| 一橋家 | |
| 当主 | 一橋慶喜 |
| 所在 | 江戸 |
| 京都屋敷 | 御旅館 |
| 京都拠点 | 東本願寺 |
| 藩論 | 公武合体/開国 |
| 新選組に 対する態度 |
主君一橋慶喜が頑迷な佐幕主義でない事を反映し、新選組に対しては余り好意的ではない。下手をすると刃傷沙汰さえ有り、寧ろ非協力的だと言えよう。また京都の一橋家を仕切っている原市之進は見廻組と親しく、事件等はそちらに命じて解決させたがる傾向が有る。 但し、一橋家に協力する火消しの頭領・新門辰五郎は佐幕一徹の新撰組に好意を抱いており、個人レベルでの助力は惜しまない。 |
| 藩士 | 一橋家は名門ではあるが、代々一橋家に仕える家臣は存在せず、家臣は幕府から派遣された旗本であった。そしてその旗本も、御三卿の勢力拡大を防ぐ配慮から頻繁に交替があった。 一橋慶喜は開明的な君主で、家士からなる親衛隊「牀几廻(しょうぎまわり)」百名に洋式の訓練を施し洋式の火器を持たせたが、一橋家の家臣は上記のような理由で決して一橋慶喜に忠誠を誓っている訳ではなく、士気が低かった。その為に屡々意気地無い敗退を繰り返した。その度に気を吐くのは慶喜の義父新門辰五郎に率いられた火消し達であったと云われている。 また、その他に幕府から銃隊二個小隊百名、講武所小筒組五十名、水戸藩からの援軍として槍兵二百名を付けられている。 |
| 経歴 | 徳川将軍家の血統の断絶を防ぐ為に八代将軍吉宗が創設した「御三卿」の一つ。初代当主は吉宗の四男に当たる宗伊で、一橋門内に屋敷を構えた事から一橋家と名付けられた。家格は十万石に相当し、領地は甲斐・武蔵等関東六カ国に散在している。 幕末の一橋家当主慶喜は尊王攘夷の総本山水戸家の出身で、英明の君主として知られた徳川斉昭の息子と云う血統の良さであった。その上知謀・胆力に優れ、この難局に相応しい将軍として、14代将軍にと期待されたが、紀州徳川家13代の慶福を擁する井伊直弼に敗退して隠居謹慎を命ぜられた。 しかし、井伊が桜田門外の変で倒れると、将軍後見職に任ぜられ、文久の改革を行った。文久の改革はそれまでの佐幕的な傾向に対して「公武合体」をより円滑に行うもので、安精の大獄で捕まった政治犯の釈放、朝廷の人事権に対する干渉、代々天皇家の山稜を修復する山稜奉行・京都の治安を維持する京都守護職の設置など飴と鞭の政策を巧みに使い分けるものであった。一方、幕府自身に対しても旧習を廃して改革を進め、参禁交代制度を緩和した。 以後も将軍後見職として活躍したが、いよいよ公武合体に全力を注ぐべく元治元(1864)年三月二十五日、将軍後見職を辞めて禁裏後守衛総督となり、諸藩の兵を統率した。禁門の変に際しては幕府軍の総指令官としてよく戦ったと云える。しかし、 一橋慶喜はやがて将軍となると、今度は自慢の洋式部隊を活躍させる事も無くあっさりと幕府を滅亡させた。 |
一橋家組織図
| 役職 | 氏名 | 備考 |
| 当主 | 一橋慶喜 | |
| 側用人首席 | 平岡円四郎 | 元下級幕臣。慶喜が家督を継ぐ際に特に水戸斉昭からの推薦で抜擢された。実務に堪能で、良く慶喜を助けたが、元治元年五月十五日、京都で水戸藩士により暗殺された。一説に依ると、池田屋事件の報復とも。 |
| 側用人次席 | 黒川嘉兵衛 | 温厚な人物で、上下の調整役。 |
| 御用取次役 | 原市之進 | 慶喜の腹心。非常な切れ者で有ったと云う。 |
| 軍役所調役組頭 | 渋沢成一郎 | 豪農の息子で、尊皇攘夷運動に参加していたが、平岡の抜擢に依り一橋家に仕官。維新後は彰義隊頭取となったが、恭順を唱える渋沢ら一橋家家臣に対して幕臣は徹底抗戦を主張したので、上野を脱出。箱館まで転戦の後官軍に恭順し、明治時代には実業家として財産を築いた。 |
| 勘定組頭 | 渋沢栄一 | 成一郎の従弟で、常に行動を共にしていた。主に京都で情報収集に当たり、時には新選組と行動を共にする事も有った。慶喜の将軍就任後、パリ万博に出向。帰国後は明治最大の実業家として名を馳せた。 |
*京都市中巡回警備配置図
| 担当 | 所属 | 兵力 |
| 市中見回 | 新選組 | 2組24名 |
| 市中夜警 | 会津藩兵 | 2組60名 |
| 桑名藩兵 | 1組20名 | |
| 御築地及び寺院巡邏 | 一橋総督付き諸藩兵 | 800名 |
| 牀几廻 | 100名 |
原 市之進
思想:佐幕/攘夷
生没年:天保九(1838)年一月六日〜慶応三(1867)年八月十四日
出身:百五十石取水戸藩士原雅言の次男。
性格・容姿:冷静沈着で頭が切れ、律儀で理屈好き。「一橋慶喜の懐刀」と呼ばれた。但し勝海舟とは仲が悪く、その著書等で手酷い批判を受けている。これは、思想的に対立していたと云う事情も有るが、どうも勝が低い身分の時に原が虐めたのが原因らしい。やや狭量な性格と言うべきか?
