佐々木六角源氏太夫
 元治元年一月半ばから兵庫辺りで火縄銃・陣笠・刀槍を揃えて乱暴に及んだ武装集団の頭領。
 六角佐々木氏は敦実親王を祖とする宇多源氏の嫡流で、幕末には第十代当主佐々木泰綱が京都六角堂に屋敷を構えて「六角氏」を名乗っていた。
 佐々木六角源氏太夫はその名門を騙って早くから京都で志士活動をしていたが、第一次長州征伐が終った元治元年一月には浪士三百名を集め、馬印を掲げて「公辺に御味方、御与力致し候」と合唱させた。また、自分の息子・龍王丸を「若君」、娘を「姫君」と呼ばせ、大いに威を振るったと云う。
 一月二十五日、「容易ならざる企て」を抱いて上京。二十六日、下河原鷲尾町の料亭で休息中、佐々木只三郎直率の見廻組の襲撃を受けて佐々木六角源氏太夫・龍王丸親子以下十二名は捕縛された。残党二十四名は織田兵庫介に率いられて兵庫を目指して逃走したが、二十七日に大坂堂島の旅籠・播磨屋で新選組三十名に包囲された。此処では手向かった鈴木四郎と云う二十六歳の浪士が斬られ、残り二十三名は捕縛された。この事件では、特に新選組監察山崎烝の活躍が大きく伝えられている。
 彼らの「容易ならざる企て」の内容は不明だが、取調べの結果天狗党とも長州藩とも無関係とされ、大坂奉行所に引き渡された。