組織
1)旧来の官職
■特徴
(1)元来が大名(軍事組織)という幕府の根本的性格を反映して、軍隊組織(番方)と文民組織(役方)が一体化されていた。
つまり、一旦戦争が始まれば、行政の責任者が軍事指令官となって戦争の指揮を取るのである。例えば天草の乱では西国での戦闘だったので京都所司代板倉重昌は九州諸軍を統率して戦線に赴いた。しかし、この様なシステムも平和によって軍事組織が形骸化する一方、文治組織が複雑化・肥大化して行き、両者の一体化には矛盾が生じるようになった。
(2)老中、若年寄以下の幕府官職は小規模の譜代大名と旗本に独占され、外様大名は勿論徳川一門、親藩等も制度上は政治に関与する事が出来ない。
(3)主要な官職は殆ど同格の役人複数名からなり、更に月番制で交代で職務に付くようになっている。これにより個人に権力が集中する事を防いでいる。しかし一方、この制度の為責任の所在が明確でなく、また思い切った改革や決断が行いにくいと言う難点も生じてきた。
将軍
幕府の頂点。将軍の日常の仕事は老中が提案する役人の任免や重要事項に対して決定を下し、様々な書類の決裁を行う事である。
大老
時勢困難な時にだけ置かれる臨時の官職。譜代大名の中でも名門である土井・酒井・堀田・井伊の4家の内から選任される。幕府最高の政策決定機関。大老は絶大な権限を所有し、大老が決定した事は将軍と言えども変更する事は出来ない。大老がその気になれば、安政の大獄の様な大規模な弾圧も可能である。
老中
10万石以下2万5千石以上の譜代大名4〜5名が就任する。大老が置かれていない時には幕府で最高の要職。朝廷、公家、大名に関する事柄、外交・内政一般の重要訴訟を処理する。
慶応元年当時の老中は、小笠原長行・板倉勝静・松平康直(宇都宮藩主)・井上正直(浜松藩主)・稲葉正邦・松平乗謨・水野忠誠(沼津藩主)の七名。
江戸時代を通じて合議制であったが、一橋慶喜が将軍となると老中職は「政治総裁」板倉勝静・「海軍総裁」稲葉正邦・「会計総裁」松平康英・「外国事務総裁」小笠原長行等に細分化され、それぞれに責任を持って職務を行う事となった。
評定所
老中、目付、寺社奉行、町奉行、勘定奉行で構成される訴訟の最高決定機関。また老中の諮問に答える機関でもあった。具体的には政務の評議、武士の犯罪の裁判、三奉行の職分に跨る事件の処理を行った。毎月2、11、21日に開かれた。
御側御用人
常に将軍の側にいて、将軍の命を老中に伝える役職。譜代大名から1名が選ばれる。
若年寄
小規模の譜代大名4名程が就任する。旗本の監督・統率を行う役職。城内の警備や将軍の護衛の監督を行う。また、江戸城内の警備担当と言う立場から城内の医師、学者、台所の管理を司った。またその警備権限は江戸市中にもはみ出し、火付盗賊改や武家火消しの統括も行った。
奏者番
大名・旗本が将軍に謁見する際に彼らに代わって姓名を将軍に伝えたり、贈物の目録を披露したりする。また下賜品の伝達も行う。城主の格式を持つ譜代大名20名からなり、この中の2名程が寺社奉行と兼任している。
文久二年、唐津藩世嗣小笠原長行の建言によって廃止された。
寺社奉行
全国の寺院・神社を監督する役職。僧侶や神官の素行を調査したり、寺社領や神域で起こった事件の解決、キリシタンの取締り、関東以外の旗本領での訴訟も担当する。しかし、実際の統治機構の中には組み込まれておらず、名誉職に過ぎない。奏者番を兼任する譜代大名4名が就任し、掃除等の庶務を司る御掃除之者50名が附属されるものの役所と同心・与力には原則的に自分の藩邸と藩士を使用し、裁判も自らの屋敷を使用しなければならなかったので、持ち出しが多い職業であった。
京都所司代
3万石以上の有能な譜代大名1名が就任する。従四位侍従、溜間詰、役知一万石。
その職務は多岐に渡り、京都の防衛、朝廷・公家の監察、京都近辺の遠国奉行の管理を担当し、それらの遂行の為には寺社に対する調査も許されている。老中に次ぐ要職とされ、この職を無事勤め上げれば、江戸に召還され老中に抜擢される事が慣例となっている。与力50騎、同心100名を持つ。
*幕末京都所司代一覧
| 着任 | 離任 | 京都所司代 |
| 天保十四年十一月 | 嘉永三年七月 | 酒井若狭守忠義 |
| 嘉永三年九月 | 嘉永四年十二月 | 内藤紀伊守信親 |
| 嘉永四年十二月 | 安政四年八月 | 脇坂淡路守安宅 |
| 安政四年八月 | 安政五年六月 | 本多美濃守忠民 |
| 安政五年六月 | 文久二年六月 | 酒井若狭守忠義 |
