| 会津藩 | ||
| 藩主 | 松平容保 | ![]() |
| 所在 | 陸奥国会津地方 | |
| 石高 | 二十三万石 | |
| 本拠地 | 会津若松鶴ヶ城 | |
| 京都藩邸 | 三本木屋敷 | |
| 黒谷金戒光明寺 | ||
| 京都守護職屋敷 | ||
| 京都守護職御用屋敷 | ||
| 練兵場 | ||
| 在京藩兵 | 1000名(編成) | |
| 担当区域 | 北側境界線/下鴨辺口 南側境界線/四条通 東側境界線/在限 西側境界線/寺町 |
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| 藩論 | 佐幕/攘夷 | |
| 新選組に 対する態度 |
藩全体が極めて友好的 | |
| 藩士 | 会津藩士は一般に誠実で正直で朴訥であり、戦国時代の武士の如く藩主個人に忠誠を誓っている。これは会津盆地という田舎が薩摩藩と同様に他国の文化、特に江戸・上方の贅沢な生活様式が流入せず、閉鎖社会を形成した為であると同時に、藩が極めて教育熱心であった為でもある。 会津藩は日新館を創って厳格な武士道教育を行ったので、皆上記の様な立派な武士であった。但しその純朴さは変化に適応出来ない頑固さとなって改革を阻み、また田舎育ちなのでお人好しであると言う点や人脈の少なさも、京都で政争を行う際には足枷となって行くのである。 そうした思想を反映してか戦争方法は古風で、軍制は甲州長沼流、銃器・大砲を卑しんで刀槍での戦を重んじ、鳥羽・伏見の戦いでは鎧を来て出陣し、討ち取った敵の首を取って腰に付けて戦うと言う悠長さであった。生首と言うのは以外に重たい物で、その為会津藩士は動きが鈍くなってしまったと言う。 また幕府への忠誠を至上のものと考える余り、その費用を農民から厳しく取り立てたので、農民からの不満が高まっている。 会津藩は武芸が盛んであり、剣術は居合を含めると24〜5流派が有った。特に日新館では安光流、太子流、一刀流溝口派、真天流、神道精武流の五派が教授され、「会津五流」と総称された。 |
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| 経歴 | 初代保科正之は2代将軍徳川秀忠の庶子で、代々将軍家に対する絶対忠誠を教育されてきた。その家訓の中には、「もし歴代の藩主の中に、将軍家に刃向かう様な者がいれば、そいつはもう会津藩主ではないから、家臣は忠誠を尽くす事等無く、一重に徳川将軍家の為に行動せよ」という当時の武士道からは些か外れた事を述べている一条まである。その為、一朝事有った時の為にと代々尚武の風が強く、質朴な東北人の気象と相俟って、幕末最強の藩の一つに数えられた。 石高は二十三万石。京都守護職には職俸五万石が付き、そのうえ幕府から五万石の加増を受けたので財政は安定している……ように見えるが、実際には矢張り家計は厳しく、役料を含めての収入10万両に対して出費が21万両にも上ったと云う。会津藩では藩士に対して俸禄の60%の借り上げを行ってこの状況を凌いだが、藩士の不評を招いていた(一般の諸藩では、借り上げは50%が基本)。また、一説に依ると60万両もの贋金を作って戦費に当てていたとも……。 現藩主松平容保は養子では有るが、それだけに良き藩主であろうと心掛ける気風が強く、藩士からの信頼も厚い。 京都守護職の任務は、京都諸司代、大坂城代等を配下に置く強大な権限を以て、名目上は皇居の守護、実際には反幕府勢力(朝廷を扇動する藩・浪士)の鎮圧にあたる事である。また、非公式ながら多少の密偵網も持っている。 その先鋒たる新選組は会津藩御預(幕府が集めた浪士を会津藩が預かる)となっており、藩主松平容保の鶴の一声で成立した様な物で、その信頼も厚い。特に公用局外島機兵衛や大砲奉行林権助は新選組に好意的である。 彼ら会津藩は最後まで幕府に忠誠を誓い、奥羽越列藩同盟に加わって戊辰戦争を戦った。 戦後、戦争責任を問われた会津藩は猪苗代湖八万石か陸奥下北半島三万石かどちらかを選んで転封せよと命ぜられた。藩内では故郷に隣接した猪苗代湖湖畔を望む声が強かったが、山川大蔵ら藩首脳部は旧会津領民は長年の京都守護職・戊辰戦争戦費の負担に疲れ、今や一揆(ヤーヤー一揆)を起こす程であり、とてもその隣で暮らす事は難しい等の理由に挙げ、下北半島への移住を主張したので、会津藩士と家族は陸続と下北半島に赴き、斗南藩を設立した。斗南での生活は辛苦を極めたと云われている。 |