経歴:諱は忠成。幼少時には水戸弘道館、青年期には江戸昌平坂学問所で学び、長じて後水戸に帰郷して弘道館の訓導(教官)となった。そして幕末には、水戸随一の学者と謳われるほどになっていた。
水戸藩では尊王派の中でも過激な「激派」の頭目として、戊午密勅事件では鎮派(穏健派)の武田耕雲斎と激しく対立した。
文久二(1862)年十二月、水戸藩主の実弟である一橋慶喜が将軍家茂に従って上洛する事となったので、水戸藩では一橋慶喜を警護する為に水戸藩士を派遣する事になった。この時派遣されたのは、原・梅沢孫太郎・舵清次右衛門ら八人の水戸藩士で、原は元より他の者も皆武芸練達で尊皇攘夷の志の厚い武士で有った。ところが、開明的な慶喜の見識に触れる内に原と梅沢は尊皇攘夷思想から開国思想に転換。特に原は僅か十日で思想を変えたと云われている。
元治元(1864)年、慶喜に心酔した原は水戸藩より一橋家に移り、一橋家御側御用取次役に就任した。以後慶喜のブレーンとして、特に慶喜の腹心である平岡円四郎が暗殺されてからは側近筆頭として活躍した。また、友人には佐々木只三郎が居り、彼を通じて見廻組に倒幕派の暗殺等を依頼していたと云われている。
しかし、幕府が天狗党を壊滅させ、原の友人・一族を多く処刑すると、急激に幕府を維持する意欲が低下してしまったらしく、以後は一橋慶喜の権力維持を重視し、旗本廃止論等過激な改革を主張して幕閣とは対立する事が多くなった。その為、兵庫港開港に際して積極的に推進したと云う名目で、幕臣から命を狙われるようになってしまう。
慶応三(1867)年初頭、目付に昇進するが、八月に暗殺された。
新門 辰五郎
思想:佐幕/攘夷
生没年:寛政十二(1800)年〜明治八(1875)年九月十七日
出身:江戸下内掃除町の煙管職人中村金八の長男。
性格・容姿:。
経歴:江戸で徒弟を七人ほども持つ職人の家に生まれ、金太郎と名付けられた。
九歳の時父親が失火で近隣を焼いてしまい、それを苦にして自殺した。以後、金太郎は火を憎む事甚だしく、十五歳の時十番組「を」組289名の頭であり、上野輪王寺の衛士を兼任する町田仁右衛門の元に身を寄せた。そして十九歳にして町田の娘・錦と養子縁組を結び、二十四歳で町田の後を継いで頭領となった。以後、九州柳川藩の抱え火消が「を」組の纏を捨てて自家の纏を立てた際には単身柳川藩邸に乗り込んで謝罪させ、柳川藩士達から「火消しには惜しい男」と賞賛される等活躍した。
こうして名声を博した辰五郎は四十歳頃火消十番組の頭取に命ぜられた。これは、「を」組のみならず「と」組(213名)・「ち」組(121名)・「り」組(78名)・「ぬ」組(75名)・「る」組(155名)計731名を統率し、浅草・上野界隈の広範囲な地域を管轄する大親分であった。またこの他にも、浅草寺掃除方を兼任し、境内の香具師・大道芸人を支配して収入を得ていた(これは、上野の山中で借金を苦に首を吊ろうとしていた男にそっくり財布を渡して助けた事が機縁で、上野大慈院別当覚王院義寛に気に入られ、掃除方を任される事になったらしい)。この収入は大きく、毎日の上がりを無造作に押入れに投げ込んで行ったら、その内重みで床が抜けた程であった。
また、この頃浅草寺「新門」の門番も任され、以後「新門の辰五郎」と名乗るようになった。
寛永四(1851)年春、辰五郎は浅草寺で乱暴を働いた田舎侍を取り押さえた。実は彼らは一橋家の家臣で、辰五郎は無礼のかどで一橋家に呼びつけられた。辰五郎は御三卿一橋家でも全く物怖じせず、白刃を以って迫られても謝罪しなかったので、却って当主の一橋慶喜に感心され、交誼を結ぶ事となった。
文久二(1862)年十二月、将軍上洛に従って上京する慶喜は辰五郎の娘お芳を側室に迎えた。以後、慶喜は辰五郎を「おやじ」と呼んで慕った。
更に二回目の慶喜の上洛に際しては、京都の政情が不安定なのに鑑み、十番組を後添いのぬいと息子の仁右衛門に任せると、子分200名を率いて慶喜と共に上洛した。
京都では河原町二条下ルに居を構え、豊富な資金力と命知らずの火消し達を使って慶喜の警護や情報収集に活躍した。また同じ関東者である新選組と意気投合し、特に土方歳三とはしばしば世間話に興じる仲であったとも……。
