、榎本は従者は三名までと制限したので、桑名藩士は皆新選組に編入される事となった。
 明治元年十二月二十五日、桑名藩本国の家老酒井孫八郎の説得を受けたが、拒絶。しかし翌明治二年四月六日、新政府軍が襲来すると榎本は小笠原板倉ら旧大名に脱出を勧めたので、定敬もアメリカ船に乗って上海に渡航した。上海からはすぐに帰国したが、実際に上海に渡った殿様は定敬くらいのものであろう。その後、四年の謹慎を経て桑名に帰国し、以後の半生を桑名藩戦死者の慰霊に費やした。

 

松平 忠敏 まつだいら ただとし
 上総介・主税介とも。
 祖先は徳川家康の第六子、越前少将忠輝である。忠輝は家康の勘気を受け、子孫は三河渥美郡長沢村に僅か十人扶持を支給されながら細々と暮らしていた。家康は忠輝の子孫について、百年経たねば取り立てては成らないと遺言をしたと言われているが、幕末には既に二百年を経過し、勘気も解けたと考えられていた。

 忠敏は長沢松平氏の嫡子として生まれたが、幼少時には布団代わりの筵に家族が一緒に寝るという貧しさで有ったという。その惨状を見かねた旧臣岡惣十郎らは運動資金四百両を拠出して松平氏の復権を画策した。
 此を受けた忠敏は家督相続権を弟に譲り、既に勘気は解けているので取り立てて頂きたいと幕府に願い出た。忠敏は先ず八十人扶持と主税介(ちからのすけ)の称を得て江戸の牛込臼山に住んだが、更に運動して旗本格となった。他にも、年始の礼に白無垢着用で登城出来る、譜代大名の上席に着ける等、数々の名誉を得た。しかし、無役であったので、妻の遠戚に当たる福井藩主松平慶永を頼って猟官運動を行った。此の辺りの名門らしからぬ抜け目なさが、「いやらしい」「あざとい」等の評価の源になっているのかも知れない。

 忠敏は学問・剣術に長じていた。学問は平田篤胤の門弟大伴宣光の元で国学を学び、特に歌道では講武所でも有数の腕前で、同僚や門弟の和歌の添削を行ったと言う。同門には越前藩士中根雪江等がいた。
 また剣技は殿様芸ではなく、十二歳の頃から柳剛流直井勝五郎秀堅に師事し、江戸では柳剛流月島左馬之介の元で皆伝を受け、直心影流団野源之進免許皆伝、宝蔵院流富田派槍術志賀小太郎免許皆伝、心形刀流伊庭軍兵衛の元で修行etcの煌びやかな経歴を経て、幕末三剣聖の一角に食い込んだ。なお、もう一人の剣聖男谷精十郎とは団野道場での同窓である。
 愛刀は「因幡小鍛冶景長」二尺四寸五分。本来なら御家人風情には手の届かない業物で、忠敏の自慢であった。
 忠敏が世の注目を浴びたのは、猟官運動が実って文久二年に浪士組取締に就任してからである。剣友の清河八郎に「浪士組を作って尊王派浪士を抑えましょう、毒を以て毒を制するのです」と囁かれると、すっかりその気になって自分の名義で慶永に上申し、自ら頭取となった。所が、清河の策略によって実際に集まったのは定員を遥かに超える人数で、用意した予算も其れに見合う物ではなかった。また集まった浪士は浪士で質が低く、すっかり嫌気が差した忠敏はすぐに頭取を辞職してしまった。その後、文久三年に講武所剣術師範役兼勤・諸大夫となり、先祖松平忠輝の官位を継いで従五位下上総介を名乗った。
 鳥羽伏見の戦いでは幕府軍に従軍。上鳥羽方面に隊長として出陣したらしい。此処で、薩摩の剣客中村半次郎が悠然と薩摩軍の陣地から歩いてきて、煙草の火をくれといった。幕兵は逆上して斬りかかろうとしたが、松平は此を抑え、火を貸してやった。其処で、お互いに姓名を名乗って雑談を始めたという。そして、中村が一服して帰ろうとすると、幕兵は彼を狙撃しようとしたが、松平は「彼程の勇士を殺すのは惜しい」と此を止めた。松平と中村の剛胆さを表す逸話であるが、真偽の程は定かではない。