| 文久二年六月 | 文久二年八月 | 本庄伯耆守宗秀 |
| 文久二年八月 | 文久三年六月 | 牧野備前守忠恭 |
| 文久三年六月 | 元治元年四月 | 稲葉長門守正邦 |
| 元治元年四月 | 慶応三年十二月 | 松平越中守定敬 |
大坂城代
5〜6万石以上の譜代大名1名が就任し、大坂在住の幕府役人の統括を行い、大坂城の防御にあたる。また西国諸藩の監視も行う。大阪城代屋敷は大手門内千貫櫓の北に2,610坪の屋敷を持つ。大名役なので、支配下の諸役以外は自家の家来を用いた。赴任中は1万石の役料が付き、箔を付けるために従四位に叙任され、江戸から出発する時には1万両の支度金が貸与(あくまで、貸与)され、その行列の威風は周囲を払ったという。
また大坂城代の配下には京橋口と玉造口の二カ所に定番(城番)が置かれた。定番は1、2万石の譜代大名が就任し、役料は三千俵。麾下には五十騎の旗本から成る主力部隊「大番組」と若干の旗本から成る支援部隊「加番」が配属され、俗に百騎と称せられた。また百騎とは別個に与力三十騎、同心百人が直属し、城内の警備に当たった。その他に、大坂御船手(上級旗本が就任)以下与力6騎・水主50名から成る御船手組、大坂御鉄砲奉行2名(下級旗本)以下同心10名ずつの鉄砲組、大坂御弓矢奉行(下級旗本)42名以下同心10名ずつから成る御弓組等の小規模ながらも独自に行動可能な兵力を持ち、有事には周辺諸大名を動員して作戦を行う。
なお、慣習として、この職を無事務めると京都所司代に転任し、最終的には老中に就任する事になっている。
尚、幕末には英明な旗本大久保一翁が就任した…と司馬遼太郎先生は「竜馬が行く」の中で仰って居られるが、資料を見る限り大久保姓の人物の大坂城代就任は文化七年六月から文化十二年四月の大久保加賀守忠真のみ、大坂城定番就任は文政四年十一月から天保七年十一月の大久保出雲守教孝のみであり、その様な事実は存在しない。
*幕末大坂城代一覧
| 任期 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|
| 文久二(1862)年六月〜元治元(1864)年二月 | 松平刑部大輔信古 | 豊橋吉田藩七万石 |
| 元治元年(1864)十一月〜明治元(1868)年二月 | 牧野越中守貞明 | 八万石 |
*幕末大坂定番一覧
| 任期 | 京橋口定番 | 玉造口定番 |
|---|---|---|
| 嘉永六(1853)年十二月 | 田沼玄蕃頭意尊 | |
| 安政四(1857)年五月 | 本多肥後守忠隣 | |
| 文久元(1861)年九月 | 京極主膳正高富 | |
| 文久三(1863)年五月 | 保科弾正忠正盆 | |
| 慶応二(1866)年正月 | 稲垣若狭守太清 | |
| 慶応二(1866)年六月 | 本多肥後守忠隣 | |
| 慶応三(1867)年 | 廃止 | 廃止 |
御側衆
将軍と老中の間で書類の仲介を行う役職。江戸時代全域を通してかなりの権勢を誇ったが、幕末の将軍は14代家茂も15代慶喜も非常時だけに直接老中もしくは必要なら更に下級の幕臣から意見を聞き、決を下したので殆ど有名無実化した。
御小姓組
表小姓と奥小姓があり、奥小姓には役高5百石、小身の者には3百俵の役料が付いた。小姓の定員は30人で、その責任者が数人の小姓組番頭である。大体は小身の旗本が就任したが、時には1万石の大名が就任する事もあった。人選は厳しく、人品が第一とされた。
御庭番
八代将軍吉宗が、紀伊藩から連れて来た将軍直属の隠密。身分は書院番・小姓組番と同格。平常の任務は江戸城内の巡察、将軍の警護、植木職人・人足の取締り等であるが、時に将軍より使命を受けて諸藩の動静を偵察する「隠密御用」を行う事があった。将軍は目安箱の訴状を読み、探索が必要と判断すると、すぐに御庭番を呼んで探索を命じた。その時には必ず竹箒を左手に持って平伏して庭先で謁見した。
幕末には外国船偵察の為、松前、対馬、越後等に向かう事が多かったと言う。また、幕末にはこの地位から顕職に上る者も多い。
書院番頭
書院番組は、旗本良家から選任され城内に詰めて将軍を警護する五番方(書院番、小姓組番、新番、大番、小十人番)の一つで、江戸城城門の警備、諸儀式の席の周旋、将軍外出の護衛等を務める。百俵7人扶持。書院番頭1名の指揮下に与力10騎、同心20名と組頭1名、旗本50名からなる10組の書院番組がある。書院番頭は特に夜間には交代で江戸城内虎之間に宿直して将軍寝所と主要城門の警備にあたり、将軍が出向する際には駕篭の前後を固めた。また、時には駿府に在番する事もあった。
