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第弐章 支援組織

 

大坂町奉行
奉行 東町奉行:有馬出雲守則篤 等
西町奉行:松平大隅守信敏
奉行所 東町奉行所:京橋口門外
西町奉行所:本町橋東詰
新選組に
対する態度
協力的
経歴  1000石以上3000石以下の旗本から2名が任命され、東西に分かれて月毎に交代で勤務した。大坂城代の監督を受け、大坂の市政・裁判・警察を司り、摂津・河内・和泉・播磨の徴税を行う。老中の支配下にあり、東西奉行所でそれぞれ与力30騎、同心50人を配下に置いている。
 与力は蔵米80石、同心は蔵米10石三人扶持。江戸町奉行所の与力・同心よりもそれぞれ可成り低い。それぞれ地付で、奉行所間での転勤は無かった。その為に縄張り意識が肥大化し、東西町奉行所の与力・同心はお互いに憎み合う程に仲が悪かった。
 大坂町奉行所に於いて市中を巡回したのは盗賊改方与力と定町廻与力であり、これに同心が二〜三名付随した。勿論これだけでは大坂の治安を守るには人手不足なので、目明しの類を使わざるを得ないのだが、大坂には岡っ引きは居らず、その代わりに天満・天王寺・千日・鳶田の4ヶ所に住む穢多・非人各50名が「四ヶ所」と呼ばれる捕吏として代々動員された。四カ所には非公式に十手と長刀の所持が認められた。これらは江戸の岡っ引きと同様に裏社会に通じて盗賊の捕縛に役立ったが、やはり江戸の岡っ引きと同様に御上の権威を借りて横暴に振る舞い、人々に嫌われた。

 幕末においては、世情の騒然成るに鑑みて与力・同心に多少の増加が認められる一方、大坂力士達に八角棒を供与して治安維持に協力させた。
 新選組設立後、多くの浪人が京都を逃れて大坂に住むようになると、新選組に依頼して大坂の警備を担当して貰った。その一方で新選組の横暴を強く非難し京都守護職に抗議したが、文久三(1863)年五月二十日、天満橋上で与力内山彦次郎が沖田総司、原田左之助、永倉新八、井上源三郎らに暗殺されると、以後は新選組を恐れて協力的になった。
 しかし、その屈辱の為と云うわけでも有るまいが、明治維新後は逃げ去った大坂城代・大坂定番・町奉行等の歴々を後目に与力達は早々に新政府に恭順。
浪速隊と呼ばれる警察部隊を編成して協力した。

 

転任期日 東町奉行 西町奉行
文久元(1861)年五月 川村壱岐守修就 鳥居越前守忠善
文久三(1863)年五月 有馬出雲守則篤 松平大隅守信敏
元治元(1864)年六月 堀伊賀守利孟
同年八月 竹内下野守保徳
同年九月 古賀謹一郎
同年九月 松平駿河守乗模
慶応元(1865)年七月 井上備後守義斐
慶応二(1866)年二月 中川備中守忠道
同年六月 竹内大隅守  
慶応三(1867)年正月 平岡越中守準
貝塚彦之進
典直
同年正月 小笠原伊勢守長功
同年十二月 松平壽太夫
明治元(1868)年正月 松平大隅守信敏
明治元(1868)年二月 廃止 廃止

