| 見廻組 | |
| 見廻役 | 蒔田広孝・松平康正 |
| 本拠地 | 見廻組陣屋 文武場 |
| 担当区域 | 蒔田広隆組巡回区域 北側境界線/蛸薬師 南側境界線/五条通 東側境界線/寺町 西側境界線/御土居 御所内新在家 松平康正組巡回区域 (慶応二(1866)年には二条城も管轄内に移行) |
| 藩論 | 佐幕/攘夷 |
| 新選組に 対する態度 |
隊士の多くは幕府の直参であり、新選組を「新参者」として見下している。尤も、新選組の方も「彼ら肉食の徒、果たして何事をかよくなし得べきぞ」と軽蔑していたのだが。 それでも、幹部クラスの関係は親密で、見廻役蒔田広隆と与頭佐々木只三郎は定期的に近藤や土方と会合を持っていた。また、与頭勤方以上の幹部は屡々新選組幹部と一緒に遊郭に上がったという。しかし平隊士同士の関係は険悪である。見廻組から露骨に敵対する事はないが、彼らは新選組と協同する事は恥だと考えているのだ。 |
| 隊士 | 構成員は「組士」と呼ばれ、人員200〜530名。幹部クラスは旗本から、組士は御家人の子弟から成るとされるが、実際にはもっと雑多な身分の出身者によって構成された。蒔田組と松平組は同じ見廻組であったが、組間での構成員の移動は無かった。 規律は緩やかであったが、主要メンバーは殆ど幕府直営の軍事教練所「講武所」出身なので優れた武勇と幕府に対する絶対的な忠誠心を持つ。 しかし、その一方で身分に安住して体面のみに拘り、役に立たない隊員も多く、新選組に比べると嘗められていた。その為、一部には新選組の巡回区域を逐われた浪士が見廻組の担当区域に逃げ込む、という不名誉な事態すら有ったという。 新選組と異なって特に正式な旗や制服を持っているわけではないが、当時の志士達の流行に合わせて黒い羽織を着る者が殆どであった。また新選組に比べて裕福な者が多く、出動時の装備も兜・籠手・鉢金・陣笠・腰当・臑当・小袖・鎖帷子と重装備であり、幕府からも火縄銃等が支給されていた。 新選組との差異は他にも有る。それは、見廻組の多くが家族を持った幕臣であり、任命の条件は家族を京の役宅に住まわせる事であった。そのお陰か見廻組の女性絡みの不祥事は見られないが、家族連れで分宿している為に緊急出動に遅れ勝ちと云う欠点があった。また、鳥羽・伏見の戦いでは妻子を江戸に逃がす為に大いに苦労したと言われている。 |
| 職務 | 新選組と並んで京都の治安維持を担当する。一日ニ回、昼と夜に与頭の引率で十数名の組士が出動し、浪士を取り締まった。しかしこの方式は余りに目立ち、浪士を逃してしまう事もしばしば有ったらしい。これについては組士の間からも批判が出ており、数人に分かれて「忍び廻り」を行うように提案されていたが、遂にその方式が取り入れられる事は無かった。 また、佐幕派公家の保護・倒幕派公家の監視、更に御所内の警備も執り行う。これは一つには組士の身分が高い事が理由に挙げられるが、同時に幕府が最も信頼した在京警察部隊だからとも言える。 |
| 経歴 | 幕府は浪人対策のため文久三(1863)年新選組を創ったが、当初の新選組は芹沢派の勢力が強く、治安維持に貢献する所がなかった。その為、元治元(1864)年五月、今度は責任者の「見廻役」に浅尾藩主蒔田広孝、交代寄合役松平康正ら幕臣をあて、幕府直営の軍事教練所「講武所」出身の旗本・後家人の次男・三男から隊員を募集して、改めて「見廻組」を組織した。 大名である蒔田は、藩士80余名を引き連れて五月十五日に江戸を立ち同二十五日に上京したが、旗本である松平の方は思う様に人数を集められず、やむを得ず、御家人子弟に募集範囲を増やすが、それでも募集人数は84、5名であった。窮余の策として新選組を吸収したいと会津藩に申し入れるが、断られてしまう。結局、松平組は人数不足の儘七月初めに上京した。 