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会津藩組織図 藩主 松平容保 首席家老 田中土佐 公武合体派。大らかな人柄で、家中の人望が厚かった。
家老 梶原平馬 佐幕派。京都詰め。27歳の美男で、怜悧な才覚を持つ。
西郷頼母 謹慎中、公武合体派。会津藩の大石内蔵助と称される器量人。
神保内蔵助 尊王派。
萱野権兵衛 江戸詰、公武合体派。
横山主税 強固な佐幕派。六十歳の老齢で、苦労人だけに調停能力に富む。
萱野右兵衛 深沢右衛門 諏訪頼徳 若年寄 内藤介右衛門 藩の軍事部門を担当。後家老に昇進。 公用局 公用人 野村左兵衛 公用人筆頭。温和な気質で人当たりが良く、諸藩の公用方とも仲が良い。
小森久太郎 剛毅で忍耐力が強く、非常な頑固者であった。
手代木市右衛門 佐々木只三郎の実兄。弁舌に優れた切れ者。
外島機兵衛 新撰組の管理にあたる。機知に富んだ人物。
小野権之丞 会津藩では珍しい美食家。
丹羽寛次郎 直言の士で、藩主や重役に対しても遠慮無く諫言した。 公用方 小室金吾 諱は当節。誠実忠良。 大江仁右衛門 誠実な人柄で、後に家老の補佐役に昇進した。 伊東図書 純粋誠実な君子人であるが、病勝ちで活躍出来なかった。 田淵房之進 気力に溢れた人物。 荒井良助 強気かつ誠実な人物。 大野英馬 河原善左衛門 理論派。録百三十石。公用局内における反薩摩派の急先鋒。 松坂三内 秋月胤永 悌次郎。有能で顔の広い会津藩屈指の外交家。
広沢安任 富次郎。新選組の統率にあたる。近藤と親しい.。 倉沢右兵衛 中川宮家家令を兼任する能吏。 柴秀治 太一郎。録二百八十石。
橋爪助次郎 晒斎
国事掛 安部井政治 軍奉行 西郷十郎右衛門 軍奉行添役 神保修理 20代後半の若手エリート。後に藩主の大坂脱出の責めを負って自刃。
大砲奉行 林権助 古武士風の人物。新選組に対して好意的で、大砲を譲った。 軍事取調役 山本覚馬 白内障で失明寸前だが、何故か大砲は良く当たる。 物頭 白井五郎大夫 堀半右衛門 佐川官兵衛 別選組隊長
上田八郎右衛門 鈴木式部 美男子として有名
山川大蔵 戦上手として知られ戊辰戦争で活躍した。若くして家老に昇進。
軍事目付 佐藤主計 組頭 中沢常左衛門 佐藤鉄之助 小原宇右衛門 海老名郡治 松沢水右衛門 小池勝吉 中根幸之助 三宅八次郎 京都詰藩医 渋谷昌益 高橋順庵 密事頭取 内田武八 官僚主義的な秀才
京都密事御用所 大庭恭平 足利尊氏木造晒し首事件を解決した腕利き
原掟之進 一刀流溝口派の名手
会津 小鉄
思想:佐幕/中立
性格・容姿:身の丈五寸(150p)と背が低く、故に「小鉄」と呼ばれた。小柄で童顔、鼻の潰れた愛嬌のある顔。
経歴:本名鉄五郎。幼少時、母親と共に関西を放浪する。母が大坂四天王寺の雪駄修繕屋の内妻に入ると、連れ子の彼は真面目な義父と反りが合わず出奔、江戸に到る。
江戸で安藤対馬守中間頭吉右衛門の食客となり、中間部屋で賭博を覚え、悪党への道を歩む。江戸で喧嘩し、安藤対馬守邸を出奔。京都に入り、会津藩の守護職屋敷鳶部屋頭大風呂敷の専吉を介して守護職御用を務め、人夫の調達から市中探索まで手広くこなした。やがて専吉を追放し、京都市中随一の大親分となった。家は四条通り沿いである。
会津藩が京都を去っても恩義を忘れず、鳥羽・伏見の戦いの後、会津藩の戦死者を手厚く弔った。
| 別選組 | |
| 隊長 | 佐川官兵衛 |
| 所在 | 会津藩京都屋敷 |
| 新選組に対する態度 | 極めて友好的 |
| 隊士 | 精強な会津藩士の中でも藩内の剣・槍・弓・馬術の内二つ以上の免許を持つ者によって構成されるエリート部隊。総員25名。又、補助組織として書(諸)生隊(30名)がある。 |
