太田資始
 遠江国掛川藩(現在の静岡県掛川市)五万石の藩主、備中守。性格は温順で、君子として知られた。
 近江宮川藩主堀田正穀の三男で、掛川藩主太田資言の娘と婚姻して掛川藩を襲封した。

 明君として知られ、漢学の大家である松崎慊堂(まつざき こうどう)の門弟となって学問に精励し、「教養館」を設立した。藩政では特に農政に意を注ぎ、天保四(1833)年に農業手引書である「農喩」を復刻して農村に配布したり、天保八(1837)年には「松の皮の食べ方」を配ったりと飢饉に対して全力で取り組んだ(尤も、必ずしも成功はしなかったが……)。
 幕閣でも昇進を重ね、京都所司代や大坂城代、寺社奉行等を歴任した後、天保八(1837)年に老中に就任する。しかし、天保十二(1841)年の庄内藩転封事件に際して庄内藩農民11名の駕籠訴を受け、農民の態度に深く感銘を受けた彼は時の権力者水野忠邦と対立、辞任・隠居に追い込まれてしまう。なお、これに関しては浜松と掛川と云う隣接藩同士の対立も有ったとか。
 隠居した資始は家督を資巧に譲り、道醇と号した。隠居後は江戸藩邸で気侭に暮らし、その腹黒い所の無い性格を将軍に愛されて、隠居の身ながら江戸城に自由に登城する権利を与えられたと云う。

 本来ならこれで彼の政治生命は断たれたも同然なのだが、折りしも時代は幕末。安政五(1858)年六月二十三日、堀田正睦に代わって政権を握った大老・井伊直弼により勝手御用掛(外国御用取扱)老中に隠居の身ながら異例の抜擢を受け、外交関係を担当した。老中となった資始は積極的に開国政策を進め、彫刻家の小沢一仙を100石取侍として登用し、洋式船を模造した「無難車船」を作らせた。
 しかし、将軍後継者問題で一橋派に同情し、安政の大獄に反対して安政六(1859)年七月二十三日に罷免、八月二十八日には謹慎処分を受けた。

 こうして二度目の老中引退を強いられた資始であるが、幕府の人材、特に閣僚級の人材の払底は目に余るものがあり、文久三(1863)年四月二十七日には三度老中に任ぜられた。とは云え老年の身に老中の責務は重かったのであろうか、同年五月十四日に辞任し、慶応三(1867)年に69歳で死去した。