 維新後、宮中に出仕して中太夫等を務める。更に、明治七年には宮内省の文学御用掛和歌所出仕として明治天皇に和歌を教授した。あれ程励んだ剣術では無く、和歌で世に出る事になったのは皮肉と云うべきか。明治十五年死去、享年六十五歳。
 忠敏は名門出身で、微禄から昇進したので苦労人であり、剣術・学問に優れて、野心も有った。しかし出世に汲々として野卑な感じがして、更に堪え性が無く、嫌なことがあるとすぐに逃げ出したので、世評は余り芳しくない。殊に江戸後期に流布された剣術番付「泰平英雄競」と言う錦絵では、悪役・梶原景季に見立てられていた程である(なお、講武所頭取の男谷精十郎は豪傑・和田義盛)。また維新後はなかなか小言の多い人物として有名だったらしく、「万小言云命(よろずこごといいのみこと)」等と綽名されたりもした。

 

松平 太郎 まつだいら たろう(1839〜1909.5.24)五稜郭の松平太郎
 150俵取り御家人松平九郎左衛門。諱は正親。丸い顔で元気が良く、兵士を纏める才能があった。また痩せ形の背の高い男であった。髭は生やして居なかった模様。
 彼の松平家は禄高こそ低いものの、松平氏を興した開祖親氏が婿入りしたとされる名門であり、代々太郎を称して来た(その割には、父も祖父も九郎右衛門だったりするので、この説の信憑性は低い)。代々右筆を務めた文官の家柄で有ると云う。
 江戸の仏語学者村上英俊に学び、家督を継ぐと奥右筆に就任した。その後、天狗党討伐に従軍したが身分は飽くまで奥祐筆のままで、到底実戦の指揮を執ったものとは思えない。天狗党の乱終結後も、外国奉行支配組頭・外国奉行並を務める等、彼の活動分野は文官の分野に留まっていた。
 しかし鳥羽伏見の戦いの後大坂城にて陸軍奉行並を拝命すると、以後は主戦派として台頭し、江戸城開城に際しては十六万両の軍資金を奪取して奥州に脱出。仙台で榎本武揚らと合流し、箱館に向かった。
 箱館政府では入れ札(選挙)の結果「副総裁」となった。なお、此の選挙に際しては、松平の得票数が榎本を上回り、危うく彼が総裁になってしまいそうだったので、慌てて陰で修正したと云う噂もある。兎角不人気な榎本らしい噂だが、一方で松平が兵士達から集めていた信頼の高さにも驚かされる挿話である。ともあれ、箱館政府では「榎本の洋才、松平の和魂」と謳われた。
 函館戦争では軍人としては目立った活躍はなく、後に降伏。江戸に禁固されたが、3年足らずで恩赦に与り、三渚県参事に就任。更に明治十二年には外務省七等勤務としてウラジオストックに派遣されたが、二年後には辞任して放浪生活を送った。その間の業績は不明で、落魄したとされているが、書肆を経営したり日露戦争後の旅順の沈没船引き上げに携わったり、はたまた東京で榎本の支援の元紡績工場を運営したりとなかなかマルチに活躍していた模様である。
 明治四十二年、伊豆で客死。

 軍事的才能は不明。小説等では「機知に富んでおり、意外な戦略を打ち出す知将でもあった」と好意的に扱われる事が多いが、こうした好評を裏付ける「実戦」での働きを筆者は知らないので、何とも云えない。彼の戦場での武勇伝をご存知の方がいらっしゃったら、是非お教え願いたいものである。
 息子は居なかったが、晩年、彼の生き方に感動した高木正次が「松平太郎」の名を襲名し、二代目松平太郎として『江戸時代制度の研究』を著述した。

 

