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第伍章 京都に於ける生活

1)京都市中案内

ちょーいい加減な地図で申し訳有りませぬ。

御土居
 豊臣秀吉によって造営された、京都四方を取り囲む防壁。高さ3m、底部の幅9mの盛り土に、約4〜18mの水濠が巡らされ、盛り土の頭頂部には竹が植えられていた。
 此の防壁は一部は地形を利用したものであったりしたが、京都を取り囲む壮大な物であったが、幕末には殆どの部分で市域の拡張に従って破壊されており、京都市中東部に其の名残を残す程度である。

三条大橋近辺
 東海道の終着点で、京都最大の繁華街。当時鴨川には三条と五条にしか橋が架かって居なかったので、京都市中の旅宿はこの近辺に集中しており、両橋付近は大いに繁栄した。
 ちなみに、その他の通りでは広い河原に小橋を掛け、通行人は一旦土手から河原におり、橋を渡り、また土手を上がらねばならなかった。此の橋は、増水の度に流されて不便な事この上がなかったらしい。

■小川亭
 肥後藩御用商人「魚卯」の未亡人ていと、姑のりせが開いた旅館。ていもりせも尊皇攘夷活動に大いに共鳴しており、宮部鼎蔵・河上彦斎ら肥後藩系の尊王派志士を匿ったり、鼎蔵の下僕忠蔵が南禅寺に吊るされた時には身を挺して救出する等大いに活躍した。その結果、彼女らは志士達の間で「勤王ばあさん」等と綽名され、志士達の安息の場所として有名になった。
 旅館内部は特殊な構造になっており、帳場には紐が付いていて、新選組が来ると帳場の者が此れを引いた。すると、奥の部屋では鳴子が鳴り、危険を察知した志士達はすぐに裏口から鴨川沿いに脱出出来たのである。
 池田屋事件後、奉行所はりせを捕らえて吟味したが、りせは「あわわ、あわわ」と取り止めも無い事を口走ったり、大小便を垂れ流す等ボケ老人のふりをして難を逃れた。
 維新後は出世したかつての志士達が多く訪れ、小川亭は大繁盛だったが、ていが貞操を守った為後継者が無く、店は人手に渡った。

御所
 天皇以下、公家等が居住・執務する宮廷がある、今出川通りと丸太町通り、寺町通りと烏丸通りで区切られた、面積約11万平方mの矩形の地域の総称。敷地の中北部に禁裏御所、南東には仙洞御所と大宮御所がある。御所は屡々大火に見舞われ、幕末の御所は嘉永七(1854)年四月の大火に焼失した物を安政二(1855)年十一月に幕府の費用で再建した物である。現代では御所の周囲は石垣によって固められているが、石垣が巡らされたのは明治十一年であり、幕末には未だ土居が巡らされていた。
 周囲には公家の邸宅が密集しており、幕末政争の中心地となった。

二条城
 京都に於ける幕府行政の中心地。また、その武力権威の象徴でもあった。しかし、相次ぐ大火で本丸を消失、以後は大型の邸宅として整備されて来た。将軍が上洛する際にはその宿泊地として使用された。この二条城を中心に、京都所司代屋敷京都奉行所が設置され、幕府の行政エリアを構成していた。

京都所司代屋敷
 京都所司代は京都に於ける幕府権力の代理人だけに、所司代屋敷はその権威に相応しく広壮であり、また二条城を防衛する様な形で展開している。屋敷は堀川屋敷・上屋敷・下屋敷・新屋敷に別れており、これら全て併せた物を「所司代屋敷」と総称する。その面積は七万坪(二条城の半分)位で、平城と云ってもいい程の規模を持つ。

■上屋敷
 所司代屋敷東側、堀川通に有り。
 役宅であり、所司代は此処で執務した。

■中屋敷
 二条城北、丸太町南、日暮通の間に有る。
 所司代配下の桑名兵が駐屯していたので、此処を称して「所司代屋敷」と呼ぶ事も有る。

■下屋敷
 西千本通り沿いに有るので「千本屋敷」とも、地元採用の足軽が住んでいるので「添屋敷」とも呼ばれる。
 所司代お抱えの足軽100名が家族と共に住んでおり、北西の角に立つ火之見櫓は京都名物でもあった。