禁門の変に際しては、戦後復興に尽力。特に鳶職出身の多い火消しは京都の復旧に活躍した。
こうして辰五郎は慶喜を助けて活躍したが、栄誉や褒賞は決して受けず、慶応三(1867)年には旗本取立てを辞退している。
慶応四(1868)年の鳥羽伏見の合戦に際しては、大坂城に詰めて慶喜の警護に当たったが、慶喜はお芳と奥女中数人、松平容保・定敬兄弟を従えて軍艦開陽で江戸に逃亡したので、火消し200名を率いて紀州に逃れ、当地で軍艦翔鶴丸に搭乗して江戸に帰還する事となった。しかし、此処で権現様以来の「大金扇の馬印」が大坂城内に置き捨てられている事を知り、火消しを翔鶴丸に載せると自らは十五名の子飼いの子分を引き連れて大坂城に駆け戻った。
大坂城には幕府軍によって地雷が設置されており、これを警戒して薩長軍は敢えて大坂城に踏み込まなかった。しかし、そうとは知らない愚かな大坂町人らは略奪の為に大坂城に大挙して侵入。大坂町人は地雷によって多くの死傷者を出し、大坂城内の建造物は殆ど焼失してしまった。辰五郎らが駆け付けたのは正にその炎上の真っ最中であったが、そこは火消しの辰五郎、火をものともせず城内に駆け込み、見事馬印を奪還した。そして陸路東海道を走破して江戸に帰還し、慶喜に馬印を返還すると云う偉業を成し遂げた。
その後も幕府方に肩入れを続け、勝海舟に頼まれて江戸市中に火を放って官軍を混乱させると云う焦土作戦を企画した。この計画を聞いた西郷隆盛ら官軍首脳は慄然とし、慌てて勝の提示した江戸城無血開城に同意した。更に上野戦争でも彰義隊に味方し、米俵を山内に運び込む等助力を惜しまなかった(尤も、この米俵は連日の雨ですっかり腐ってしまい、土を入れて運ぶ段になって山門の石段から転がしたところ、縄が切れて土を吐き出してしまって当日は何の役にも立たなかったらしい)。
明治維新後は静岡に隠居した慶喜に従って駿府に住んだが、やがて江戸に戻って明治八年九月十七日、享年七十七で老衰死した。
本圀寺組 隊長 大場一真斎・鈴木縫殿 所在 本圀寺 隊論 尊王〜公武合体/攘夷 新選組に
対する態度天狗党の系譜を引いているので、天狗党同志芹沢鴨らを斬った新選組に対しては敵対的。実際、慶応元(1865)年十一月十六日には番士の制止を聞かずに強引に本圀寺構内を通過した新選組隊士が居て問題になっている。 藩士 兵数300〜400名。水戸浪士が多いが、百姓町人も多かった。 経歴 一橋 水戸浪士の一派で、一橋慶喜の私兵。
元来は、藩内で追いつめられつつあった天狗党を救う為、一橋慶喜を担ぎ出そうと上京した大場一真斎と鈴木縫殿を中心とした尊王派水戸藩士であったが、水戸では佐幕派「諸生党」が政権を握り、京都では慶喜にあしらわれ擁立に失敗して、帰るに帰られなくなってしまった。其処で、水戸藩と縁の深い本圀寺に寄食する一方、給与を一橋慶喜に仰いだ。この為、本圀党は本来の目的に反して一橋慶喜の私兵と化した。
個人で動かせる戦闘能力に限界のあった慶喜は彼らを多用し、天狗党が上洛を目指した際には、此の迎撃部隊の先鋒として派遣された。
しかし、天狗党は元々幕府を助けて攘夷を行うか、幕府を倒して朝廷の元で攘夷を行うか今一つ不明確な部分が大きく、幹部らも長谷川作十郎の様に会津藩・桑名藩らの佐幕派に近付いた者も居れば、山口徳之進らの様に長州藩・土佐藩の尊王派に近付く者もまた多かった。また、新選組芹沢鴨とも同じ天狗党出身と云う事で関係が深く、京都でもしばしば連絡を取り合っていたと言われている(本圀寺組ではないが、鴨の親類に当たる水戸藩士芹沢又衛門らが在京している)。
大政奉還後、慶喜は二条城の守備を本圀寺組に任せた。此は、迂闊に会津藩や桑名藩を二条城に入れては、暴発して薩長との戦闘になるのは目に見えていたからである。結局、此の心遣いは無駄に終わってしまい、鳥羽伏見の戦いが起こってしまうのだが、その後の本圀寺組は却って慶喜のくびきを離れて朝廷に附属し、水戸藩を尊王派に転向せしめよとの命令を受けた。
水戸に下った本圀寺組は藩政を牛耳り、反対派を尽く斬って粛清した。