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第弐章 支援組織

 

桑名藩
藩主 松平定敬 松平越中守定敬
所在 伊勢国桑名
石高 11万石(内5万石は越後刈羽・魚沼の二郡)
本拠地 桑名城
京都屋敷 所司代屋敷
担当区域 北側境界線/鞍馬口
南側境界線/下立売
東側境界線/寺町
西側境界線/堀川
藩論 佐幕
新選組に
対する態度
 新選組に対しては非常に好意的で、便宜を計ってくれるのだが、所司代と云う性格上直接的な武力を用いての支援は行わず、後方支援がメインとなる。特に三百年に渡って築き上げてきた所司代の情報ネットワークは高性能で、密偵から得た情報はそのまま新選組にも連絡される。
藩士  東西交通の要衝桑名は、江戸時代初期の本多忠勝以来伝統的に譜代大名の中でも強力な藩が配置されることになっている。江戸時代中期に入国した久松氏系松平家も例外ではなく、譜代大名の中でも一二を争う武芸熱心の藩である。
 更に、幕府がフランス式軍制を取り入れるとそれに従って藩士に洋式調練をしたが、服装は和服のままであった。鳥羽・伏見の戦いでも幕府軍の先鋒として活躍したが、その時にも揃いの義経袴を履いて巧みに土嚢で陣地を築いて善戦した。
経歴  京都所司代は3万石以上の有能な譜代大名1名が就任する。従四位侍従、溜間詰、役知一万石。
 その職務は多岐に渡り、京都諸司代の任務は京都の防衛、朝廷の監察、京都町奉行・奈良奉行・伏見奉行・京都郡代の指揮、近畿八カ国の天領の訴訟の処理、西国大名の監察を担当し、それらの遂行の為には寺社に対する調査も許されている。老中に次ぐ要職とされ、この職を無事勤め上げれば、江戸に召還され老中に抜擢される事が慣例となっている。配下として与力50騎、同心100名を持ち、二条城定番・門番も所司代の支配を受ける。

 幕末における京都所司代は、当初若狭小浜藩主酒井忠義が就任していた。彼は先に十一年ほど京都所司代を務め、幕末の緊迫した情勢に応じて再任された朝廷対策のベテランであった。しかし、文久二(1862)年に薩摩藩公島津久光が兵を率いて上京して来ると、京都の尊王派の間には「尊王派の島津公が井伊派の酒井を討ち取りに来た」と云う浮説が流れたので、酒井は所司代屋敷を放棄して二条城に逃げ込んでしまう……どうやら、公家工作のプロは軍事のプロにはなれなかったらしい。結局島津久光にそのような意志は無く、京都の尊王派も薩摩藩の手で鎮圧された
(所謂寺田屋事件ので、酒井は罷免され、当時大坂城代を務めていた丹後宮津藩主本庄宗秀を配置した。しかし、本庄もまたかつて井伊派に所属していた為尊王派は却って反発を強め、京都の治安は悪化した。
 事態を重く見た幕府は、これまで政局の外に居た会津藩を京都守護職に任じ、京都所司代より上位の機関として京の治安維持に当たらせた。同時に、京都所司代も英明な越後長岡藩主牧野忠恭とし、治安維持の強化を期待した。しかし、長岡藩は会津藩とは協調せずすぐに辞退。その後も越前福井藩主松平春嶽、淀藩主稲葉正邦等の有能な藩主が選任されたが、長く続く事は無かった。
 そこで松平容保の弟桑名藩主松平越中守定敬が、元治元(1864)年四月七日、京都諸司代に任ぜられた。桑名藩は六万石の小大名ながら上方の大名の中では最も武芸に熱心な藩で、藩士には優れた武芸者が多い。
 幕末においては新設された京都守護職の下部組織となったのだが、兄弟だけに両者の意志の疎通はかなり円滑であった。また、有名な六角獄舎は京都諸司代の管轄である。
 鳥羽・伏見の戦いに於いては会津藩と共に奮戦。戊辰戦争においても越後で長岡藩・会津藩と共に勇戦した。

 