■新屋敷

 千本下立売に有る所司代与力・同心の住む組屋敷。
所司代関係地図

京都奉行所
 京都奉行は京都市中のみならず近畿一帯の行政を司る重職であった。西町奉行所と東町奉行所は各々二条城外郭南西部の西と東に位置している。その呼称は、管轄の位置ではなく、役宅の相対的位置関係に基付く。まぁ、つまり、西にあるから西町奉行所、東にあるから東町奉行所って事。周囲には奉行所与力・同心の役宅が密集していた。また、京都代官の役宅もこの近辺にあり、京都所司代屋敷と並んで二条城を守る外郭を構成している。

黒谷金戒光明寺(左京区黒谷町)
金戒光明寺 浄土宗の開祖法然上人を創始者に持ち、紫雲山と称される浄土宗四大本山の一つで、「浄土宗別格本山」と呼ばれる事も有る。京都の東側に位置する黒谷に在り、「黒谷さん」の名前で京都人達に知られている(逆に、「金戒光明寺」と云っても地元の人には通じないかも)。ちなみに何故「黒谷」なのに丘の上かと云えば、延暦寺黒谷坊の僧侶法然上人が京都に降り立ち、説法した場所であるため。
 この寺院は元々有事の際に幕府軍の前衛要塞とするべく建設されていただけに、山頂に聳えるその姿はあたかも城塞の様であり、門も厳めしい鉄門扉が作られ、寺院と云うより城のような印象を受ける。
 また、寺院の東隣の聖護院村の田畑三万七千坪を買収し、練兵所を設けており、こうした広場は有事の際の兵士の集合場所にも充てられる。
 当初、会津藩主と藩兵千が駐留したが、御所から離れ過ぎて不便であるとして、後に市中に守護職屋敷が設けられた。但し会津藩主松平容保もこの堅固な造りを気に入り、京都市中に豪華な守護職屋敷が完成してからも、こちらを用いる事が多かった。
 留守居役は手代木直右衛門

京都守護職屋敷(上京区下立売通新町西入ル)
 北は長者丸通り、南は下立売通、東は新町通、西は西洞院通に面する、南北180m、東西125m、面積約68,000坪のの広大な面積を誇る大きな屋敷。現在の京都府庁周辺。
 元々は市街地であったが、文久三年末、守護職の設置と共にそれらの家屋を解体・整地してこの屋敷が建設された。
隣には京都所司代千本屋敷が在り、北には御所があると言う正しく京都守護の要衝であり、建物は7,000坪、部屋は400以上の広壮な屋敷で、会津藩士ですらその威風に打たれたと言う。
 しかし、完成は守護職就任後かなり経ってからであったので、会津藩主松平容保は先に滞在していた黒谷金戒光明寺に引き続いて本陣を定めた。

京都守護職御用屋敷
 元治元年七月に勃発した「禁門の変」によって不安を覚えた朝廷は、会津藩に守護職屋敷よりも更に御所寄りの駐屯地を設置するよう求めた。そこで会津藩は釜座(かまんざ)通下立売上ルに、守護職屋敷と同じ規模で新たな藩邸「京都守護職御用屋敷」を建設した。この屋敷は二階建ての表長屋で四方を囲み、下立売通りに両脇戸付きの雄大な門を構え、軒瓦には菊紋を打つ等堅固かつ壮麗な建物であった。以後、会津藩は此処を本拠地とした。付近の釜座通下立売下ルの南北二町、東西一町の土地には、藩士が宿泊する御添屋敷も建設されている。

