小千谷会談決裂
小千谷会談決裂には幾つか理由が挙げられているが、その真相は定かでは無い。
1)岩村無能説
岩村精一郎は土佐の田舎育ちで、24歳と若く殆ど政治活動の経験も無く、更に東山道軍監とは云え新潟に来るまで抵抗を受けずに来たので思い上がっていた。
そんな岩村は河井の武装中立案を理解出来ず、一方的に服従を求めた為に決裂した。
ただ、会談には長州の白井小助や薩摩の淵辺直右衛門もいたのに、何もかも岩村のせいにするのはどーかなーと思わないでも無い。
2)河井傲慢説
有能な河井には岩村が身分の低い若造にしか見えず、つい言葉の端々に無礼な物言いが滲み出てしまった。
その為岩村が怒り、河井の提案を拒絶した……うーん、何処かで見たような話だw
3)会津陰謀説
この会談の前に、佐川官兵衛に率いられた会津兵が片貝の官軍を攻撃しているのだが、退却する際に牧野家の旗印を捨てて行ったので、官軍は長岡藩が会津に通じているのではないかと疑っていた。
4)そもそも中立は無理
hp『週刊オブイェクト』補習授業所収の「中立国と平和の要塞」を参照。
山奥の小藩なら兎も角、会津への進軍ルートのど真ん中に有る長岡藩が中立を唱える事自体に無理が有る。
「峠」の発表された時期が1968年という安保闘争真っ最中の時代だけに熱烈な支持を受けたが、冷静に見たら河井の行動は支持出来ない。
ちなみにこうした河井の能力を疑う反論に対して、偶に「河井は会津藩が守りを固める(or長岡藩が軍備を増強する)時間を稼ぐ為、無理を承知で中立を主張していた」と述べる人がいるが、それだと中立策の欺瞞を見抜いて強硬な姿勢に出た岩村が有能とゆー事になってしまうんじゃないかと(^^;