桑名藩組織図

役職 氏名 備考
藩主 松平定敬  
上席家老 酒井孫八郎

24歳ながら政事総宰職を兼任。国元の総責任者

大隊頭 服部半蔵

忍者服部半蔵の子孫。28歳の若い家老だが人望有り

大隊長 兵藤八右衛門

家老、600石。無能

久徳隼人

家老、700石。無能

吉村権左衛門

江戸詰め家老、尊王派

軍事奉行 山脇十左衛門

江戸詰め、佐幕派。老年にして覇気有り

杉山弘枝

佐幕派

中隊長 三輪兵庫  
菅谷新平  
加太喜内  
政事奉行 山本主馬

佐幕派。

小森九郎右衛門

佐幕派

大目付 松浦秀八

佐幕派、在京。壮年の切れ者。戊辰戦争中は致人隊隊長として奮戦

公用人筆頭 森弥一左衛門  
公用人次席 高野一郎左衛門  
公用人 立見鑑三郎  
公用方 築磨市左衛門  
森陳明

函館では常吉と改めて新選組に入隊した

大砲方 高橋清次郎  

立見鑑三郎立見鑑三郎
思想:佐幕/開国
生没年:弘化三(1846)年〜明治四十(1907)年三月七日
出身:桑名藩江戸定府馬廻役町田伝太夫静臥百石の三男。実兄には神風隊々隊長町田老之丞武須計(ぶすけ)、実弟には致人隊軍監町田鎌五郎等が居る。
容姿・性格:身長174cm、面長で眉毛が太い。性格は豪気で部下思い。また異常に気が強い。
特技:風伝流槍術、新陰流剣術、部隊指揮
*特に剣技に優れ、十七歳で別伝「三拍子の事」を受ける。
階級:御小姓→外交掛→雷神隊々長→幕府陸軍歩兵指図役→明治陸軍中将・弘前第8師団長
経歴:桑名藩江戸定府馬廻役町田伝太夫静臥百石の三男として江戸に生まれたが、伯父の御馬廻二百石立見場兵衛の養子となり、五歳で伊勢桑名に帰国。八歳で藩校立教館に入学し、文武を修め、槍術・弓術・馬術にも通じて十五歳の時に表彰を受ける。その後松平定敬が家督を継ぐと、立見は御小姓百八十石に任ぜられ、文久元(1861)年には定敬に従って出府。
 出府した立見は特に許されて幕府の官立学校である江戸昌平講に学び、秀才を唱われた。藩主松平定敬が京都所司代に任ぜられると、京都で外交掛となった。その際、桂小五郎や大久保利道、西郷隆盛といった名士と交流があった。間もなく藩から出向して江戸に赴き、幕府陸軍に籍を置いた。そしてフランス人顧問から軍事教練を受け、「タツミは天性の軍人である」と賞賛された。
 鳥羽・伏見の戦いの時には江戸にいた。後に定敬と藩士が国を逃れて来ると、官軍に対して抗戦を主張した。そして藩主を海路で越後柏崎の天領接収に向かわせ、自分は江戸に残って同志を糾合し洋式部隊「雷神隊」「神風隊」「致人隊」を結成した。これらの部隊は隊長を入札(選挙)で選ぶという画期的な性格を持ち、結果雷神隊々長となり、陸路で柏崎まで進撃した。
 柏崎に着くと定敬と合流して官軍を撃破、更に長岡藩と共同戦線を組んで官軍を圧倒した。長岡藩が破れると定敬は側近と共に兄である会津藩主松平容保を頼って会津に向かい、桑名軍も遅れてそれに続いた。しかし定敬は容保の命でさらに仙台に向かい、そこから榎本武揚の艦隊と合流して函館に渡った。会津に残された立見以下の桑名軍は定敬を追って陸路北上したが、途中頼りにしていた庄内藩が降伏すると、それにならって降伏した。
 明治に至って名を尚文と改め、司法省に出仕。後に西南戦争で陸軍の人材が不足すると、桑名藩士を率いて陸軍に転じ、一躍少佐・「新撰旅団」参謀長に任ぜられた。日清戦争では第十旅団長として出征。近衛師団参謀長等を経て、精鋭の弘前第八師団の師団長となった。そして日露戦争に第八師団を率いて従軍、特に黒溝台会戦で七倍のロシア軍を撃退し、百戦錬磨の猛将野津道貫をして「立見は東洋一の用兵家である」と賞賛せしめた。日露戦争後に大将となるが、翌年三月七日病死した。


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