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第弐章 支援組織

 

伏見奉行
奉行 林忠交
新選組への
態度
非常に協力的。
経歴  職務内容は、天領である伏見の町の行政、宇治川水運の監視等。特に大坂と京都を繋ぐ宇治川の監視は重要な任務であり、幕末には浪士の入京を阻む為に大いに活躍した。奉行の格式は諸大夫、芙蓉間詰、持高、役料三千俵。与力十騎、同心五十名を有する。
 奉行所は伏見鍋島町に有る。この奉行所は初代伏見奉行を務めた小掘遠州によって、元和九(1623)年に建てられた由緒有る建物で、石垣を巡らせ、天守閣のような隅櫓が二つ立つ城のような外見であった。また周囲の道路が屈曲している為、まっすぐ奉行所を攻める事は出来ない。後の鳥羽伏見の戦いで、刀槍主体の新選組が銃器で武装した薩軍と渡り合えたのは、こうした堅牢な施設と地形による効果かも知れない。

 安政六年八月二十八日、上総請西藩藩主林肥後守忠交が伏見奉行に就任。そのまま幕末まで任務に付き、京都付近の治安を守るべく活動した。
 新選組とは当初対等の立場であった。しかしある時新選組隊士が将軍の御鷹場に入って鉄砲猟をしていたのを咎めたところ、その注意した同心が暗殺されたので、以後は新選組に服従した。
 慶応二(1866)年、薩長同盟を成立させた坂本竜馬が寺田屋に潜伏しているのを察知し、襲撃。しかし捕縛に向かった同心や岡っ引は非常に臆病で、かなり慎重に包囲したにも関わらず取り逃がした。
 慶応三(1867)年五月、忠交は伏見で在職中に急逝。林氏の家督は甥に当たる忠崇が養子入りして継承したが、伏見奉行所は七月に京都奉行所に併合され、奉行所は放棄された。
 同年十二月十六日、京都を追われた新選組が伏見奉行所に駐屯。御香宮の薩軍に対して錯綜した地形を利用して勇戦したが、高みに陣取る薩軍から激しい砲撃を受け、伏見奉行所は炎上。新選組も敗退した。

 維新後は工兵隊の宿舎として利用された。

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