木屋町
 高瀬川堤防の上の葦簾囲いのお手軽な店から発展した歓楽街兼居住区。庶民の町だけに万事物価が安いのが魅力。その為、幕末には多くの志士がこの近辺に家を借りて滞在した。もっともこれは、決して家賃の問題ばかりではなく、この界隈に薩摩・長州・土佐・対馬といった幕府に反抗的な藩の藩邸が集中していた為、その治外法権によって幕府諸機関が迂闊に手を出せなかった為でもある。
 しかし、将軍直轄の京都守護職はその様な支配違いに関わらず、捜索する権限を持っている。当然、新選組もこの界隈の偵察には、念を入れている。

寺町
 現在の新京極の辺りに、北は鞍馬口から南は塩小路まで、百十七の寺院を整然と並べた区域。宗派は浄土宗・日蓮宗・時宗の三宗派で、特に浄土宗が多数を占めた。元来、これらの寺院は京都市中に点在し、上は公家から下は町人達迄広く帰依して影響力が強かったので、天正十八(1590)年豊臣秀吉に依って寺町に纏められ、信者との日常的接触を断たれた。こうした政治的な目的に加え、寺町東側は御土居に接しており、京都東側の防御も担っている。
 幕末には、多くの寺院が上洛した諸大名によって陣屋として利用された。
 明治五年、京都府参事植村正直の発意によって、衰退した京都の活性化の為に、寺町を貫いて三条通りと四条通りを繋ぐ形で道を造り、其の両側に商店を開いて新たな商店街を築いた。此の通りは寺町通りの古名にちなんで「新京極」と名付けられ、現代に到るまで繁華街として栄えている。

上七軒
 北の天満宮門前に展開する歓楽街で、鳥居前町、真盛町、社家門前町の三つの町を含む。室町時代、北野天満宮を修繕した際、余った資材で七軒の茶店を建てたのを最初とする。以後発展を重ね、豊臣秀吉に茶店経営の許認可を受け、更に京都所司代板倉勝重にも許可を受け、京都市中で最も由緒有る茶屋の町として栄えた。
 以後、天保の改革前後に一時的に営業を差し止められるが、嘉永四(1851)年に復旧。此を契機に安政六(1859)年、内野五番町が上七軒出店として遊女渡世を公認されると、次第に遊郭が増えてきた。幕末には、遊郭街として栄えていたが、西陣の大型商人を相手にしているだけに貧乏人や一見さんには敷居が高く、新選組には縁遠い場所となっている。
 但し、土方歳三にだけはそんな格式も伝統も通用しなかったらしく、土方が最も入れ込んだと云われている芸妓君菊は此処の出身であった。君菊は後に土方の女児を産んだと云うが、女児は夭折した。

島原
 現在の下京区の山陰線丹波口駅東側に在った公認遊郭。元来は六条柳町に在ったが、寛永十七(1640)年七月、京都所司代板倉重宗の命令で葛野郡朱雀の同地に移転されたのが其の始まり。正式名称は西新屋敷傾城町だが、一般に島原と称された。名前の由来は、急な移転の為大騒ぎになり、此が恰も三年前の島原の乱の時の様な大騒ぎで有った事からとも、また廓の構えが島原城の要塞に似て一方口であったからとも云われている。
 敷地は東西九十九間、南北百二十三間。其の内部は上之町、中之町、下之町、中堂寺町、太夫町、揚屋町の六町に別れ、其の外周には高さ六尺の土塀と幅一間半の水堀で外部と隔離された。入り口は東側中央の東口と西側中央の西口が有り、それぞれ大門と番所が置かれた。両側の西口と東口を繋ぐ中央道路は道筋と呼ばれ、其の両側には左右に三個づつの木戸が置かれ、それぞれ六つの町への入り口となっていた。東口は丹波街道と繋がり、京都洛中への往還路となっていた。
 島原は江戸時代初期の元禄期に最盛期を迎え、廓内人口千七百十五人を数えたが、後に洛中に祇園等の色町が出来ると遠隔地の島原は衰退した。此に対して幕府は祇園・上七軒・七条新地・二条新地を島原の遊女出張所として位置づけて系統的管理を計ったり、或いはそれらの色町を廃止したりしたが、最終的には全て公認した。

