幕府に依るクーデター
 文久三(1863)年五月二十六日に行われた、武力によって朝廷を制圧する作戦。企画者は勘定奉行の小栗忠順と言われている。
 先ず、幕府陸軍の内、老中並小笠原長行率いる洋式騎兵150、歩兵隊1300(1個連隊規模)、砲兵150を幕府軍艦蟠龍朝陽、輸送艦鯉魚門(ライモン)、及びチャーターしたイギリス輸送船「エルギン号」及び「ラージャ号」に載せて大坂湾より上陸させ、更に若年寄酒井飛騨守忠マス(「田」+「比」)率いる騎兵100、歩兵隊1000、砲8門を陸路から京都に送り出し、朝廷を挟み撃ちにする。こうして京都を制圧している長州藩を追い出した後は、孝明天皇を彦根城に遷し、朝廷を無力化する……と言う計画であったが、実際には大坂に上陸して徹宵行軍して橋本まで前進した所で在京の老中稲葉正巳らに差し止められ、更に幕閣に動かされた十四代将軍家茂から直筆の停止命令を受けた為、部隊は大坂城に帰還した。

 このクーデターは失敗に終ったが、京都で「攘夷を達成するまでは返さない」と朝廷に詰め寄られて身動きが取れなかった家茂が、クーデター阻止の功績と幕府の軍備を恐れた朝廷の譲歩によって大坂城に戻る事が出来たのは事実であり、その功績は否めない。その為、部隊を指揮した小笠原には官位停止の上大坂城に逼塞の処分が下されたが、それ以上の懲罰は下されなかった。

 クーデター勃発時、公家達は大いに慌てふためいたが、結局不発に終ったので、小笠原を嘲笑して勝ち誇った。また、「幕府は大兵力を持っているが朝廷の権威には手出し出来ない」と云う認識を強め、此れまで以上に尊皇攘夷派公家の勢力が強まって行った。