蒔田広孝(まきた ひろたか)
松平出雲守と共に就任した、初代見廻役の一人。
天保十二(1841)年、広孝は蒔田家分家の蒔田八郎左衛門の嫡男として生まれた。安政四(1857)年、本家の第十一代当主である左衛門広連(ひろゆき)の養子となり、翌年広連が死去したので当主を継いだ。
文久三(1863)年五月、武蔵国羽田の警備を命ぜられ、十一月二十四日、その功績により領地の再計算を許された。再計算の結果、所領は一万石となり、蒔田家は念願の大名家に返り咲き、相模守に任ぜられた。此れを機に、備中国賀陽郡井出から浅尾(現在の岡山県総社(そうじゃ))の浅尾陣屋に移り、浅尾藩を公称するに至った。
そして翌元治元(1864)年五月、見廻役に抜擢され、京都で治安の維持に当たった。しかし、その結果長州藩の恨みを買い、慶応二(1866)年四月十二日、浅尾陣屋は倉敷事件に巻き込まれて第二奇兵隊過激派の襲撃を受けてしまう。浅尾藩では藩士の大多数を京都に送り込んでいた為、領内には老人や女子供しか居らず、第二奇兵隊の攻撃には対処出来なかった。報せを受けた蒔田は急遽帰還するが、時既に遅く陣屋は焼失。蒔田は五月十四日に帰京して職務に戻った。
慶応三(1867)年六月十日、病気を理由に見廻役を退任。後任は小笠原弥八郎。その後は幕府の役職に就く事は無かった。
戊辰戦争では新政府軍の備中松山藩板倉家討伐に半個大隊67名を供出。
明治二(1869)年、浅尾藩知事に任命。浅尾村長、総社町長を務めた。大正七年三月二十四日死去、享年七十八歳。