書院番は番方の中でも「小姓組番」と併せて「両御番」と称される格式の高い番方であったが、それだけに虐めも厳しく、番入りした組士は「きんたま酒」を飲まされる等の“儀式”を経なければならなかったらしい。
慶応二(1866)年末に小姓組は解体され、他の五番方と併せて組士は奥詰銃隊3個大隊に、組頭付与力・同心は撒兵隊4個大隊に再編成された。
小姓組番頭
小姓組番は五番方の一つ。小姓とは云え、将軍の側に仕える御小姓とは異なり、飽くまで戦時に備えた武官であり、平時は将軍の傍らに付いて身辺の警護を行い、戦時には将軍の馬廻りの護衛を行う。尤も、城門警備等には付かない内勤で、紅葉之間に詰めていた。
小姓組は8組あり、各組には小姓組番頭1名、小姓組頭1名、旗本50名から成る。特に書院番組と併せて「両番組」と呼称された。
慶応2(1866)年末に小姓組は解体され、他の五番方と併せて組士は奥詰銃隊3個大隊に、組頭付与力・同心は銃隊2個大隊に再編成された。
小十人番頭
五番方の一つ。小十人の語源は扈従人である。将軍親衛隊として行軍の際には徒歩で随行して前衛を務めた。平時には殿中宿直、江戸城門警備を務め、二条城、大阪城、駿府城、甲府城勤番及び市中巡回を務める。
親衛隊だけにやや家格が高く、普通は高200俵以上が御目見以上なのに対して小十人格の幕臣は高100俵から御目見扱いとされた。
平時には檜之間詰。20組から成り、一組には小十人番頭1名、小十人組頭2名、旗本20名が配属された。
小普請奉行
小普請組を統括する役職。役高2千石、定員2名。小普請奉行も小普請組も3千石以下の旗本が就任した。
小普請組は江戸城の細かい修理を担当する部署だが、実際の工事は業者が行うので、小普請奉行は閑職であった。しかし、小普請組からの脱却は旗本全員の夢であり、その為には奉行の推薦が必要な事から、組下の旗本に対しては大きな権威を有していた。
小普請組
江戸城の細かい修理を担当する、3千石以下の旗本・御家人の役職。
実際にはその様な仕事は人夫を雇って行うので、小普請組は実質上仕事が無い。この為小普請組は無役の代名詞となった。ここには現役を引退した者や、大きな失敗をした者も配属される。ちなみに、旗本でも3千石以上の者は寄合に配属される。
元来小普請組は出世の見込みの薄い閑職であったのだが、幕末には勝海舟の様にその才能を買われて一躍要職に就く者も多い。
新番頭
布衣、中の間、二千石高。若年寄支配。
新番は五番方の一つで、書院番組と小姓組の「両番組」を補助する為に設置された。両番組と同じ将軍親衛隊であったが、両番組よりは地位が低い。平時は殿中の警備を担当し、桐之間に詰めた。組頭1名(桔梗間、六百石高)と番士20人(土圭間、二百五十俵高)から成る組が8組有り、その責任者が定員8名から成る新番頭である。慶応2(1866)年廃止。
慶応2(1866)年末に新番組は解体され、他の五番方と併せて組士は奥詰銃隊3個大隊に、組頭付与力・同心は撒兵隊4個大隊に再編成された。
目付
上級旗本10名が就任、役料は千俵。旗本・御家人・幕府役人の監察を行う。大目付と違って若年寄の配下に属す。
配下には黒鍬頭(御家人、役料百俵)四名、黒鍬者470名が付けられている。
幕末においては井伊直弼の指示に依り定員が17名に増強され、安政の大獄で志士の弾圧に活躍した。
黒鍬者
役料十二俵一人扶持、役高百俵。目付の配下に付き、戦時は部隊に先行して地形を調査して必要と有れば道路や橋を普請し、平時は城内の雑用、将軍の出向に際しては草履取りや荷物の搬送、先触れを行う。但し、荷物は箱に限り、書状は職掌の外にあった。一般に力仕事が主で、更に将軍の御用を務めるとあって非常に気が荒く、乱暴の振る舞いが多かった。
徒目付
御徒歩目付とも。
目付の下役。御家人役。3人の組頭(役高200俵)以下組士80人。組士は役高100俵扶持。監察及び城内の規律を監督する。大名が登城する際に玄関を守り城内を巡回し警備を行う。忙しい時には目付を助けて書類整理まで行う。
役目柄賄賂収入が多く、この役に付いた御家人は旗本昇進の話が有っても断ってしまう事も有ったと云う。
留守居
一般に旗本が任命される最高の官職であり、4〜6名が就任する。江戸城大奥の警備や大奥女中の出入り、関所の事務等を監督する。また将軍不在の際の江戸城の防御の責任者である為、城内全般の警備も行う。
