八月十八日の政変
 文久三年の前半は、正しく尊王派の独壇場であった。先ず、朝廷に開国策を認めさせる為に上京した将軍家茂を追い出し、更に八月十三日には孝明天皇の大和行幸が宣言された。此の行幸は表向きは攘夷祈願の為に神武天皇陵と伊勢神宮に詣でると云うものであったが、実際には大和で尊王派志士と呼応して挙兵すると言うクーデター計画であった。
 しかし此処に来て、漸く佐幕派の活動が再開された。先ず、クーデター計画を聞いた公武合体派の中心人物
中川宮は、同じ公武合体派として関係の深かった薩摩藩に計画を洩らした。此を聞いて慌てた薩摩藩は、すぐに京都守護職会津藩に接触。此処に、幕末政治史の芸術とも云うべき奇妙な同盟が成立した。尤も、此の同盟を佐幕派筆頭と尊王派筆頭の連合として奇異の念を抱くのは後世の人間のみであり、当時の会津藩などは薩摩藩を唯一無二の盟友、同じ厳しい武士道を貫く同胞として敬意を以て遇していたのだが。
 さて、クーデター計画の阻止である。此には、当時朝廷の内部は尊王派公卿で占められていたので、非常な注意が必要だった。先ず中川宮は、何も知らずに担ぎ出されつつあった孝明天皇に密かに接触し、クーデター計画を暴露した。孝明天皇は元来頑迷とも云える程の攘夷主義者であったが、飽くまで幕府の武力での攘夷を考えていたので、倒幕を目指す此のクーデターには賛同出来る筈も無かった。こうして、行幸中止の勅命が発令され、同時に
三条実美ら尊王派公卿は参内を禁止された。同時に会津藩、薩摩藩、淀藩らの兵が御所に集結、各門を固めた。

 勿論、我らが新選組も例外ではない。会津藩公用方野村佐兵衛から命令を受けた芹沢は勇躍して出陣した。御所とは正反対方向にある壬生の屯所を出た新選組八十名は二列縦隊を採り、六尺四方の隊旗を先頭に掲げて威風堂々押し出した。此の行列の先触れに立つのは、坊主頭に白鉢巻、大薙刀を担いだ松原忠司であった。彼は尊王の志を歌った詩を吟じつつ練り歩き、恰も武蔵坊弁慶の如き勇壮さであった。此の松原の後に、芹沢、近藤、新見の局長連中が続く。局長達は皆小具足を着込んで烏帽子を被り、此方は大名のような厳めしさであった。
 さて、この様な一団が御所に向けて、遙々進んできたのである。御所警備の藩兵が警戒しない筈はなく、会津藩兵は早速彼らに槍を突き付けて誰何した。此の対応に近藤、新見らは怯んだが、ただ芹沢のみが得意の鉄扇を帯より引き抜き、槍先をぱたぱたと扇ぎつつ、

「我々は会津候御預壬生浪士である。無礼して後悔するな」

 とからかった。此の芹沢の剛胆さには流石の会津藩兵も舌を巻き、壬生浪士の名前は天下に知れ渡った。こうして会津藩に合流した新選組は桐仙御所の警備に就いた。隊士一同には会津藩の合い印として黄色の襷が配られ、新選組の士気を高めた。夜に入り、新選組は南門の警備に移動した。此の時、朝廷に壬生浪士の活躍が伝えられ、「新選組」の隊名が下された。だから、正式には此以降を新選組と称するのだが、其れではゲーム的に盛り上がらないので成立当初から新選組で通す。

 異常を聞いた一方の長州藩はすぐに兵を差し出したが、既に幕府軍の防御態勢は完璧であり、また御所に砲門を開いて賊軍の汚名を被る事を恐れて洛東の妙法院に移動した。そして、朝廷から追放された三条実美ら七人の公卿を守りながら、長州に退いた。此を、七卿落ちという。新選組の黄金時代の始まりを告げる事件であった。