| 経歴 | 慶応二(1866)年、新選組の池田屋に於ける活躍に触発され、又、第二次長州征伐開始に伴う軍事的緊張を反映して、会津藩は新選組とは別に京都の治安維持と藩主の護衛の為の警察部隊を組織した。それが、「京都常詰先備甲士勤」、いわゆる別選組である。其の名称からして新選組に対する対抗意識がほの見えてくるが、藩主の護衛が主だったので其の実力に見合った活躍の場所は与えられなかった。所詮、同志結社の新選組の身軽さは、諸藩には真似の出来ない事だったのだろう。 隊長には猛将として知られた物頭佐川官兵衛をあてた。 別選組は鳥羽・伏見の戦いでは斬込隊として活躍した。此の時に至って漸く新選組と肩を並べて戦い得たのは、歴史の皮肉であろうか。しかし戊辰戦争が始まると、会津藩は洋式に軍制改革を行ったので解散した。 |
別選組組織図 隊長 佐川官兵衛 組頭 依田源治 小櫃守左衛門 隊員 高津仲三郎 宝蔵院流槍術・神道精武流免許皆伝者。既に壮年ながら、六尺豊かな長身で張飛の生まれ変わりとも賞賛される剛勇の士。 柳田勝太郎 百五十石取柳田小右衛門の子。短躯で、肉厚の瞼、鼻、薄痘痕の残る豊頬。福々しい外見に似ず、負けず嫌いであった。 黒河内友次郎 諏訪豊四郎 金田百太郎 小櫃弥市 常盤恒次 佐川又四郎 佐川官兵衛の三歳下の弟。色白面長の知友兼備の士。 常盤次郎
佐川官兵衛
思想:佐幕/攘夷
能力値
筋力:5
器用:4
敏捷:3
知力:5
抵抗力:4
外見:4
技能:剣術(7)、剣技/溝口派一刀流(免許皆伝)、馬術(7)、国学(6)、兵学(7)
*愛刀は「奥州虎徹」と異名を取る名刀会津住三善長道。
*刀剣鑑定と試し切りに長じた。
生没年:天保三(1832)年九月五日〜明治十(1877)年三月十八日
出身:会津藩三百石取上士佐川家七代目幸右衛門直道の嫡男。
性格・容姿:濃い眉毛と黒々とした瞳で、右眼は二重瞼、左は一重瞼。上唇は薄く、下唇は分厚い。全体的に、頑固で精悍そうな印象を与えた物と思われる。五尺五寸の大柄な体つきで、優れた腕力を誇る。
階級:物頭→物頭兼別選組・書生隊隊長→朱雀士中四番隊隊長→家老→一等大警部
経歴:直清。佐川家は保科家が高遠に在った頃から随従するいわゆる「高遠以来」の名家で、代々三百石を領し、物頭を世襲した。物頭は部下に小頭二名、足軽二十名を配され、いざ合戦に到れば先陣を切る名誉の役職であった。官兵衛は其の武の名門に相応しく、一刀流溝口派剣術・宝蔵院流槍術を修めて勇名を誇り、また若い頃から粗暴剛勇の振舞いが多かった。特に、江戸在勤中に大名火消に附いている間、定火消・旗本内藤外記と諍いを起こして此を切り捨ててしまい、謹慎処分と二百石への減知を命ぜられた。謹慎は八年に及んだ。この謹慎中に佐川は刀鍛冶に興味を持ち、「奥州虎徹」三善長道の弟子入りしていた時期もあったと云われている。
藩主容保の上京時には謹慎中につき随行しなかったが、文久二年に上京を許され、京都日新館学校奉行に任ぜられた。また別選組が編成されると、隊士によって隊長に推薦された。
鳥羽伏見の戦い・北越戦争で勇名を馳せ、戊辰戦争に於いては遊軍として鶴ヶ城篭城戦を城外から支援した。その結果鶴ヶ城は補給を回復して大いに持久したが、作戦中農兵に畳を持たせて弾避けとして使用する等残虐な行為も有り、賞賛と恐怖を篭めて「鬼官兵衛」と呼ばれた。
戊辰戦争後は藩士の再就職の為上京し、一等大警部・警視第一方面第一分署署長となった。西南戦争が勃発すると、豊後口警視隊に配属、五個小隊から成る部隊の第一小隊長兼副指揮長の重任に推された。勇躍した彼は、元会津藩士三百名を率いて九州阿蘇に渡った。九州に到着した彼は早速薩摩軍と交戦を望んだが、上司である檜垣直枝権少警視は攻撃を躊躇い、その間に薩摩軍は増強されてしまう。
漸く檜垣が攻撃命令を下した時には、既に薩摩軍は強固な陣地を構築した後であり、彼の率いる会津藩士部隊は壊滅した。佐川は薩摩軍の隊長鎌田雄一郎と云う大剛の士と一騎打ちを繰り広げたが、背後より農兵・長野(さばく)に狙撃されて死亡した。長野は薩軍の決起に呼応して発生した阿蘇一揆に参加する猟師であった。
佐川の死体は、彼の魅力に心服した地元農民によって丁重に葬られたという。