京都に着いた見廻組は実戦部隊の指揮官「与頭」には講武所師範で小太刀の名手佐々木只三郎を任命、京都守護職の管轄下に置いたが、身分は直参であったため、市中警備の先輩格で有るものの浪人集団に過ぎない新選組とはしばしば衝突した。 当時の組士は浅尾藩士80名に松平が募集した組士80を加えた160名程度で、見廻役が組士を二分して統括し、実戦指揮は与頭、与頭勤方が取った。 それらに次ぐ肝煎は組士を纏める役。最下級の指揮官である伍長は小隊指揮にあたる。その下に一般隊員である見廻組が続き、準隊員とでも言うべき見廻組並・見廻組雇・見廻組並御雇が居る。伍長より下の一般兵を纏めて組士と呼ぶ。この様に見廻組は、入隊に際して前身を問わず身分からの脱却を図る新選組と違い、あくまでも身分制の強化がその設立の根底にある。 また、先に述べた役料に加えて多額の機密費が支給され、見廻組は成立当初からかなり羽振りが良かった。特に与頭勤方以上は羽振りが良く、頻繁に遊郭に出入りしていた。 元治元(1864)年七月十九日の禁門の変に際しては、蒔田は浅尾藩士と見廻組の混成部隊を率いて九条河原に出陣。進出して来た金剛隊と交戦してこれを追い散らした。が、これが尊王派の注意を惹いたのか、慶応元(1865)年四月二日夜、松平組の組士西原邦之助が何者かに暗殺されたり、浅尾屋敷が襲撃される等の被害を被ったりした。 慶応二(1866)年二月八日、高橋弥八郎が公家の久世家と諍いを起こして切腹した。不祥事の責めを受けて松平は責任を負って辞職。代わって信州飯田藩主堀石見守が見廻役と成ったのだが、この頃見廻組は殆ど佐々木の独断で動かされており、掘は周囲に「これなら見廻役は要らない。佐々木を見廻役にすれば良い」と愚痴を零していたと云う。その後、更に見廻役の移動が続くが、佐々木が実務を取り仕切っていたので特に問題は起きなかった様である。 慶応二(1866)年九月、古来二条城の警備を担当して来た二条城御城番組が廃止され、二条城警備も見廻組に一任された。そして、二条城警備を担当していた二条城門番頭(北門頭)葉若糺蔵が与頭に、二条城門番与力・同心35名が見廻組に、京都在地役人40名が見廻組並にそれぞれ転属した。これらの人数は地理に精通している事から主に見廻組の諜報部門を担うよう期待され、見廻組転属後も葉若糺蔵の指揮下に置かれた。 また慶応三(1867)年二月、桂隼之助らの所司代同心を登用。五月には二の丸火之番・今井信郎、銃隊・戸沢金次郎、新潟奉行支配定役・粕屋主馬、大坂町奉行同心・鈴木全輔以下十四の同心等の人材が登用されている。また一方で、この時期に六十名程度の組士が転属している。その理由は不明だが、或いは人材の精選が行われたのかも知れない。 こうして戦力を増強した見廻組だが、同年八月十四日に起こった原市之進暗殺から事態は急変する。即ち、犯人の一味が、見廻組が予ねて監視していた鷲尾家に出入りして暗殺計画を練っていた事から、見廻組の能力に疑問符が付いてしまったのだ。その影響で見廻組は御所内の巡察と公家邸宅の監視任務から外され、新選組と同列の市中見廻り機関となってしまった。 鳥羽・伏見の戦いに於いては遂に佐々木が完全に見廻組を掌握し、指揮官として出陣した。 見廻組は、精鋭部隊として討薩表を擁する大目付滝川播磨守の護衛として鳥羽街道方面軍の先鋒に配属された。しかし、薩摩藩が砲撃を開始すると肝心の滝川は乗馬が暴走して戦線離脱、同行していた撒兵隊も滝川を追って逃亡する等大混乱に陥った。見廻組と歩兵隊だけは踏み止まり、薩摩軍に白兵戦を挑んだが、激しい銃撃に阻まれて失敗。止む無く撒兵隊が遺棄した銃器弾薬を拾って応射するが、歩兵隊程の戦果は得られなかったらしい。 三日夜半、薩長軍の急襲を受けて幕府軍は下鳥羽に退却するが、翌五日の早朝には反撃を開始。この反撃は功を奏し、後一歩で京都と云うところまで迫るが、後続部隊も食料弾薬の補給も続かず攻勢は頓挫。