 島原の遊女には太夫・天神・小天神・端女郎・鹿恋等のランクがあり、太夫・天神・小天神は揚屋に呼び、それ以下の遊女は呼屋に呼ばれる。
 太夫の揚げ代は高額で、小天神の揚げ代の二倍以上であった。

角屋■角屋
 島原の揚屋町に有る
揚屋の一つ。表全体を格子造りとした二階建てで、表・奥・台所の三部から成る。一階は正面入り口を入って右側がお客入り口となる。入り口の次の間には、刀掛がある。揚屋に来た武士は皆、此処に刀を掛け、それから登楼する。刀は、更に角屋の使用人や仲居の手によって丁寧に刀箪笥に仕舞われる。この様に、揚屋には刀を仕舞って登楼するのが決まりだったが、新選組は強引に刀を持ったまま登楼する者も多かった。入り口の奥は、三十数畳の広大な台所である。
 表二階は鍛子(どんす)の間を主室に翠簾の間、扇の間と続き、奥二階は草花の間に始まる諸室が有り、一番奥の、随所に青貝を鏤めて数寄を凝らした青貝の間が主座敷と成っている。
 建築年は寛永年間(1624〜1644)と伝えられているが、実際には元禄年間と推定されている。完成後も数次に亘る増築が有り、現在の形となった。
 町屋建築の中に書院造りや数寄屋造りを取り入れ、諸々の趣向を凝らした諸室の展開は、揚屋として標準的な物である。
 幕末には新選組御用達として繁昌した。しかし、其の一方で理不尽な扱いも多かった。特に芹沢鴨等は、あしらいが悪い等と難癖を付けては戸、障子を蹴破り、刀で柱に斬り付けた挙げ句、七日間の営業停止を命じた。また、庭先の名物古松「臥龍の松」に斬り付けたりした。これらの刀傷は、平成の現代にも残っているという。
■輪違屋
 島原の
筆頭置屋。新選組幹部の馴染みが多く、新選組御用達の観さえ有る。平間重助の愛妾糸里等もこの輪違屋出身であった。
 幕末には太夫六人、天神十三人、芸子(端女郎・鹿恋)二十三人を抱え、盛況を誇った。
■木津屋
 島原の置屋。此の店の芸妓深雪太夫と金太夫は近藤の妾である。
 深雪太夫は本名をおわかと云い、金沢出身、23,4の美人であった。近藤は借金までして彼女を身請けしたが、彼女が病気になって床に伏した際、看病に来た妹のお孝に近藤が手を付け、更にお勇と云う娘まで生んでしまった。怒った深雪太夫は近藤から慰謝料200両を取り、さっさと身を引いて島原で茶店を開いて余生を過ごした。
■桔梗屋
 島原の置屋平山五郎の愛妾である小栄はこの桔梗屋出身であった。
 規模としては輪違屋に次ぎ、太夫三人、天神十二人、芸子(端女郎・鹿恋)十四人を抱えていた。

祇園
 上七軒に次いで古い伝統を持つ遊郭街。八坂神社西門前の四条通りを挟んで、北は新橋通りから南は建仁寺境まで、東は東大路から西は大和大路まで広がる。
 江戸時代初期に東山の高台院に出家した出家した秀吉の妻北政所が、芸を好み、優れた芸人を侍女として召し抱えた事に始まる。北政所の死後、侍女は失業してこの地に遊女として暮らす事になった。当時の主要な顧客は比叡山の僧侶達であったが、この事から山の坊さんが常に呼ぶ子、転じて山根子芸者となった。彼女達は落ちぶれても元は関白太政大臣の妻にして自身正一位の貴族北政所に仕えた者、として矜持が高く、それが伝統として伝わり幕末に至っても彼女らは相変わらず気位が高い。従って一見さんはお断りである。
 その後、僧侶の勢力が減退すると、客は祇園感神院の門前だけにその参拝客である商人が多くなり、その客を目当てにした水茶屋が増え、それに応じて遊女も大幅に増え、公認遊郭である島原を越える発展を見せた。江戸時代後期には幕府から何度か営業を咎められた。
 幕末には多くの尊王攘夷派の高級藩士が出入りした。幕末初期には尊王攘夷派も島原に出入りしていたのだが、後に島原に新選組隊士が集団で入って来るようになると、祇園や木屋町に逃れたのである。これら尊王派志士は景気良く金をばらまいたので、芸妓の多くは熱烈な尊王攘夷派贔屓であった。その為、新選組には縁遠いところになっている。

