掘 親義 (ほり ちかのり)
信濃国飯田藩一万五千石の藩主、石見守。
文化十一(1814)年生まれ。
元治元(1864)年四月に起きた天狗党の乱の際、天狗党の威勢に恐れをなして領内を無抵抗で通過させた為、幕府の怒りを買って減封された。
その後、同年の九月から十月まで講武所奉行を務め、慶応二(1866)年十一月十五日、見廻役に就任。飯田藩の京都藩邸には住まず、出水通七本松東入るの光清寺に入ってそこから見廻組役宅に通って職務を執り行った。
しかし、見廻組は与頭佐々木只三郎が実権を握っており、堀の出る幕は殆ど無く、京都守護職や幕閣の目付等も堀を差し置いて佐々木と直談判する等些か軽んじられていた。その為、「見廻役は書類を廻すだけの仕事」とか「佐々木を見廻役にすれば良い」と不平を漏らし、京都所司代に愚痴を漏らしていた。ただ当時の見廻組では見廻役松平出雲守は不祥事に依り免職、蒔田相模守は病気を得て辞意を漏らして居り、転職の少ないノンキャリアの佐々木が指揮を取るのも無理は無かったものと思われる。
結局、病気の蒔田を見廻役に残して慶応三(1867)年五月八日、名を左衛門尉と改め、奏者番に栄転した。後任には在京中の目付岩田織部正が選任されたが、これは見廻役ではなく見廻役並に任ぜられたところから見ても緊急の人事であり、正規の後任を待たずにさっさと逃げた堀はやや無責任と云えるのではないだろうか。51歳の癖に文句多いしw