見廻組は民家の餅を齧りながら戦ったが、伏見方面からの増援を得た薩長軍の逆襲を受けて富ノ森に退却した。富ノ森で会津藩兵と合流し、薩長軍の追撃を阻んだ。 五日朝には富ノ森で樽に泥土を詰めると云う簡易胸壁を築いて防戦したが、薩長軍の迂回攻撃と淀藩寝返るの報を聞いて退却した。 六日の戦いでは新選組等の伏見方面軍と合流して橋本で木津川を挟んで防戦したが、官軍を攻撃する為に渡河を企画していたところ、銃弾を受けて佐々木が負傷。見廻組は佐々木を後送しつつ大坂に退いた。 そして、大坂城で慶喜らが逃亡した事を知ると、他の幕軍と同じく紀州に退却して紀州藩の手配で江戸に帰還した。 江戸では、見廻組は岩田通徳の指揮下に配され、名称も狙撃隊に改められるが、幕軍態勢の内に部隊は解散。組士の一部は徳川家達に従って静岡藩に移ったが、残余は小普請組に編入された。 |
■歴代見廻役
| 就任・離職年 | 蒔田組 | 松平組 |
| 元治元(1864)年五月七日 | 蒔田広孝就任 | 松平康正就任 |
| 慶応二(1866)年三月十四日 | 松平康正辞任 | |
| 慶応二(1867)年十月十五日 | 堀親義就任 | |
| 慶応三(1868)年五月八日 | 堀親義転出 | |
| 岩田通徳就任 | ||
| 慶応三(1868)年五月八日 | ||
| 慶応三(1868)年六月十五日 | 蒔田広孝辞任 | |
| 慶応三(1868)年七月四日 | 小笠原長遠就任 |
■見廻役組織図

■見廻組人名録
| 役職 | 氏名 |
備考 |
| 見廻役 | 蒔田広孝 |
大名、相模守、備中浅尾一万石 |
| 松平康正 |
旗本、因幡守(後に出雲守)、交替寄合表御礼衆六千石 |
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| 与頭 | 佐々木只三郎 | 実質的な見廻組のリーダー。 |
| 小林弥兵衛 | 300俵取旗本、小普請組から転任。 | |
| 間宮孫四郎 |
300俵取旗本、見廻組発足時に新御番松平大学組より転任。文武場頭取並を兼任。 |
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| 土屋助三郎 | 334俵旗本、見廻組発足時に小普請組安藤与十郎支配より転任。 | |
| 久保田善三郎 |
100俵取旗本、土屋と同じく転任。文武場頭取並を兼任。 |
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| 与頭勤方 | 大沢源次郎 | 17俵取旗旗本、見廻組発足時に御天守番より転任。 |
| 大野亀三郎 | 15俵3人扶持旗本、見廻組発足時に富士見御宝蔵番より転任。 | |
| 芳賀栄之助 | 旗本、見廻組発足時に富士見御宝蔵番より転任。 | |
| 高久半之介 |
元治元年、大坂採用。文武場頭取を兼任。 |
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| 坂本杢三郎 | 元治元年、大坂採用。 | |
| 速水又四郎 |
元治元年、大坂採用。見廻組槍術世話役。 |
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| 肝煎 | 渡辺吉太郎 |
直心影流男谷精一郎の門弟。元神奈川奉行支配定番役 |
| 牧野東蔵 | ||
| 伍長 | 高橋安次郎 | |
| 見廻組 | 今井信郎 |
直心影流榊原鍵吉の門弟。函館戦争まで戦った |
| 渡辺一郎 | 大野応之助門人。元二条城門番組与力。 | |
| 中川登代蔵 | 雅号は四明と云い、俳句の師匠も勤める趣味人。 | |
| 見廻組並 | 土肥仲蔵 | |
| 桜井大三郎 | ||
| 桂隼之助 | 大野応之助門人。元所司代同心で、文武稽古場剣術教授方。 | |