内山 彦次郎
思想:中立/中立
性格・容姿:傲岸で、保守的。廉潔の士で、如何に上役や知人が公務の外で私的に頼み事を持ち込もうとしても、「明日役宅で伺います」と断って賄賂を受け取らなかった。また経済学者としても名高かった。
特技:算術
階級:大坂西町奉行所与力→与力諸御用調役(与力筆頭格)→勘定格(旗本、焼火間詰。百五十俵高)
経歴:代々大坂町奉行所与力で、天満四軒屋敷と言う役宅で生まれた。
 天保の改革の際、派遣された東町奉行所与力跡部山城守良弼に協力し、改革に尽力した。改革の内容は、主に西町与力と東町与力の対立解消、大坂市場の米を江戸に回送する事、等であった。しかし、これらの改革は東町与力大塩平八郎に反対された。大塩は、先ず跡部が自分の配下である東町与力を信用せずに西町与力を重用する事に反発、更に大坂に餓民が居て此を救済する事が大坂町奉行の本務である事等を述べ立てたが、跡部は天保の改革の推進者水野忠邦の実弟であり、改革を後退させる此の意見に賛同出来る筈がなかった。結果、大塩は有名な「大塩平八郎の乱」を引き起こし、大坂城下は火の海となってしまう。
 反乱が勃発すると、内山は跡部に従って鎮圧に出動。砲撃に驚いて無様に落馬してしまった東西町奉行を後目に、見事に馬を御しながら「首謀者の大塩中斎は既に召し取ったぞ!」と虚報を叫んだ。此によって大塩軍と合流しようとする貧民は意気消沈して解散した為、反乱は拡大しなかった。こうして戦功があったにも関わらず
(あったが故に?)却って庶民の人気を失い、町奉行跡部は江戸に米穀を供給した功績で栄転したのに、内山自身には何の報償もなかったと言う。
 その後、年功により与力筆頭格である与力諸御用調役に昇進。文久元(1861)年には老中から経済官僚としての腕を買われ、勘定格に昇進。勘定格は勘定奉行配下の役職で、定員120名。下級とは云え旗本の職務で、内山も旗本の待遇を得て将軍家茂に御目見えした。与力としては破格の昇進であるが、こうした破格の、しかも遅れ馳せの褒賞が、後に近藤に対して高圧的な態度を取る遠因になったのかも知れない。
 文久三(1863)年七月十五日、新選組が大坂で力士を斬ると、内山は局長近藤勇を呼び出して詰問した。近藤が武士の特権である無礼打ちを理由にすると、内山は無礼打ちも正当な理由もなく行ってはならない、と釘を刺した。近藤は、尚も食い下がる内山に、文句があるなら会津藩に掛け合え、と捨て台詞を残して逃げるように立ち去ったが、此の待遇は自身を武士として任ずる近藤らには耐え難い物でったらしく、翌元治元(1864)年五月二十日に暗殺を決行した。
 此の暗殺行は近藤が自ら赴き、配下には土方、沖田、原田、井上、島田ら10名を率いた。内山も用心を怠らず、自宅の警備を厳重にして、掛け軸の裏側に隠し通路を造っていざと云う時に備えた。また、奉行所への往復路でも剣客と相撲取りを一名ずつ駕籠脇に配し、万全を期した。此らの情報を入手した近藤は、奉行所から自宅への帰り道の天神橋で待ち伏せを行った。此の待ち伏せは図に当たり、用心棒二人は驚いて逃げ出し、此処に内山は死亡した。近藤は、死体の上に「天下の義士、此を誅す」と口上書きを残して立ち去った。この口上書には内山以外にも彼に賛同する同僚の八田五郎左衛門や、内山の後継者と目された大森隼太らの西町与力の名前も挙げられており、二人は恐怖の余り乱心してしまい、他の与力同心も恐れ戦いたと云う。以来、新選組の大坂に於ける探索、金策は留まるところを知らず、住民は大いに迷惑を被る事になった。

 但し此の暗殺には異説もある。「平野屋日記」では内山は酷い汚職官吏で、与力の立場を利用して米を買占め、菜種油にも一樽に銀二匁ずつ口銭(マージン)を取っていたので、庶民から恨まれていたと云う。その為、内山が死亡すると油の価格が銀十三匁余だったのが七匁余に値下がりした(野口武彦『新選組の遠景』)
 更にまた一説が有る。新選組は内山が幕府与力で有りながら新選組に敵対するのを訝しみ、監察方を用いて彼の身辺を調査した。すると、彼が尊王派に通じて大坂の米市場を操作し、米価を吊り上げて世情の混乱を計っていた事が判明したので、新選組が天誅を下したと云うのである。此方の説では、内山の死によって高騰していた大坂の諸物価は沈静化し、此の影響は江戸にまで及んで天下は再び安寧に戻ったとさえ云われているが、真相は定かではない。

 他にも土佐藩浪士で後の海援隊士である中島作太郎らによる暗殺の説まであるとか。


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