池田屋事件
元治元年六月、尊王派志士は8.18クーデタで失った政治的優位を回復せんと密かに京都市中に潜入していた。しかし、同志古高俊太郎が新選組近藤勇らによって捕縛されたので、同月五日、尊王派志士は善後策を協議すべく三条小橋西北側の旅館池田屋に集まり、二階で酒肴を交えつつ会合を開始した。猶、尊皇派の重鎮である桂小五郎は会場に一足早く現れ、未だ誰も来ていなかったので、暇つぶしに近所の対馬藩邸に知友を尋ねて不在であった。
尊王派志士の集会は早くも新選組によって探知されたが、新選組はその場所を池田屋と三条畷の料亭四国屋丹虎の何れか特定できなかった。また、支援を要請していた京都守護職会津藩・京都所司代桑名藩の藩兵は夜半になっても議論を重ねるのみで出動せず、結局近藤は新選組を二手に分け、近藤以下沖田総司、永倉新八、藤堂平助、近藤周平、武田観柳斎ら六名の池田屋襲撃隊、土方以下二十余名による四国屋襲撃隊が、それぞれの目標に向かって、祇園祭の宵山の祇園囃子を背に出撃した。
猶、俗説では新選組監察山崎奨が薬屋に変装して潜入し、志士達の刀を片付けてしまったと云い、また新選組の間者お菊が女中として潜入し、情報を送ったり、斬り込み当日も、池田屋の前に乞食に化けて張り込んでいる新選組の密偵に、紙切れに店内の様子を描いて手渡したり、志士達の刀を束ねて隠したり、束ねてきつく縛り上げたりと活躍した等と云われた。
しかし、山崎は池田屋事件の論功から外されており、此の説は史実ではないと思われる。但し、史実ではないから採用しないわけではなく、当「維新の嵐」の世界では、山崎が巧みな関西弁で宿屋の女中に取り入り、刀を片付けてしまった事とする。
池田屋に向かった近藤は、玄関から突入。有名な
「御用改めである!」
と云う一喝と共に乗り込む。此に応じて店主池田屋惣兵衛は階上にこれまた有名な
「各方、御用改めで御座る!」
と言う大声を発して警報を発したが、近藤に殴打されて気絶した。
さて、警告を受けた二階の尊王派志士の反応だが、此は意外と鈍く、入り口近くに座った土佐浪士北添佶摩が辛うじて聞き取ったのみであった。北添は声を聞くと席を立ち、一階への階段に向かったところで階下より駆け上がってきた近藤に斬られ、敢えない最期を遂げた。
近藤達の襲撃に志士は慌てたが、刀を山崎によって隠されたので脇差で斬り合う外はなく、屋内であって脇差の方が有利な面もあったが、所詮リーチの差は大きく、苦戦を強いられた。表階段を経て二階に上がったのは、新選組きっての剣客沖田である。沖田はすぐに一人を斬り、裏階段から上った近藤に志士が屋根伝いに裏庭に逃れているのを指摘。近藤はすぐに階段を下りて裏庭に入り、飛び降りてくる志士を斬った。
その後、四国屋捜索が空振りに終わった土方隊が駆けつけると、近藤は乱戦の中にありながら機転を効かせ、命令を「殺傷」から「捕縛」に切り替えた。その後、漸く出動許可の下りた諸藩兵も駆けつけ、二時間に亘る激闘の末に新選組が勝ちを制した。志士側の損害は即死者七名、逮捕者二十三名に及び、その中には宮部鼎蔵、吉田稔麿、松田重助らの名士も含まれ、実に「明治維新は此の事件の為に3年遅れた」と云われた。
しかし、新選組からも藤堂平助が眉間に傷を負い、永倉新八が親指の付け根を負傷、土方隊の安藤早太郎・新田革左衛門が重傷を負い後に死亡。全体に苦戦ムードは拭えず、見舞いに現れた会津藩重役に対して会津藩兵の遅参を詰って新選組隊士が詰め寄る一面も有った。彼らの間に漸く勝利の実感が行き渡ったのは、朝廷からと云う名目で幕府から多額の報奨金が下賜された時からであろう。以後、新選組の名声は尊皇派に恐怖と憎悪の対象として長く語り継がれる事となった。