松平 慶永 まつだいら よしなが(1828.9.2〜1890.6.2)松平慶永
 親藩越前福井25万石藩主。越前守、雅号を春嶽と称す。性格は品性誠実で重厚、謹直。
 御三卿田安家に生まれ、幼少より書物を読み、また書く事を好んだので、父から「まるで羊のように紙が好きだ」とからかわれたりした。後に養子入りして十一歳で家督を継承し、藩内を度々巡視して藩政改革を行った。
 将軍継嗣問題では一橋派の一翼として幕府政治改革を主張したが、失敗して隠居させられ、腹心の橋本左内を失う等痛手を被った。その後、文久三(1863)年の改革によって政事総裁に就任、幕府政治改革に辣腕を振るう。彼はその過程で幕府の崩壊を予見していた節があるが、あくまで緩やかな解体を理想とし、大政奉還にも反対だった様である。
 自身の聡明さよりもスタッフを信任するタイプで、前半は橋本左内、後半は文の中根雪江及び武の村田氏寿を用いて時勢と対し、行政に関しては本多修理、三岡八郎(後の由利公正)らを用いて藩政を刷新した。特に必要とあれば身分の垣根を軽々と越える身軽さを持ち、市井の歌人橘曙覧(たちばな あけみ)に師事したり、藩外の浪士坂本竜馬に対しても直接面談して良く意見を聞いて出資する等、元大名とは思えない気さくさを示した。尤も、武断的な処置を好む江戸っ子からは、「春嶽なんて按摩みたいな名前で、上を揉んだり(懐柔)下を揉んだり」と笑われる事になってしまったが……。
 また軍事に対しても理解が有り、早くから弓組を廃止して洋式銃隊を編成した。しかし、福井藩自体の政策が武断的なものでは無かった為に活躍の機会は無く、戊辰戦争に至って漸く実戦を経験するに至った。此処では旧幕府に対する遠慮から戦意が低く、薩長兵士から侮蔑された。
 新選組に対する態度は中立的である。

 

山岡 鉄太郎 やまおか てつたろう(1836〜1889)山岡鉄舟
 六百石取旗本、御蔵奉行小野朝右衛門高福の四男。後に鉄舟と号し、こちらの方が有名。
 性格は剛直、身長は極めて高く、鴨居に頭がぶつかるほどで有ったと云う。
 父の飛騨郡代への栄転に従って飛騨高山に移り住み、此処で北辰一刀流井上清虎より剣の手ほどきを受け、更に江戸に戻って講武所で千葉周作等の指導を受けた。その際、中西派一刀流四代目浅利又七郎と試合を行ったが、その際の激しい竹刀捌きから「鬼鉄」の異名を得た。後に免許皆伝を受け、精神性の高い剣術流派「無刀流」を開いた。
 また、槍術の名人山岡静山の妹と結婚し、山岡家を継いだ。なお此の静山の実弟が高橋泥舟で有り、山岡鉄舟、高橋泥舟、勝海舟の三名を「幕末の三舟」と称するのは余りにも有名。
 幕臣ながらも尊皇攘夷運動に理解を示し、尊皇派の大物である清河八郎とも剣術を通じて知己となっていた。彼が此の清河の助言を受け、義弟高橋泥舟等と組んで設立させたのが、新選組の前身である浪士組である。此の浪士組は京都で浪士組と新選組に分裂するが、山岡は其のどちらにも加わらず、江戸に召還されて閉門となった。
 浪士組が江戸に帰ってくると、其の保護に尽力した。戊辰戦争が始まると、勝海舟に命ぜられて江戸を焦土と化そうと攻め寄せる官軍に対して攻撃中止を訴える使者として赴き、西郷隆盛と勝海舟の会談という歴史的偉業のお膳立てに奔走した。
 維新後には、戊辰戦争を通じて知り合った西郷の推薦で明治天皇の教育係として宮内省に勤めた。明治天皇の教育はなるべく古武士的気風の人物で、と言う西郷の意を汲んだ結果だが、その為か明治天皇は愛国者の涙腺を緩める系の逸話には事欠かない、ユーモアと優しさと強さを併せ持った名君として明治の世に君臨した。

 鉄舟は身なりを構わなかった事でも有名であり、特に幕臣時代は貧窮と相俟って一年中羊羹色の着物一着で過ごしていた。その為、鬼鉄ならぬ「ボロ鉄」等と呼ばれたりした。その節倹ぶりは比較的裕福になった明治以降も変わらず、妻が新しい着物を買おうとすると、「昔の貧乏な頃を忘れてはいけない」と切々と説いたりもした。
 また当節流行の名刀自慢からも距離を取っており、手垢で真っ黒になった樫の木刀を差していた。単に貧乏だったからかも知れないが、その胆力は幕末でも屈指と言えるだろう。

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