| 世良吉五郎 | 元所司代同心で、文武稽古場剣術教授方。 | |
| 見廻組雇 | ||
| 見廻組並雇 | ||
| 文武場学問師範 | 内藤七太郎 | 元学問所教授方。後に見廻組与頭に昇進した。 |
| 学問所助教 | 岩垣英太郎 |
京都で現地採用された儒学者。 |
佐々木只三郎
思想:佐幕/攘夷
能力値
筋力:3
器用:6
敏捷:6
知力:4
抵抗力:3
外見:3
技能:剣術(9)、槍術(6)、拳(5)、脚(2)、剣技/神道精武流(免許皆伝)、剣技/種田流槍術(目録)、剣技/宝蔵院流槍術(切紙)、国学(7)、尾行(4)、演技(7)、潜伏(3)
*小太刀を取っては日本一と称された。特に長身を利用して上段から切り下げるのが得意であった。
生没年:天保四(1833)年〜慶応三(1868)年一月十八日
出身:会津藩士手代木家の次男で、会津与力佐々木家に養子入りした佐々木源八の次男。
性格・容姿:普通の体格で、些か長身。浅黒く、笑うと靨の出来る可愛い顔だったという。性格は司馬遼太郎のお陰で陰湿で執念深いと思われ勝ちだが、実際には豪放磊落でものに拘らず、親戚の子供の名前もなかなか覚えないお茶目さんだったらしい。幕府に対する忠誠心は高い。
階級:講武所教授方→新徴組取締役並出役→見廻組与頭勤方→見廻組与頭
経歴:若い頃を会津藩で過ごし、会津藩剣術指南の羽島源太に神道精武流を学んだ。後に兄は会津藩士である叔父の養子となり、手代木市右衛門を名乗る。一方、只三郎は会津佐々木家の遠縁に当たる幕臣佐々木矢太夫に養子入りした。この頃、駿河台に住む幕府徒目付鈴木大之進に付いて和歌を学んだ。
文久二(1862)年十二月、新徴組が編成されるとその幹部に任命されたが、新徴組が江戸に帰る時その任を解かれ、密かに清川八郎暗殺の密命を受け、極めて巧妙かつ陰険な手口で北辰一刀流の名手清川を打ち取った。文久三(1863)年四月十三日、まず清川の知人を脅迫して清川を呼び出し酒を飲ませる。帰宅途上の清川に声を掛けて網笠を外して丁寧に挨拶し、それに合わせて仕方なく清川が笠を取ろうと笠紐に手を掛けた瞬間に背後に回った仲間が切りつけ、佐々木が正面からとどめを刺す……凄いとしか言い様の無い巧妙な手口である。
その功績で元治元(1864)年四月に見廻組が結成されると与頭に任ぜられ、京都北野の観音寺に寄宿して役宅に通勤した。見廻組では、転任が多い見廻役に代わって実際上の指揮官となり、辣腕を振るった。この頃の佐々木は自らを律する事厳しく、和歌を作る際にも忠君愛国を専らとし、京に暮らしているのに京独特の風物を全く読み込まなかった。この頃、紀州藩出身の妻と結婚し、一児を設けた。
元治二(1865)年一月二十六日、見廻組を率いて佐々木六角源氏太夫を捕縛。
慶応三(1867)年三月二十四日、妙心寺に駐屯していた幕府歩兵隊所属の歩兵が北野の上七軒に有る遊女屋、鍵屋に上がろうとしたところ、馴染みが無いので入店を拒否された。怒った歩兵は店に居座ったので、通報を受けた佐々木は組士数名を率いて鍵屋に赴き、歩兵を殴打して追い散らした。夕刻に至り、この処置に対して歩兵改役吉田直八郎・歩兵指図役下役中島六蔵・同伊東清之助らが佐々木の自宅に抗議に赴いたが、それとは別に復讐を誓った歩兵一個小隊が銃を持って押し掛け、吉田らの制止も聞かずに佐々木の寄宿する観音寺と、文武場学問師範の内藤七太郎宅に数十発の銃弾を撃ち込んだ。この時には組士が駆け付けて人数で圧倒して追い払ったのだが、今度は北野天満宮に一個大隊が集結し、気勢を上げた。見廻組も佐々木指揮下の二百名が集結し、歩兵隊と北野天満宮の鳥居を挟んで対峙したのだが、歩兵隊が空包を発して挑発したので遂に戦闘となった。見廻組は果敢に切り込んだが、銃を持った歩兵隊には敵わず、「散々に敗走」してしまった。その時、事件を聞いて駆け付けてきた会津藩士二名と薩摩藩士一名が間に立って仲介し、やっと事態は収拾された。後日、歩兵隊頭取と見廻役から進退伺いが出されたが幕府はこれを慰留し、処分は下されなかった。