■一力
 祇園の四条通花見小路東南角にある茶屋。
 かつて、赤穂義士大石蔵之助が遊んだとされる
(実際には、其の当時には未だ祇園は整備途上だった筈なのだが)由緒有る茶店で、大石愛用と伝えられる三味線「初音」を床の間に飾っている。大石の命日二月四日には毎年馴染みの客だけを招いて其の遺徳を偲んだ。屋号の「一力」も大石にちなむものであり、正式な屋号は「万屋」、または「万春楼」であったのだが、「仮名手本忠臣蔵(かなてほんちゅうしんぐら)」において万の文字を分解した仮名「一力」として登場した為、仮名の方が有名になってしまい「一力」を名乗っているのである。
 こうした由緒がある茶店だけに、出入りするのは諸藩の周旋方が多く、時には諸藩周旋方会議も行われた。

■山の緒
 祇園にあっては珍しい、新選組に好意的な茶屋。近藤の妾お芳は山の緒の養女である。
 新見錦の切腹に使用された。

七条新地
 鴨川と高瀬川の間、五条通南から七条通北を区域とした遊郭街。正面通以南の上下二宮町、上下三宮町、十禅師町の5つの町と、正面通以北の岩滝町、早尾町、波止土濃町、八ツ柳町、聖真子町の5つの町から成り、特に五条大橋周辺を中心に繁栄した。
 此の町は元々妙法院領の荒れ地であったが、宝永三(1706)年以降開発が進められた。やがて島原遊女出稼ぎ地として島原遊所の監督下に遊女渡世を許可された。天保十三(1842)年には天保の改革によって一時的に営業を差し止められたが、嘉永四(1851)年には旧に復した。
 幕末には新興の庶民的な遊郭街として繁栄したが、維新志士・新選組双方の逸話は残っていない。明治時代に至って衰退した。

新三本木
 三本木通丸太町上ルの上之町・中之町・南町に広がる花柳街。何故花柳街になったかの由来は不明だが、江戸末期には料亭と其処で座を取り持つ芸者が多数集まり、繁昌した。但し、芸妓のみで娼婦は居なかった。ちなみに明治初年の記録では茶屋九軒、芸者置屋六軒であった。
 近藤の妾駒野が居る。

■吉田屋
 新三本木の料亭。尊王攘夷派志士の集会に多用された。桂小五郎の馴染みの芸者幾松も此処の芸者であった。幾松は桂が居るときに新選組に踏み込まれたが、泰然自若で近藤勇と渡り合い、首尾良く桂を遁走させた。近藤は幾松の勇気に惚れ込み、通い詰めて幾松を身請けしようとしたが、幾松は却って「近藤様が尊王派に心変わりしてくれたら、自分も近藤様のものになろう」とやり返して近藤を苦笑させたと言う。

聖護院
 左京区聖護院中町にある修験道の本山。幕末には一時期孝明天皇が仮御所とされた他、薩摩藩公島津久光が宿泊して京都策戦の本拠地としている。此の寺は11世紀から続く名門で、仏教系の寺院を選ばずに修験道を選んだ辺りが、如何にも薩摩らしい
 名産品は聖護院大根。初秋に蒔いて晩秋に収穫し、良質で苦みが少なく、煮物にすると美味い。形状は球形だが、此は地層が硬い為であると言われている。

