広沢 富次郎
 
諱は安任。会津藩下士出身。家は非常に貧しく、勉学の傍ら山に入って山菜を採って暮らしていた。
 秋月悌次郎の10年ほど離れた後輩に当たり、昌平坂学問所では寮長を務めた。
 暑苦しい牛のような容姿だが、才気煥発であった。
 後にその才能を横山主税に認められ、京都公用方に抜擢。本来なら身分制度の厳しい会津では、こうした抜擢は有り得ないものであり、「江戸の三家老」横山の名家老振りが窺われる(勿論、横山が江戸詰家老で、江戸の昌平坂での秀才ぶりを良く聞いていたからでもあるとは思うが)。
 京都では主に新選組との折衝を担当し、近藤とは親交があった。

 秋月と共に薩会同盟に尽力。会津藩全盛期を演出するが、決して高慢にならず、諸藩の京都留守居役や志士と親しく話し合ったので、薩長藩士にも人気が有った。

 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、単身京都の薩摩藩邸に乗り込んで西郷との談判を要求。即時和睦を主張したが、逆に捕らえられて維新後まで幽閉された。
 釈放されると、斗南藩に帰参。斗南藩が廃藩置県で消滅した際には、大久保利通から政府入りを勧められたが、拒絶。広沢の才気を惜しんだ大久保は青森県三沢に広大な土地を払い下げたので、広沢は牧場を開き、士族への授産と殖産興業に務めた。