伏見街道の戦い
幕府軍は鳥羽街道と伏見街道の二正面作戦を展開した。
其の一方の攻撃ルートである伏見街道方面の指揮を執るのは、「半兵衛の再来」と呼ばれた陸軍奉行竹中丹後守重固である。そしてその配下にあって要衝伏見奉行所に展開していたのは精鋭を以て鳴る会津藩兵第一陣(家老:田中土佐/物頭:堀半右衛門/520名)・別選組(隊長:佐川官兵衛/170名)・大砲隊林隊(大砲奉行:林権助/四斤山砲3+口径不明砲1)・大砲隊白井隊(物頭:白井五郎太夫/四斤野砲2+四斤山砲1)と新選組、歩兵第四・第七・第十一(歩兵頭:佐久間信久)第十二連隊(歩兵頭:窪田備前守)、伝習隊であり、こちらのルートこそ、幕府軍の本隊である事が伺われる。
此に対し、迎え撃つ薩長軍は東福寺に陣を構える長州本軍1000余名(整武隊97名、振武隊97名、鋭武隊97名、第二奇兵隊125名、膺懲隊40名、徳山・岩国藩兵若干)、指揮官島津式部・参謀吉井幸輔に率いられた伏見藩邸詰の薩摩兵700名(城下士小銃隊等)、乾退助率いる土佐藩兵数百名総勢であり、確かに指揮官には人を得ていたが、数的劣勢は覆せないであろうと思われた。しかし、薩摩軍は開戦直前に道を挟んで南に伏見奉行所を見下ろす御香宮に進出。更に御香宮の東に有る桃山龍雲寺にも兵を派遣し、旧幕側でありながら態度が不鮮明であった彦根藩兵を脅迫して追い出すと、砲四門を据えた。
三日午後、鳥羽街道での砲声を合図に戦闘が開始された。
新選組や会津藩兵は確かに勇敢ではあったが、装備・戦術は旧式であった。折角援軍に来た幕府歩兵連隊を後方に下げて自ら先陣に立ち、却って彼らの射線を遮ったので、新選組は射撃に追い立てられ、歩兵連隊は砲撃に追い立てられると云う甚だ理不尽な戦いを強いられた。それでも新選組・会津藩兵は粘り強く戦い、市中では激しい白兵戦が行われたが、薩軍は桃山から激しい砲撃を加え、伏見奉行所は火に包まれた。
そんな中で、最も有効に反撃を行ったのは歩兵頭窪田鎮章率いる歩兵第十二連隊と伝習隊であった。特に伝習隊は躍進して薩摩藩兵を撃破すると長州藩兵も追い払い、墨染まで前進した。
また、最左翼に展開した別選組・白井隊は土佐兵と対峙したが、土佐藩は未だ態度を決めかねており、会津兵に道を譲ってしまった。会津兵は薩摩藩の伏見藩邸を攻撃。前述したように伏見藩邸はもぬけの殻だったのであっけなく全焼し、会津兵は竹田街道にまで前進した。しかし、後続部隊を指揮すべき竹中は動かず、補給の途絶えた別選組・白井隊は退却した。
夜半に至り、奉行所の灯りを目当てに桃山御香宮の薩軍砲兵が激しい砲撃を加えたので、新選組には多くの損害が出たが、幕府軍全体としてみればまだまだ優勢であった。。
翌四日、幕府軍は鳥羽方面での敗戦をフォローすべく第十一・十二連隊を伏見方面から引き抜いて移動させた。また、竹中は「作戦の相談」と称して淀本営に行き、四日一杯前線に帰って来なかった。何れも伏見方面を甘く見ての処置であろうが、薩長軍に錦の御旗が翻ると、伏見方面の幕府軍の士気は低下。墨染まで前進していた伝習隊も、薩摩藩お家芸の待ち伏せ戦術「釣り野伏せ」に引っかかって壊乱してしまった。更に尊王派に態度を決した土佐藩兵本隊が出撃すると、幕府軍の士気は崩壊し、淀に向けて撤退を開始した。しかし、新選組は淀堤千両松に留まって、逆襲の機会を窺った。