鳥羽の戦い
 新政府軍と幕府軍に依って戦われた、天下分け目の戦い。

 王政復古の大号令後、薩長の勢力を背景にした小御所会議で十五代将軍徳川慶喜の官位剥奪と領地没収が決せられると、彼らによって京都を追われて大坂城に集結した徳川軍の間には薩長に対する反感が強まった。更に、江戸に於いて薩摩藩の命令を受けた志士相楽総三らが挑発を繰り返し、此を受けて立った江戸市中取締役の庄内藩らが薩摩藩邸焼き討ちを敢行すると、決戦は避けられない物となった。

 鳥羽街道では、彦根藩・西大路藩らの近隣諸藩が警護に当たる中、陸軍奉行・老中格大河内豊前守正質率いる歩兵第一連隊(歩兵頭:徳川出羽守)・同第二連隊(歩兵頭:秋山下総)・会津藩兵(番頭:生駒五兵衛&上田八郎右衛門/260)・桑名藩兵(指揮官:服部半蔵/400名)・伝習隊・大垣藩兵(指揮官:小原兵部/500名)・大垣藩兼用隊(剣士50名から成る抜刀隊。隊長は猛将として知られる長屋益之進)・高松藩兵・松山藩兵が北上した。
 それに対し、薩摩藩では鳥羽街道の起点となる京都の東寺に薩摩きっての軍略家伊地知正治率いる迎撃軍本営を設置。其処から相楽治部らに率いられた小銃部隊を鴨川小枝橋に展開し、鳥羽口防御に当たった。両軍は三日に小枝橋手前の赤池で接触、先鋒を務める大目付
滝川具挙は薩摩藩士に退去を要請したが、薩摩藩士は当然動かない。押し問答をしている内に薩摩藩砲兵隊は城南宮に展開し、同日午後五時、遂に砲撃を開始した。この結果、滝川は乗馬が暴走して戦線を離脱し、滝川の身辺を固める撒兵隊は弾も篭めて居ない状態だったので、滝川を追って離散。同じく滝川の警護に当たっていた見廻組は辛うじて踏み止まり、撒兵隊の遺棄した小銃を使って反撃したが、効果は薄かった。
 そこに、態勢を立て直した伝習隊と桑名藩砲兵隊が到着し、前線を再構築。特に桑名藩兵は勇戦し、義経袴に剣道着という古風な服装ながら、公卿菊亭家の蔵から米俵を持ち出して巧みに胸壁を築いて射撃戦を行った。逆に、先の蛤御門の変では長州藩軍を散々に打ち破った筈の大垣藩兵はこの戦いでは非常に士気が低く、弱兵と侮られた。これは、大垣藩指揮官の小原兵部の父小原鉄心が朝廷に参与として出仕しており、藩内に尊王派が強かった為と推察される(現に、この戦いの最中にも小原は大垣藩に乗り込んで藩主・重臣を説得し、藩論を勤王に統一するや鳥羽に取って返して大垣兵に恭順を指示している)。
 三日の夜、薩長軍は夜襲を敢行。幕府軍は一旦淀方面に退いたが、翌朝鳥羽方面から歩兵第十一連隊(歩兵頭:佐久間信久)及び歩兵第十二連隊(歩兵頭:窪田鎮章)の増援を得て反撃を開始。陣頭指揮を取る佐久間・窪田の活躍によって一時は京都にも迫る勢いだったが、補給が続かず攻勢は頓挫。特に食料の欠乏は酷く、僅かに民家の餅を食べて凌いだと云う。
 午後になると伏見方面で幕府軍を破った長州・土佐軍が北上し、鳥羽方面の薩摩軍と合流し始めた。幕府軍は優勢になった薩長軍の攻撃に曝され、午後二時に至って遂に猛将窪田鎮章が戦死。幕府軍は富ノ森に向けて退却した。富ノ森では大垣兵が伏兵となって薩長軍を食い止め,更に会津藩の増援部隊と合流し、台場を築いて薩長軍を撃退した。一方、伏見の幕府軍も隣接する千両松堤に集結、翌五日の第二次鳥羽伏見の戦いとも言える「富ノ森・千両松の戦い」に備えた。