林忠崇(1846-1941)
 請西藩第四代藩主。通称は昌之助。
 幼少時から秀才として知られ、慶応三(1867)年に叔父忠交の養子として家督を相続。戊辰戦争が勃発すると、義軍府頭取福田八郎右衛門と大隊長江原鋳三郎(後の江原素六)が来訪し、共に江戸に進撃するよう進めた。義軍府は撒兵隊を中心に木更津で決起した旧幕脱走隊で、兵士2000を擁していた。彼らは後に薩摩藩支藩佐土原藩と激戦を繰り広げる等戦力的には申し分なかったのだが、忠崇はこれを拒絶。その理由は定かではないが、一説に依ると彼らは諸方で略奪暴行を働き、評判が悪かったからと云われている。尤も私等は、与力・同心からなる撒兵隊と同類扱いされるのを忌避したのではないか等と疑っているのだが……。
 その後、遊撃隊頭取人見勝太郎伊庭八郎ら遊撃隊三十五名が上総に現れ、箱根進行作戦の為に協力を要請すると、これと意気投合。藩士六十五名を引き連れて脱藩し、遊撃隊と合流した。駿府城在番の幕臣や勝山・岡崎・館山等の脱藩藩士を糾合して総勢273名となった遊撃隊は、小田原藩を説得して箱根封鎖を画策する。既に帰順していた小田原藩は彼らの要請を受けると旧幕方に寝返り、形ばかりの応戦をして箱根の関所を明渡した。この報告を聞いた江戸の官軍は、参謀穂波経慶を小田原への問罪使として派遣する一方、参謀河田景与、軍監三雲為一郎に長州・因幡・津・岡山ら四藩の兵2700を附して派遣した。また、甲府の甲斐鎮撫府からは沼津・高遠両藩の藩兵を派遣し、挟み撃ちの態勢を整えていた。
 穂波らは小田原に到着するとすぐに藩首脳部を糾問、小田原藩は再び寝返り、箱根の遊撃隊を攻撃した。遊撃隊は小田原藩相手に寡勢ながら奮闘したが、官軍の援軍が到着すると敗退。熱海に逃れ、船で安房国館山に退却した。館山では仙台藩士土佐藤之助の勧めに従って奥羽越列藩同盟に参陣。常陸国平潟港防衛戦等で勇戦するが、最終的には仙台藩の帰順に従って降伏した。
 戦後、請西藩は廃藩となった。昭和十六(1941)年、次女ミツの経営する都内豊島区のアパートで老衰死。

 林忠崇は佐幕派大名の中で最も好感度の高い大名であり、小説等でも否定的に描かれる事は殆ど無い。
 その理由は、三百諸侯の中で唯一実際に部隊を率いた大名であり、唯一廃藩の憂き目に遭った大名だからなのだが……。

 実際には、藩主自ら隊長を務めた藩には、他にも三日月藩がある。
 三日月藩は播磨国三日月に一万五千石を領する小藩で、藩主森氏は織田氏に仕えて剛勇の誉が高かった部将森可成の傍系の子孫である。
 この藩は早くから洋式装備を整え、慶応二年には三方里山を切り開いて調練場を作り、フランス式訓練を行った。その結果、新式砲2門、旧式砲1門、洋式歩兵300(水魚隊・魚形隊・正義隊)を擁するに至った。
 戊辰戦争が勃発すると、九代目藩主森俊滋が自ら隊長となり、伝令四名、歩兵四十四名、輜重方、医者、輸卒等総計五十一名を引き連れて出陣。明石・福知山・高鍋藩と共同で越後口の先鋒を務め、与坂・長岡・岩石等の戦場で勇戦し、戦死者一名を出す一方捕虜八名を得た。その後、庄内藩との戦闘にも参加し、十一月に帰藩した。賞典二千両。(『幕末維新三百藩総覧』より)

 また確かに、戊辰戦争の戦後処理で唯一廃藩となった藩として有名だが、逆に一体藩を捨て領民を遺棄して立ち去った藩主を廃藩以外のどーゆー処分にすれば良いと云うのであろうか。それでも、1869年には忠交の子忠弘が三百石取りの東京士族として復帰して、更には1893年に恩赦を受けて男爵号を得ているわけだし。

 まぁ、上手い具合にヒーローのお零れに預かれてラッキーやったねとw もしもうっかり義軍府に付いて行っちゃったら、2000の中の65名じゃ埋没必至だし、地味な旧幕軍として三日月藩並に資料ナシ状態だろ〜なぁ。