大目付
諸大名、高家、旗本の内寄合の者等の監視を行う職務。寛永九(1632)年十二月十八日、秋山修理亮正重、水野河内守守信、柳生但馬守、井上筑後守政重の四名が就任したのを嚆矢とする。旗本4人が就任し、この旗本は大名格として待遇される。役高は3000石。老中の支配に属し、宗門・人別改方、道中奉行、御指物・御鉄砲改、服忌令分限帳改、御日記帳掛の分掌があり、公文書を諸大名に達し、将軍の寺社参りに具奉の人数を定め、諸大名急養子の是非を検査した。併せて諸大名の取り潰し等の非常事態の使者を務め、諸大名・旗本・御家人の訴訟裁判に際しては評定所に臨席した。
寄合
三千石以上の旗本で、無役の者が配属される部署。なお、三千石未満の無役旗本・御家人は小普請組に配属される。寄合旗本は全体の40%を占めたと言われている。
また、寄合の中でも元大名等家格の高い三十五家の旗本は「交替寄合」と呼ばれ、参勤交替の実施、「守」以上の官位の受領等、大名と同等の処遇を受ける。有名な寄合には室町以来の名門山名家、元戦国武将の金森家・生駒家・竹中家、元戦国大名の最上家、関東公方の末裔である喜連川家等が有る。
町奉行
将軍のお膝下である江戸の町の治安を守る、勘定奉行・寺社奉行と並んで三奉行と並び称される要職。町人からの訴訟の処理、犯罪者の逮捕、裁判、刑の執行を担当する。北町と南町の二つの奉行所が設けられているが、これは一ヶ月交代の「月番」で職務を担当している。旗本が就任し、役高は三千石、役料は千俵。二十年勤続すると五百石が加増されるが、大抵の場合はそれ以前に大目付に昇進する。
配下には南北各々与力25騎、同心12名を持つ。幕末の北町奉行は井上信濃守、南町奉行は駒井相模守であった。
勘定奉行
天領からの収入を元に幕府の財政を担当する役職。天領の行政、貨幣の鋳造も担当している。諸大夫、三千石高の有能で老練な旗本が選任される。役料七百俵。老中支配。なお、寺社奉行、勘定奉行、町奉行の3つを三奉行と言い、内政の最高職務とする。
勘定奉行は5人の旗本が徴税、金銀の出納、禄米の支給、貨幣の鋳造等を担当する財政担当の勝手方と、天領と関東の大名領に置ける裁判担当の公事方に分かれて担当していた。配下には勘定組頭十四名(旗本、焼火間詰、三百五十俵高、役料百俵)、勘定百二十名(旗本、焼火間、百五十俵高)、支配勘定九十八名(御家人、百俵高、五人扶持)が属す。
幕末には一代の英傑小栗忠順が殆ど独裁的な権力を振るって活躍した。
関八州取締出役
「関東取締出役」とも。
文化二(1805)年、勘定奉行公事方配下に新設された役職。大名領・天領・寺社領が錯綜した関東の治安を維持する為、関東代官の手付・手代(現地採用の地付役人)から選抜された。
彼らは水戸藩以外の関東八州を巡回警護し 御料・私領・寺社領にかかわらず踏み込んで捕縛する事が許されていた。当時は、「八州様」とも呼ばれ大変恐れられた役人であった。
当初は総員八名で、二人1組で関東を巡回したが、元治元(1864)年には房州・総州担当六名、上州・武州・相州担当六名、野州・常州担当四名、この他特別に担当を持たない者四名の計二十名に増員され、横浜警備の為に保土ヶ谷にも一名が常駐した。
幕末においては、治安の悪化した関東で農兵を率いて活躍。
まず、文久三年秋に九十九里浜付近の片貝で尊王派草莽志士三浦帯刀・楠音次郎らの率いる真忠組87名が決起すると、馬場俊蔵・渡辺真次郎らは福島藩・一宮藩・多古藩・佐倉藩の連合軍1500名を率いて急襲、三浦・楠を討ち取り、一日で反乱を鎮圧した。
また慶応三年、渋谷和四郎と木村喜蔵は薩摩藩の扇動により決起した野州出流山糾合隊に対して真岡代官山内源七郎ら農兵を率いて鎮圧に向かい、徹底した射撃戦でこれを撃破した。
作事奉行・普請奉行
作事奉行は建物の修理や建築を担当し、普請奉行は石垣や橋等の土木作業を担当する。とは云え常時こうした工事が有るわけでもない為、此の奉行職はそれ程重要なポストとは見なされなかったらしい。
幕末には江戸湾内の各種砲台の建築を担当したが、その時には大抵旧来の無能な旗本ではなく新進気鋭の西洋学問を修めた官僚が就任するので、江戸時代全般を通じて行われた商人との癒着も無くなった。
城代
幕府の城を将軍に代わって管理・防御する役職で、二条城代、駿府城代、大坂城代、伏見城代が設置された。定員は各1名。
遠国奉行
旗本各1〜2名が就任する。但し、伏見奉行のみ譜代大名が選任される。