同年十一月十五日、坂本竜馬を暗殺。本人は手を下さなかったと云うが、殺傷後は悠々と詩を吟じながら撤収、剛胆さを見せた。
慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦いにも参戦し活躍した。戦闘中、上半身裸で近くの酒屋で景気付けに酒を飲み、代金代わりに襖に「世はなべて/うつろふ霜に/ときめきぬ/こころづくしの/しら菊の花」という歌を書きつけたと云う。その後 一月六日の戦闘で腰に銃弾を受けて負傷し、大坂に後送された。その後、幕府軍の敗走に従って紀州に後退し、一月十二日紀州三井寺にて戦傷死した。
一説によると、明治二十(1887)年頃まで生き残ったとも云う。今井 信郎
思想:佐幕/中立
生没年:天保十二(1841)年〜大正七(1918)年六月二十五日
出身:江戸本郷湯島天神下の三十五俵取旗本・今井長五郎の長男。
性格・容姿:妻の名は「いわ」、娘の名は「りゅう」。結婚時の仲人は窪田鎮章であった。京都住居は千本今出川。
特技:直心影流剣術免許皆伝、馬術、柔術、剛力。
*得意技は「片手打ち」。水戸藩士某と立ち会い、片手打ちで面を取り、頭蓋を砕いて死に至らしめて以来、片手打ちを禁ず。
*剛力無双で、兎に角腕力の強さは格別で、二の腕の力瘤に妹のけいに噛み付かせたが歯が立たなかったとか、天上の桟を掴んで逆さになって這ったとか、逸話には事欠かない。
階級:講武所剣術師範代→講武所剣術師範→見廻組与頭
経歴:5〜6歳の頃から木刀や棒を背負って下町まで喧嘩に出て行くので、「いくさ人」と呼ばれた。
10歳で元服し、為忠と名乗る。この頃、湯島聖堂で和漢の書や絵画を学び、文事に専念した。
18歳の時、世間の騒擾を見て一念発起して直心影流に入門。門下第二位の実力を誇り、僅か三年で免許皆伝を得る。そして、片手打ちの技を編み出す。また、柔術、馬術、水練にも堪能となる。
免許皆伝後、すぐに講武所剣術師範代を命ぜられる。しかし間もなく関東郡代木村飛騨守に招かれて上野国岩鼻の高崎陣屋で剣術教授方をしたり、神奈川奉行取締であった窪田鎮章麾下に加わったりと様々な勤務に付く。
五年後の慶応三(1867)年五月、二の丸火之番に任ぜられて江戸に帰還。併せて講武所剣術師範代に返り咲くが、十月上旬には見廻組に任ぜられ、更に一ヶ月後には坂本龍馬暗殺の勤務に付く。坂本暗殺。刺客は見廻組組頭佐々木只三郎、与頭今井信郎、与頭渡辺吉太郎、組士高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎。刺客を決めるくじ引きで、当初3番を引く。そこで引き直しを要求し、今度は1番籤を引き、彼を先鋒に切り込んだ。
午後二時、所司代千本通屋敷内の佐々木只三郎の役宅を出る。東山祇園社に武運長久を祈る。その後、祇園石段下の行きつけの料亭「久菊」の座敷裏に潜伏し、夜を待った。夜八時、料亭を出て近江屋に向かう。
店の下僕藤吉が応対に出ると、偽の名刺を使って取り次ぎを頼み、竜馬の所在を確かめると袈裟懸けに切り捨てた。奇襲攻撃に成功した彼らは竜馬と偶々同席していた中岡晋太郎の二名を斬り、致命傷を与えて引き上げた。竜馬は北辰一刀流免許皆伝の腕だけ有って咄嗟に陸奥守吉行2尺2寸で今井の太刀を受けたが、今井の片手打ちの威力は凄まじく、受けた太刀を撥ねて額に深い傷を与えた。
その後も、朱鞘三尺二寸、新刀の大業物で活躍。慶応四(1868)年正月三日からの鳥羽伏見の戦いにも参加し、切り込み隊として自ら白刃を振るって戦う。しかし戦い利非ず、四日に佐々木只三郎重傷、七日には部隊は壊滅。今井も突出して敵中に孤立し、二日間も溝の中に隠れてやり過ごしたと言う。
