松平 康正
 文政四(1821)年、下総国香取郡飯笹の旗本・松平家に生まれる。幼少は勝千代、通称は禎之助。
 松平家は下総の他に武蔵・上総に六千石の所領を持つ大旗本で、下総国多古藩から康元が分家して興した。
 安政四(1857)年、康正は実兄松平中務の養子として松平家第十代当主の地位を継承し、因幡守を称した。
 康正は大番頭、大目付等を歴任して御役御免となっていた。しかし、元治元(1864)年五月に見廻役が設置されると蒔田相模守と共にこれに就任、出雲守に任ぜられた。
 康正は早速募集を開始したのだが、なかなか希望者は集まらなかった。困った康正は京都守護職に新選組隊士の融通を願い出たが、却下されてしまった。康正は止む無く御家人の部屋住みまで募集範囲を広げ、彼らを「見廻組並」「見廻組並御雇」等の下級職に任じ、二カ月がかりで人員を確保したて上洛した。
 京都では若い蒔田が主に出動して禁門の変等で活躍する一方、康正は役宅の警護や後詰を行っていたらしく、目立った功績は無い。
 慶応二(1866)年三月十四日、高橋弥八郎事件で切腹した高橋の遺体を検死に見せずに火葬すると云う失態を犯し、謹慎処分の上引責辞任した。後任は堀石見守