会津に戻った会津藩士
 会津に戻った会津藩士は、生活の道も無く徘徊し、更には官軍に道を教えた農夫を暗殺する等殺伐を極め、住民を不安に陥れた。
 こうした事態を憂慮したのは、皮肉にも旧薩摩藩士の三島通庸であった。剣術の保護や試合の励行等「武士道保護事業」の大好きな三島は、旧会津藩士を大量に雇用し、新塩原街道の敷設を実施した。これに対して住民が自由民権運動と連動して反対運動を起こすと、旧会津藩士を派遣して運動を鎮圧した。
 そのお陰で会津は東京からの観光客を誘致する事に成功し、旧会津藩士も就職に成功したが、三島は自由民権運動弾圧の汚名を一身に背負う事になり、戦後厳しく非難される事になった。