禁門の変
元治元年七月十九日、上洛した長州藩兵と、御所を守備する幕府軍の間で行われた一連の戦闘の総称。
特に、蛤御門(烏丸通下長者町上ル)の守備に当たった会津藩と、その援軍に駆け付けた薩摩藩兵が激しく戦ったので、「蛤御門の変」とも称される。
長州藩は文久三年八月十八日の政変で京都を追われ、藩主父子共に謹慎を命ぜられて国元に撤退。長州藩を支持してきた公家七名も追放されて京都政局に於ける活動を全く封じられた。更に元治元年六月には池田屋事件で多くの同志を失い、大いに憤激した。そして遂に七月、益田・福原・国司らの三家老を筆頭に来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉ら諸隊指揮官らが主体となって大軍を発した。軍勢は海路上京、大坂を突破し、嵯峨天竜寺(国司信濃軍)、伏見長州藩邸(福原越後軍五百)、山崎天王山(清側義軍)に展開して京都を包囲する。そして、軍勢の入京許可、藩主父子及び七卿の赦免を朝廷に要求した。
しかし、会津・薩摩の影響下に有る朝廷は此を拒絶、逆に退去勧告を発した。要求を聞き入れられなかった長州軍は退去勧告を無視して京都市中に侵攻、禁裏守衛総督一橋慶喜の指揮の元に朝廷各門を守備する幕府軍と交戦する事になる。
七月十八日深夜、長州軍は益田隊を男山八幡に後詰として残し、三方から御所に進軍した。福原隊は下記に述べる如く伏見方面から、清側義軍は御所の南側を迂回して東から、国司隊は真西から攻め入った。国司隊は一条戻橋で二手に別れ、国司信濃率いる本隊は中立売門を、来島又兵衛率いる遊撃軍四百は蛤御門を襲撃した。
先ず、国司隊は逸早く中立売門に到達したが、守備に付く筑前藩兵はすぐに退却してしまう。そこで、隣の蛤御門に移動して遊撃軍を助けた。
一方、蛤御門に到達した来島率いる遊撃軍四百は会津藩兵四隊一千名(隊将:内藤介右衛門/隊長:一瀬伝五・林権助)と接触。ゲベール銃装備の遊撃軍は槍を構えて突撃して来る会津兵をを圧倒したが、乾門からやって来た援軍の薩摩藩兵に依って挟撃された。薩摩兵は兵数こそ200と少なかったが火力が充実しており、先ず大砲で霰弾を撃ち出し、続けて激しい銃撃を加えた。それでも遊撃軍の猛威は衰えなかったが、薩摩の指揮官西郷吉之助が配下の川路利良に命じて来島を狙撃させると、遂に長州軍も敗走した。
東方より進入した清側義軍は、堺町門に達し、親長州派公家である鷹司輔X邸に駆け込んだ。此処から鷹司卿を通じて朝廷に接触し、八月十八日の政変を尊王派の手で再現しようとしたのだが、鷹司卿は参内して不在であり、独力で進入を試みようにも会津藩兵の攻撃が激しく、企ては失敗に終った。それでも指揮官の久坂玄瑞らは屋根に上がって激を飛ばす等勇敢に戦ったので、禁裏守衛総督一橋慶喜は遂に砲撃を決意。会津藩士山本覚馬によって二十ドイム臼砲が撃ち込まれ、鷹司邸の塀が崩れると会津兵が突入した。その結果、久坂と寺島忠三郎は自刃、入江九一は会津兵の槍に突かれて戦死した。但し、真木和泉のみは敗残兵を纏めて出発地点である天王山に帰還し、そこで新選組に看取られながら壮絶な死を遂げる事になる。
こうして長州兵は撃退されたが、都市中には大きな火災が起こり、「どんどん焼け」等と称される被害を与えた。
さて、我らが新選組は、七月十七日には出動態勢を調え、近藤勇が二百名の隊士を率いて出陣した。十八日には長州藩軍中主力と思われる伏見の福原越後隊五百名の襲撃に備え、会津藩兵四隊五百名(隊将:神保内蔵之助/軍事方:林権助)と連携して伏見の長州藩邸に焼き討ちを仕掛けようと計画していた。しかし、十七日未明、早速竹田街道で接敵した大垣藩から援軍要請がもたらされたので、会津藩兵二百と新選組が急遽派遣された。いよいよ、新選組が待ち望んでいた戦闘である。所が、此の出撃は結局空振りに終わる。何しろ、主力の筈の福原隊が弱すぎたのだ。
福原隊は伏見藩邸を出撃した直後、藤森で大垣兵と遭遇。大垣藩の名家老小原鉄心率いる大垣藩兵は福原隊を半分やり過ごした後、福原隊の側面を突いて攻撃を開始。洋式化された大垣藩兵は上士で構成された長州藩主力部隊をあっさり撃破し、更に大砲数門を揃えて福原隊本陣を攻撃、主将福原越後を負傷させた。
こうして、夜が明ける前に長州軍が壊走して戦闘は終結。新選組が到着したのは、戦闘終結後暫くして後であった。功を焦った新選組は、兵の常道として深追いを避けた大垣藩を残して進軍し、伏見稲荷から墨染辺りまで追撃したが、福原は負傷したものの船に乗って大坂に逃れた後であった。
やむなく伏見の陣地に戻った新選組であったが、不幸は重なるもので、今度は先程まで居た御所で戦火が上がった。屋根の上の物見から此を聞いた近藤は、またも動かない大垣藩兵や会津藩兵を残して七条通りを北上。堺町御門に駆け付けた。しかし、此処でも長州兵はほぼ追い払われた後であり、蛤御門近辺の日野家・勧修寺家に浪士残党五十名が潜伏しているのみであった。それでもめげない新選組は、近隣の会津藩兵と協同してこれらの屋敷に突入。逃げ出す浪士を、今度は熊本藩兵と協力して捕縛。兎に角、よく働く。
何やら、「敵がこなけりゃ戦わなくていいや」悠長に構えた諸藩兵に対して、戦場のみが自らの価値を発揮できる場所と思い定めた新選組との、差が出ているようで涙ぐましい。
夜に入り、新選組は引き続き公家御門前を警備した。この間にも、市中に潜伏して再起を図る長州藩士が多いので、諸藩兵が動員されて掃討作戦が行われたが、新選組は参加しなかったらしい。結局、長州軍の襲撃は無く、新選組はまたも待ちぼうけを喰った形になるのだが……。
この後、戦果を上げられず納まりの付かない新選組は会津藩の山崎天王山攻略に同行し、長州軍本陣の攻略を目指す。