結局、新選組と共に軍艦で江戸に逃れる。しかし江戸もすぐに無血開城され、未だ戦意の衰えない今井は江戸を脱走し、友人の幕臣古屋作左衛門と共に、幕府歩兵を糾合して衝鋒隊を組織。衝鋒隊は北越から会津に負け戦を続けながら転戦する。
其の実力によって、選挙で蝦夷共和国政府海陸軍裁判役兼軍監に推される。衝鋒隊隊長の古屋が僅かに歩兵頭である事を勘案すると、その出世の度合いが分かろう。
明治二(1869)年5月18日、五稜郭降伏。江戸に護送され竜馬暗殺について詮議されるが、下手人は戦死した組士達であり、自分や渡辺(何れも生存者)は見張り役であったと主張し通して明治五(1872)年1月赦免。獄中で大鳥圭介に英語を学んだ。
明治五(1871)年1月、殆ど処刑かと思われたが、意外にも西郷隆盛の口添えで釈放される。
釈放後は徳川家を慕って静岡県に向かい、駿府城の敷地内の藩校寄宿舎を払い下げて貰い、私立学校を設立する。しかし学校では英数漢学や農業の他にも軍事教練等を行ったので、県庁から不穏の嫌疑を掛けられる。今井は却って無償で献納、これに気をよくした静岡県は彼を12等出仕として彼を官吏に登用した。
明治九(1875)年四月、十等出仕、伊豆七島巡視を命ぜられた(そう、この頃には未だ伊豆七島は我が静岡県のものだったのだ!)。
西南戦争が勃発すると静岡県を依願退職し、東京に出て七月九日付で警視徴募隊一等中警部心得となる。其処で自ら二箇大隊の巡査を募集し、習志野に出て演習を重ねた。此の警部就任については、官軍として九州に行き、前線で寝返って命の恩人である西郷に味方する積もりであったと云う。
そして、いざ出陣という段に至って、西南戦争は終結。今井も警部の職を辞して大井川河畔の初倉村字坂本の牧ノ原台地に籠もり、他の多くの幕臣に立ち混じって開墾を行った。この頃、静岡にキリスト教の宣教師がやってきて、布教を開始した。それを不埒に思った保守的な士族の間から、宣教師を斬ろうという話が持ち上がり、今井は斬り役となった。所が宣教師の言葉に触れるや大いに啓蒙され、入信してしまったと云う。まるで、坂本龍馬の勝海舟への弟子入りを思わせ、全く皮肉である。
その後は熱心なクリスチャンとして静かに余生を送った。
しかし、明治三十三(1899)年に甲斐新聞に自分が坂本龍馬を斬ったと談話を発表。此を読んだ旧土佐藩士谷干城は虚妄と断じ、今井は激しく批判された。
晩年にも、欄干を走る鼠を手裏剣で縫いつけたりと技の冴えを見せた。また老衰が激しくなって、子息の信夫が随分痩せたと思い父の腕を見ると、まだ自分の腕の倍もあったという。
大正七(1918)年6月25日初倉村の自宅にて脳卒中で死亡。享年78歳。山口一郎
思想:佐幕/攘夷
生没年:文政元(1817)年〜????
特技:剣術
経歴:現在の東京都文京区に有った石切橋の袂の豆腐屋店主。かねがね佐幕の念を持ち、剣を修行していた。
近所には後に見廻役となる旗本蒔田相模守広孝の屋敷があり、蒔田も屡々山口の豆腐を求めたという。それが縁となってか、山口は度々蒔田の出張に随伴しては小者を務めたという。
元治元(1864)年、蒔田が見廻組を率いて上京すると聞くや、山口は既に四十七歳の中年であるにも関わらず、家業を捨てて蒔田に従った。上京するや、すぐに禁門の変が勃発。此の戦いで、山口は得意の剣の腕を振るって活躍し、見廻組幹部を瞠目させた。しかし、見廻組は平同士と言えども歴とした幕府の官職に組み込まれた役職であり、武士の出身ですら無い山口の入り込む隙間は無かった。その為、見廻組幹部は山口に身分職制の外にある浪人集団「新選組」への加入を勧めたが、山口は此を辞退したと言う。
その後の彼の業績については伝わっていないが、新選組に入隊していれば後に見廻組格への昇進も有ったのに、誠に運のない人物ではある。なお、彼に関する記述は全て実業之日本社刊『新選組 知れば知るほど』に依拠した。