宮古湾海戦
明治二(1869)年三月二十五日未明、明治政府艦隊と榎本艦隊の間で戦われた海戦。
明治二年三月九日、明治政府は蝦夷地に政府の成立を宣言した榎本艦隊を討伐する為に最新鋭軍艦「甲鉄」を筆頭に「春日」・「丁卯」・「陽春」の軍艦と四隻の輸送船を北上させた。品川を出港した明治政府艦隊は激しい風雨の為に離散しながらも、十八日には結集地点である南部藩領宮古湾の鍬ヶ崎港に集結した。
一方、榎本艦隊は此の情報を察知していた。元来明治政府艦隊よりも優勢だった筈の榎本艦隊は、此の時既に自慢の最新鋭軍艦「開陽」を喪い、「甲鉄」を入手した明治政府艦隊に対して劣勢となっていた。其処で、榎本艦隊「回天」艦長甲賀源吾は、「回天」の支援の元「蟠龍」・「高雄」の二隻が宮古湾に停泊する「甲鉄」に接舷、陸兵を切り込ませて「甲鉄」を乗っ取る「アボルダージ」作戦を立てた。早速、蟠龍には彰義隊と神木隊の二十名、高雄には神木隊二十三名が分乗し、回天には艦隊指揮官として海軍奉行・荒井郁之助、陸軍指揮官として陸軍奉行並・土方歳三以下新選組残党、及び彰義隊・神木隊の計四十余名が乗り組んだ。
此の切り込み艦隊は二十一日に函館を出港したが、二十二日日中に暴風雨に遭遇してしまった。二十三日の夜に至って漸く暴風雨は去ったが、蟠龍は艦隊からはぐれ、回天は外輪覆いを破損し、高雄は機関を損傷した。切り込み艦隊は宮古湾より南方の山田湾大沢港に身を潜め、蟠龍の合流を二十五日まで待ったが、遂に蟠龍は現れなかった。やむなく、高雄のみで接舷を行うべく二十五日午前三時に切り込み艦隊は出港したが、今度は高雄が機関故障を再発し、回天の四分の一の速力となってしまった。事此処に到っては引き返す事も出来ず、高雄を待機させ、回天一隻のみで接舷攻撃を行う事となった。
一方の明治政府艦隊は奥羽を平定した戦勝ムードに酔って艦長までもが上陸して遊興に耽る有様で、危険を感じた官軍参謀・薩摩藩士黒田了介は警戒を進言したが、長州藩士が多い甲鉄首脳陣は此を薩摩藩に対する反感から無視、薩摩藩所属の春日のみが臨戦態勢を取る事になった。こうした状況下で、遂に両艦隊は二十五日の夜明け、遭遇する事になった。
二十五日朝、蒸気を落として惰眠を貪る明治政府艦隊の元に、米国船籍を表す星条旗を掲げた一隻の船が滑り込んできた。「春日」当直の士官も此を確認したが、敢えて騒ぎ立てなかった。此は、先ず外国勢力を刺激しないように、と云う政治的判断と、次いで、確かに榎本艦隊の動きは報ぜられていた物の、目の前に有る船はその内のどの艦影にも当てはまらなかったからである。しかし、其の観測を裏切るように、目前の艦は星条旗を下ろすと榎本艦隊の所属を示す日章旗を掲揚。慌てる「春日」等の乗組員を後目に此の軍艦、先日の暴風雨で二本有った煙突の一本を喪ってすっかり見窄らしくなった「回天」は甲鉄左舷に突撃した。
しかし、高雄・蟠龍に比べて「回天」は大型艦ではあったが、旧式艦だけに右に軌跡が傾く習性があり、甲鉄左舷に衝突して却って10mもの距離を開けてしまった。回天は慌てて切り返しを行い、再度接舷を試みるが、今度は外輪が邪魔となり平行接舷が出来ず、陸兵は艦首の一ヶ所から突入する羽目となった。更に、回天の甲板は甲鉄よりも3m高く、陸兵達は思わず躊躇した。しかし、此を見て憤慨した海軍一分隊一等測量大塚波次郎が甲鉄甲板に飛び込むと、新選組隊士野村利三郎と彰義隊差図役笠間金三郎が此に次ぎ、漸く他の兵士も後に続いたと云う。彼らの勇は賞賛されてしかるべきではあるが、此処でも、もしもスクリュー装備の高雄や蟠龍であれば、平行接舷が出来た物を、それも二隻で有れば一気に陸兵を乗り込ませられた物を、と悔やまれて成らない。
此らの事情から、甲鉄に上陸した陸兵は野村を筆頭に僅か七名。当初、回天の襲撃に狼狽した甲鉄乗組員は右往左往し、中には海に飛び込む慌て者まで居たが、陸兵が少ないのを見て取るとすぐに士気を回復し、艦尾に配備されていたガトリング砲で反撃を開始した。計画では、甲鉄に渡った陸兵はすぐに甲板の昇降口を閉鎖し、乗組員を閉じこめたまま函館まで曳航する筈だったが、高い甲板に出遅れた陸兵はすぐに切り立てられ、回天の放つ支援砲撃も甲鉄の装甲に阻まれて効果を発揮し得なかった。更に、ガトリング砲の猛威は回天艦上にまで及び、陣頭指揮を執っていた甲賀源吾艦長を殺傷した。更に、春日が早くも出動態勢を整えて砲撃を開始したので、乗組員からも十数名の死者を出した。此の時、命中した春日艦尾の砲を操っていたのは、後の海軍元帥東郷平八郎であったと云われている。
結局、七名の陸兵の内士官一名、水兵一名の二名は救出されたが、残余は戦死。生き残った一人は彰義隊伊藤弥七。彼は乗り込むや素早く甲板上の帆に身を包み、手にした銃で敵を制圧してかすり傷一つ負わずに回天に帰還した。
回天は乗組員の戦死者十五名、負傷者五名を出して戦線を離脱。湾外に待機していた高雄は春日・甲鉄の追撃を受けて近くの羅賀海岸に座礁した。なお、蟠龍は後に函館に帰投した。
僅か30分の戦いであり、局地的には明治政府艦隊が追いつめられる場面もあったが、海軍力に絶対の自信を持っていた榎本艦隊の士気を打ち砕き、戦争の終結を早める事となった。
戦死者リスト
| 所属 | 艦名 | 戦死者 | 負傷者 | 行方不明 |
| 官軍 | 甲鉄 | 0 | 13 | 0 |
| 春日 | 0 | 1 | 0 | |
| 戊辰 | 1 | 13 | 5 | |
| 榎本艦隊 | 回天 | 15 | 5 | 0 |