甲陽鎮撫隊
 徳川慶喜は大坂から江戸に逃げ帰るとすぐに幕臣を集めて薩長軍改め「官軍」への恭順を通達した。その際、小栗忠順等の強硬派が異を唱えたが、慶喜の決意は変わらなかった。その決意の現れは、長年性格の不一致から登用を見送ってきた尊王派幕臣の切れ者勝海舟を陸海軍の総司令官である軍事取扱に任命し、戦後処理を一任した事からも窺える。全権を委任された勝は、過激派部隊に対して豊富な軍資金を与えて周辺の鎮撫に当たらせた。此によって、折から幕府の衰退を見越して起こった一揆を鎮圧する事が出来た。更に、抗戦派は江戸から一掃され、慶喜の恭順の意志は通じやすくなった。そして、もしも官軍が徳川家の存続を認めずに江戸城を強襲するならば、周囲に散った過激派部隊が決起すると云う二重三重の策略であったのだ。
 そんな政策の一環として、過激派中の過激派と見なされる新選組にも、「甲陽鎮撫隊」と改名の上、天領甲斐国の鎮撫が命ぜられた。此の隊には軍資金五千両、大砲二門、ミニエー銃五百挺、予備兵として浅草の非人頭弾右衛門から非人数百名を徴用して付属せしめた。更に甲斐占領の暁には、首邑甲府城に慶喜を迎え入れ、局長近藤勇は十万石の大名、副長土方歳三は五万石で若年寄格、以下幹部は皆大名との約束まで取り付け、新選組の面々は意気揚々と出陣していった。

「勝沼の戦い」