各地に点在する幕府の直轄都市の管理を行う役職であり、京都・駿府・大坂・伏見等の町奉行は各々の都市の民政を司り、下田・函館・浦賀・堺・長崎・山田・日光・奈良・佐渡等の奉行は各々の地域の民政を司る。長崎奉行は特に鎖国体勢時の外交・貿易を司り、多大な役得を得ていたが、幕末にはそれらの権限は下田、函館、浦賀等の奉行に移行した。
なお、京都・伏見・奈良といった近畿の奉行は人事権は老中にあるものの、現場での指揮は京都所司代に属する。
大番頭
天正十五年設置。諸大夫、菊間詰、五千石高。
大番組は五番方の一つで平時は要衝の警備、戦時には先鋒隊を構成する切り込み隊である。その為旗本中から家柄・武芸に優れた精鋭を以て編成されている。大番組は12組(後10組に削減)に分かれ、大名・旗本から組毎に1名番頭が選任され、その下に各々組頭4名(布衣、躑躅間、六百石高)、旗本50人(二百俵高)、与力10騎、同心20名が配された。この12組の内2組が京都二条城に、もう2組が大坂に各々在番し、互いに1組ずつ交代で待機し、残り8組の番頭は毎日1人ずつ江戸城に交代で登城し、二ノ丸で宿直した。役料は2千俵。
組士の勤務は朝番・夕番・寝番の三交代制であり、勝手に欠勤・遅参・早退するものには改易等の厳しい処分が科せられた。
慶応三(1867)年六月十日、新選組の局長近藤勇は大番頭取(大番頭の取締役)、副長土方歳三は大番頭、隊長達は大番、監察・伍長は大番並に昇格している。なお、平隊士はこの時御家人格となっている。
慶応二(1866)年末に大番組は解体され、他の五番方と併せて組士は奥詰銃隊3個大隊に、組頭付与力・同心は撒兵隊4個大隊に再編成された……つまり新選組は有りもしない官位を貰って喜んで居たって訳なんだよな、うん。
幕末の大番頭には室賀出羽守がいる。彼は十四代将軍家茂が兵庫開港問題で進退に詰まって辞職を発表し、一橋慶喜に地位を譲ると発表すると、支配の老中松平周防守康直に向かって、「そう言う事になれば、一橋家に斬り込む」と言い放ったと云う。
徒組
将軍出向の際に徒歩で先駆して道路を警備したので、御徒士の名がある。平時は檜之間詰。
20組から成り、各組は徒組頭1名、徒組頭2名、徒士30名で編成される。
徒頭は役高千石で、上級旗本が就任。此の役には小姓組番士や書院番士から抜擢される者が多く、勤め上げれば目付や御先手組頭等の顕職に移り、行く行くは奉行に昇任出来るキャリアコースであった。
組頭には徒士から抜擢された御家人が付き、役高百五十俵三人扶持。御家人としては上位の物である。
徒士は七十俵五人扶持、将軍の外出の先払、警備を担当。更には姫君や御台所の外出を警護したりもし、非常に多忙であった。更に禄高が低く貧乏である事でも有名であり、借金で苦しむ者が多かったと云う。しかし、徒士は勘定奉行支配等の役方に昇進できる可能性があり、常に武芸学問に心を傾け、志操が高かった。幕末に活躍した川路聖謨、井上直清、榎本武揚等は皆徒組の出身である。
先手組
先手組には先手弓組と先手鉄砲組が有り、それぞれ弓矢・鉄砲の名手が揃えられた。弓組は8組、鉄砲組は20組有り、各組に先手組頭1名、与力5〜10名、同心30〜50名が付けられている。平時は蓮池門、平川口、梅林坂門、紅葉山下門、坂下門の五門を警備した。
なお、先手組の中から「加役(兼任)」として火付盗賊改役が任命された。
持筒組
将軍を護衛する鉄砲隊。三組から成り、各組に持筒組頭1名、与力7騎、同心55名が配された。
平時は中門を警備した。
鉄砲方
鉄砲御用人、鉄砲御側衆とも称す。若年寄配下。役料200〜300俵。布衣、躑躅間詰。井上家・田付家が世襲の職としていた。
職務は鉄砲に関する技術の教授、鉄砲の製作・保存・修理を主な任務とし、猪や狼の打ち払い、火付・盗賊の逮捕にもあたった。
鉄砲方は幕府創設から田付・井上・稲富の三家が伝承していたが、稲富家は稲富一夢と云う有名人を祖として隆盛していたが、江戸時代初期に銃砲術の改革を計って失敗し、番方に追われた。以後、国産銃器は井上家、輸入銃器(と云ってもオランダくらいだが)は田付家が受け持って、慶応二年まで続いた。
しかし、戦争のない日本では銃器の改良は停止し、鉄砲方が実際に銃を撃つのは、偶にある将軍の御鷹狩に際して新作の鉄砲をお披露目するくらいであった。その為、江戸時代後期に至って長崎町人高嶋秋帆らが西洋銃陣を披露すると、その旧態依然たる様は明らかとなり、幕末に到るまで活躍の機会は与えられなかった。
鉄砲方配下には御目見以下の鉄砲方与力、鉄砲方同心、鉄砲磨同心が居り、麻生と本所に集住している。
