芳賀宜道(はが・よしみち)
元松前藩士市川宇八郎。神道無念流の剣術と柔術をよく使い、同門の永倉とは親友であった。幕末に至って激烈な攘夷論を唱えた為に藩を逐われたが、その後幕臣の芳賀氏に養子に入り、御書院番・三百石で出仕し、更に学問取締役に任ぜられた。やがて鳥羽伏見の戦いが起こり、敗走した将軍慶喜が謹慎すると、抗戦を叫んで「靖兵隊」を結成。旧友永倉を始めとし、原田左之助、矢田賢之助らの新選組隊士を取り込み、更に諸藩の志士五十名を得て挙兵した。また幕府から歩兵五十名を与えられ、幕府歩兵指揮官米田圭次郎の配下に付いた。しかし、江戸城が開城される前日に江戸防衛を諦めて関東に脱出し、大鳥圭介の伝習隊と協力して宇都宮、今市、日光を転戦した。此処で日光攻略を命ぜられた芳賀と永倉は靖兵隊一手では攻略は無理と判断し、会津藩に援軍を求めて東北に潜行した。此の潜伏行は既に会津の本拠若松城が官軍に包囲され、入城できず不発に終わってしまう。そしてたまたま上州の攪乱を計る米沢藩士雲井竜雄と出会い、そのまま彼の奥羽列藩同盟救済の策動に協力するが、実らない内に米沢藩は降伏し、援軍の目算を失った芳賀と永倉は靖兵隊を解散し、江戸に潜伏した。
江戸に入った芳賀は永倉と別れて遊郭に潜伏していた。其処で官軍に協力している義兄の藤川亦八郎に出会い、酔った勢いで彼を罵りかつ殴りかかった。藤川は芳賀にうち倒されたが、すぐに藤川の部下が駆けつけて芳賀を斬った。若き豪傑の、余りにあっけない死に様であった。