壬生寺(中京区壬生梛之宮町)
 坊城通綾小路下ル、新選組の壬生屯所付近にある真言・律宗寺院。平安時代末期に起源を持つ由緒有る寺。但し、幕末の建造物は天明年間の火事で焼失したのを再建した物。新選組の軍事調練等に利用され、新選組の屯所が移動した後も、砲術調練等の広さが必要な訓練の場として使用された。

高島屋
 烏丸通高辻下ル西側に有る、後に大型デパートとなる呉服木綿商。店主は二代目飯田新七。高島屋の屋号は、初代飯田新七の義父である米穀商飯田儀兵衛が出身地の近江国高島郡にちなんで用いていた屋号で、儀兵衛の娘を娶って奉公人から暖簾分けした新七も此の名を嗣いだ。新七は分家すると烏丸通高辻下ル西側に古着屋を開き、その後安政二(1855)年、二代目新七が呉服商に転じた。

晴明神社
 葭屋町通一条上ルに有る、陰陽師阿部晴明と倉稲命を祀った百坪余りの狭い神社。元々は阿部晴明の邸宅の跡地であり、内部には晴明井戸と呼ばれる井戸が有る。また、屋根瓦や提灯には五芒星を象った晴明判と呼ばれる呪符が伝えられ、今でも魔除けの護符として使用される。なお、詳しい伝承は嘉永七(1854)年の御所の大火に罹災して紛失した。
 此の神社の南東には、一条戻り橋が存在する。一条戻り橋は一条通り堀川に架かる名橋。名前の由来は、延喜十八(918)年文章博士三善清行死去の報せを受けた子の浄蔵は急ぎ紀州鹿野から帰京したが、丁度此の橋で父の葬列に遭遇し、嘆き悲しんで神仏に祈願した所、清行が一時甦ったので、此の名が付けられた。古い橋だけに伝説が多く、阿部晴明が式神を屋敷に飼おうとしたところ、妻が気味悪がったので此の橋の下に住まわせたとか、源頼光が四天王渡辺綱が橋の上で鬼に行き会って腕を切り落としたとか、不思議な話は尽きない。
 清明神社は市民の生活に可成り密着しており、お札の販売や、天文に則った天気予報まで出した。そしてまた、此の天気予報は良く当たり、清明神社で台風が来るとお告げを出せば、市民は皆仕事を放り出して家に帰り、戸締まりを厳重にしたと云われている。

月真院
 東山区八坂下河原町463番地。
 豊臣秀吉の妻ねねが、夫の冥福を祈る為出家して高台院と称して隠居した寺院「高台寺」の塔頭の一つ。宗派は臨済宗建仁寺派。
 高台寺の西方(市街地寄り)にあり、当時は萩と椿の名所として有名であったといわれている。
 慶応三(1867)年三月以降は御陵衛士の本拠地となり、門前には「禁裏御陵衛士屯所」の表札と共に特に許された十六弁菊御紋の幔幕が懸けられている。

六角獄舎
 別名六角牢屋敷。南北95.7m、東西125.4m。周囲は築地と竹柵によって囲まれ、内部は番所、切支丹牢、本牢の三つの区画に分かれており、特に敷地の1/2を占める本牢は本牢、女牢、拷問部屋を有し、多くの尊王攘夷派志士達を収容していた。当然ながら、居住環境は最低である。

方広寺
 通称「京都大仏」。豊臣秀吉が刀狩りで集めた武器を改鋳して作った大仏が起源だが、此は慶長元(1596)年の地震で崩壊。その後豊臣秀頼によって再建されるが、此の大鐘には有名な「国家安康」「君臣豊楽」の文字があり、大坂の陣の口実とされてしまった。豊臣家の没落で庇護者を失った方広寺は傾き、寛文二(1662)年に再度震災で崩壊。徳川幕府は銅仏を溶かして寛永通宝に改鋳してしまった。
 その後、辛うじて木造の仏像が再建されたが、此も寛政十(1798)年に落雷で焼失。長い間放置された後、漸く天保十四(1843)年に1/10スケールで小さな木造大仏が再建された。此の像は比較的長く保ったものの矢張り昭和四十八(1973)年、失火で焼け落ちた。


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