鉄砲方与力は井上・田付組に5名ずつ配属され、現米六十石高。鉄砲方同心は一組二十人、三十俵二人扶持。鉄砲磨同心は田付組に所属し、定員十二名、三十俵二人扶持。幕府所蔵の鉄砲を全て磨くのを役職とする。
火付盗賊改
火付盗賊改は市中を巡回し、江戸市内に於いて最も頻発した凶悪な犯罪、火付け、盗賊、博徒を捕縛する職務である。その特徴は町奉行所と異なり先手組旗本が役職を勤め、相手が武士や僧侶の様に治外法権の身分であっても現行犯で有ればその場で捕縛出来ると言う独自の機動性を持つ組織であると言う点に尽きる。
また、生け捕りを目的とした奉行所と異なり、真剣を所持している。
この為、機動性を以て素早く犯罪に対応するが、どうしても武力で民衆を鎮圧するという暗いイメージを払拭できず、江戸町民には親しまれなかった。実際には、中山勘解由等の人情味有る人物も多かったのだが……。役料1500俵100人扶持。同心30〜50名。
元来役宅を持たず、就任した旗本の屋敷を役所とした。漸く慶応元(1865)年に専用の官舎を得たが、腕を振るう間もなく翌慶応二年に廃止され、大番・旗奉行・槍奉行の同心らと併せて撒兵隊4個大隊に再編成された。
千人組
「八王子千人同心」とも。徳川家康が関東に入国した時、武田家の遺臣達に八王子に屋敷を与えて屯田兵としたのが起こり。中山道の出口を固めて西国からの敵を防ぐ一方、江戸市中に事有る際には命によって駆けつける事を義務付けられていた。また平時は交替で日光東照宮の火の番に上番した。
10組有り、各組に千人頭1名、組頭10名、同心が100名付けられ、合計1000名。千人頭は旗本で、知行地を持っていたが、組頭以下は御家人で、組頭は三十俵一人扶持、平同心は十二俵一人扶持と薄給で、組頭以上は八王子千人町に住んだが、平同心は多摩川沿岸に土着して半士半農の生活を送った。平同心は農村では勢力が大きく、名主などを務める事も多かった。
彼らは甲州武士の誇りを持ち、農作業中も脇差を外さなかった。軍役は徒士なので槍の訓練が主要だったが、刀、弓、乗馬の訓練も欠かさなかった。他に、毎月六日、十六日、二十六日には河原に集まり、戦闘装備での渡河演習を行った。
江戸時代後期には、防火作業が主となり、武士の誇りこそ堅持したが百姓・商人としての活動が重んじられるようになった。だが幕末に至って動乱期に成ると、幕府本来の兵力である旗本・御家人に代わって戦力として期待されるようになった。寛政十二(1799)年には組頭原胤敦以下百三十名の同心子弟が蝦夷地に駐屯、ロシア船への備えとなった。
こうした伝統の有る組織の千人組も、安政三年には銃隊に改編されている。文久三年二月二日、千人組銃隊は講武所奉行の指揮下に組み入れられ、将軍家茂の大坂行きに同行し、大坂玉造口の調練場で訓練成果を披露した。大坂駐屯中は和泉新田と千駄ヶ谷の煙硝蔵を警備し、慶応二(1866)年には第二次長州征伐に参加、小倉口に出陣した。そして、そこで下関から渡海攻撃を仕掛けて来た長州藩奇兵隊と真正面から衝突。千人組を指揮する軍目付斎藤主計が見苦しく逃走してしまった為、千人組も汚名を受けた。
同年十月二十八日、洋式編成の「千人隊」に改編。千人組の歴史は終わりを告げた。
江戸城開城後は官軍に降伏。特に蝦夷地に出向していた千人隊は新政府軍箱館府に附属して箱館を守ったが、幕府と繋がりの深い部隊だけに疑われ、銃器を没収された。しかし、明治元(1868)年に至って榎本艦隊が箱館に攻め寄せると、箱館府は慌てて千人隊を再募集。32名の兵士が箱館府に参加し、同郷の土方らと交戦し、戦死者を出して退却すると云う皮肉な運命を迎えた。これが八王子千人同心の最後の戦いであった。
与力
各奉行の配下で奉行・組頭に附属し、軍役・警察等治安維持に携わった。騎馬の待遇を与えられ、勤務中には袴を許された。人数は一騎二騎と数えられる。俸禄は四十五〜八十石程度で、御家人としては高い。
代表的な与力は江戸町奉行所の与力であり、俸禄は200石、位は御家人並で、当然将軍への拝謁は許されない。警察専門職であり、軍役の義務がなく、真っ当な武家社会からは罪人を捕らえる為「不浄役人」として蔑まれる。それでも同心よりは遥かに上位にあり、世襲は許された。
新選組局長近藤勇は、池田屋事件後この役職への昇進を打診されたが、あくまで新選組を軍隊としたい近藤はこれを辞退した。
勘定吟味役
布衣、中の間、五百石高、役料三百俵。
4人おり、2人は公事方、2人は勝手方に分かれている。公事方は訴訟の裁判を司り、勝手方は天領の租税他の金銀出納の監察を行う。形の上では勘定奉行の配下になっているが、これらの事務は勘定奉行から独立した専属の配下によって運営され、また其の結果も各々直接老中に書類で報告した。但し、一般には奉行に協力的な立場にあり、奉行と一緒に役所に出勤し、その補佐も兼ねた。役高500石・役料300俵で、奉行や役人との癒着を避ける為に任期は1年と限られている。配下は勘定吟味方改役六名(役料150石10人扶持)、勘定吟味方改役並十名(躑躅間、上下役、百俵高、役料七人扶持)、勘定吟味方下役(上下役、抱揚、持高、役料3人扶持)。
どんなに綱紀が弛緩しても、勘定吟味役だけは幕府終結まで潔白であった。そして、勘定奉行に対しても不正が有れば取り締まる権限を有した。それだけの権威を持つ職だけに、例え実入りは少なくとも此の職を希望する者は多かった。
此の職を務めると、遠国奉行や二の丸留守居役に昇進できた。エリートコースと云えよう。
城番
城代の配下で、城の門櫓を警備する。一定期間任地に赴き警備に従事する定番と、人数不足を臨時に補う加番がある。
同心
各番や江戸・駿府・京都・大坂・堺町奉行所及び火付盗賊改方に附属し、与力の配下で軍役及び警察等治安維持に携わった。騎馬は許されず、羽織袴で勤務する事は許されていた。
有名な江戸町奉行所同心は俸禄は30俵2人扶持、身分は御家人に相当するが、軍役はなく一代限りの契約であった。もっとも、大抵の同心は自分の後任は自分の息子を推薦したので、実質的には世襲制とそれ程代わりはない。
同心は、よく知られている市内を見回り犯人捕縛に当たる定町廻りの他にも、橋廻り、水路廻り等の職分に分かれている。彼らの配下となって実務を助ける者に岡っ引や町役人がいる。
役人は町人が交替で担当する職務で、普段は番屋に詰め、町内の自治と犯人捕縛の支援の他、雑用も担当する。但しこれらは公式の警察組織ではないから、同心は幕府に於ける最下級の役人である。付け届に依って金は他の御家人より多く持っているが、身分は低く、明治維新の後も士族に成れなかった。
同心の仕事は生け捕りが専門なので、捕縛術・十手術には長じているが、刃引きの刀しか所持していない。
岡っ引
岡っ引とは岡目八目の諺からも知れる通りに脇から引っ張るの意であり、其の名の通り岡っ引は同心が私費で雇った町人であり、正規の役人ではない。元々は犯罪者や博徒である場合が多く、蛇の道は蛇、と言うことで取り締まりに活躍する。
一応同心から「同心限り手形」を支給され、捜査権に近いものを持っているが、逮捕権は無く、犯罪者を逮捕するときには同心の立ち会いが必要。
岡っ引きの俸給は同心のポケットマネーから支払われる。しかし同心とて多額の報酬を得ているわけではないので、年に一両か二両のみしか支払われない。此の金額から、更に普段は市井の職業に就きながら情報を収集する下っ引きに小遣いを払わねば成らず、不足分は町内の商人からの付け届けに頼らざるを得ない。此の付け届けの為に町人は大いに迷惑を受け、其の弊害は幕府にも分かっていたのだが、遂に最後まで廃止できなかった。岡っ引き・下っ引きは幕末には500人に上った。
郡代・代官
共に旗本から選任され、天領の行政を司る職務だが、特に支配地が10万石以上の管轄地域の広大なもの、要衝、大藩付近の地を管理するものを郡代、それ以外を代官と称した。支配地には陣屋を配置し、その下には手附以下30余名がいるが、武士として戦闘力を有するのは御家人二名、侍三名、足軽一名のみ。お代官様が「えーい曲者、出会え!」と云っても実際に出て来るのは六人だけ……虚しい。では治安維持はどうしているかというと、殆ど農村の自衛に任せていたらしい。
職務は農業奨励、納税人口把握、年貢徴集等の財政事務と、警察、裁判、刑の執行等の公事方事務である。郡代は主に管轄地域の大きい関東、美濃、飛騨、中国筋に配置された。代官は数万石の天領を支配する。
なお、江戸時代末期には農政に関するノウハウが充実しており、更に一揆件数が飛躍的に増加した為、代官達も産業振興に尽力する者が増えた。もはや幕末では時代劇風の悪代官に出会う事は希になってしまっている。少し寂しい。
幕末には、海外情勢の緊迫化や治安の悪化に備え、農民を徴募して訓練を施し、農兵隊を組織した。その規模は所轄する領地にもよるが、韮山代官所は江川太郎左衛門の指導の元早くから溶鉱炉を設置する等装備の強化に勤め、また甲府代官所は1200・鉄砲300挺を装備していた。彼らは有事に際しては兵を率いて出陣する事もあり、薩摩藩の糾合屯所隊が関東で「出流山天狗戦争」を引き起こした際には、真岡代官山内源七郎が農兵を率いて鎮圧にあたった。
代官所所属人員
| 役職 | 定員 | 俸給 | 備考 |
| 代官 | 1 | ||
| 元締 | 1 | 手附の内老巧の者を任ずる。 | |
| 手附 | 2 | 三十両五人扶持 | 上級御家人の中から代官が推薦し、勘定奉行が任命するが、実際には転勤等は無い。警察事務に当たる公事方、人口調査等を受け持つ地方に分かれる。代官所の実質上の責任者。 |
| 手代 | 8 | 二十両五人扶持 | 手附の補助。農民から代官が任命したが、其の仕事内容は手附と殆ど変わらない。身分は準幕臣で、両刀を認められる。 |
| 書役 | 2 | 五両一人扶持 | 手代の見習い。手代の子弟が此の職について修行し、昇進して手代になった。 |
| 侍 | 3 | 三両二分一人扶持 | 代官陣屋の警護に当たる。 |
| 勝手賄 | 1 | 五両一人扶持 | 代官陣屋の食事を作る。 |
| 足軽 | 1 | 三両一人扶持 | 代官陣屋の警護に当たる。 |
| 中間 | 13 | 二両一人扶持 | 雑用係。 |
蔵奉行
幕府の米蔵の管理・出納を扱う。
林奉行
幕府の所有する山林の管理を担当する。
高家
幕府の儀式典礼を司る役職。また勅使や公家の接待の指揮、京都への使い、伊勢・日光等への将軍の代参を務めた。役高1千5百石で、大名格。旗本の内、宮原、吉良、織田、武田、畠山、戸田、有馬といった室町以来の名門26家が世襲するが、度重なる分家・新設によって幕末には実に200家余りに増加していた。幕末には、朝廷への使いは老中格の重臣が自ら上京する等、能力重視の使者が派遣された為、高家の仕事は殆ど無かった。
関東郡代
関東郡代は関東地方の天領を一括支配する要職で、その支配領域は百万石に及んだ。関東郡代は代々伊那家が世襲し、最初は勘定奉行の配下だったが後に老中の直接指揮化に移行した。また慶応2(1866)年には関東在方掛と名称を変更している。
甲府勤番支配
天領である甲斐国の支配と甲府城の警備を司る職務。定員は「大手屋敷詰」・「山の手屋敷詰」の2名で大身の旗本が就任した。その配下には組頭2名、与力各10名、同心各30名が付属して甲斐国の行政を行い、更に小普請組所属の旗本から200名が甲府に強制移住させられて甲府勤番となり、甲府城の警護にあたった。甲府勤番支配は江戸城防衛の要として優遇され、役高三千石、役料千石を支給された。しかしその配下となる甲府勤番は、役料無し・交替無しの非常に不遇な役職であったので、「山流し」等と呼ばれて不良旗本の左遷先として有名となてしまった。
幕末の甲府勤番としては、大手屋敷詰の水野清六忠敬と山の手屋敷詰の佐藤駿河守信崇が在勤。大政奉還後、佐藤は甲陽鎮撫隊に甲府城を渡そうと画策したが、官軍の素早い進出を受けてしまう。咄嗟に事務手続きを理由に官軍の入城を留めて近藤に急使を派遣したが、遂に間に合わず甲府城は奪取されてしまった。その後、甲府勤番は官軍への帰順を決定。100名を選抜し、東海道副総督柳原前光直轄の兵士「護衛隊」として甲府城の防衛に就いた。
外国奉行
安政五カ国条約の締結に伴い、安政5(1858)年7月に設置された。当初は幕府の外交交渉の実権を握る要職であった。最初は五カ国各々に水野忠徳、永井尚志、井上清直、堀利煕、岩瀬忠震の5名が任ぜられたが、後に月番制となり、定員は一定しなくなった。石高2千石相当。慶応3(1867)年、外交交渉務総裁が設置され、老中自らが外交交渉を担当するようになると、外国奉行はその配下の事務処理のみを担当した。
禁裏付
定員2名。諸大夫、芙蓉間詰、千石高、役料1500俵。朝廷と幕府を取り持つ立場から従五位に自動的に叙せられる。幕府より朝廷に派遣される。京都所司代の指揮下にあるが、人事は老中が行う。配下は与力10騎、同心40名、禁裏御賄頭、台所頭、御勘使等。妻子同伴で赴任し、五年に一度江戸に報告に赴く。
幕府の差し向けた監視役で、与力十騎、同心五十人を持つ。一説に依れば、同心は多くを伊賀者・甲賀者から選任したと云われている。
禁中表裏三門を同心に守らせ、松明を絶やさないようにさせた。また禁裏の出来事を監視し、新規のことが有ればすぐに江戸に知らせる義務を持っていた。更に用度調達の事務を司り、また、公家や地下役人の管理も担当している。
屋敷は元百万遍屋敷と相国寺門前石橋町に有り、配下の組屋敷も其の間近に有る。