| 薩摩藩 | ||
| 藩主 | 島津忠義 | ![]() |
| 藩公 | 島津久光 | |
| 所在 | 薩摩・大隅 | |
| 石高 | 77万石(内琉球12万石、日向佐土原2万7070石) | |
| 本拠地 | 鹿児島鶴丸城 | |
| 京都藩邸 | 錦小路藩邸 二本松藩邸 聖護院 小松原藩邸 伏見藩邸 |
|
| 京都拠点 | 東桐院蛸薬師下るの町家 西陣浄福寺客殿・本坊 |
|
| 藩論 | 尊王/開国 | |
| 新選組に 対する態度 |
下級武士は新選組を見つけ次第挑戦する。上級武士は無視する。何れにせよ薩摩藩は表向きは幕府と結び、裏では尊王派と結託している、新選組にとって最も危険な敵である。 | |
| 藩士 | 藩士は城下士、外城衆、家中士の三者に別れている。 上級武士である「城下士」は鹿児島城下に居住を許され、人数は四千三百人、禄高は平均七十八石五斗。城下士は最上級の一門衆四家から一所衆、一所衆格、寄合、寄合並、無格、小番、新番、最下級の御小姓組に分けられている。 「外城衆」は城下以外の百十余ヶ所の各郷に集住し半士半農である郷士であり、約二万三千三百人、平均石高は僅か四石七斗。城下士は外城衆を、一日武士をしては一日畑を耕す事から「一日兵児(ひしてへこ)」と蔑称した。 「家中士」は城下士の中でも大身で、所領を与えられている家老クラスである「一所衆」に仕える陪臣であり、約一万百人、平均石高は四石で外城衆よりも更に格下とされた。これら身分制は絶対であり、家中士・外城衆は城下士に対して絶対服従しなければならない。 薩摩藩の伝説的英雄島津義弘の遺言によって国境を閉鎖し他国の文化の流入を防いだ薩摩藩は戦国時代の気風を残した独特の風習を持つ。即ち鉄砲鍋や肝取り等であり、これらの「肝試し」で生命を軽んじる様になった彼ら薩摩藩士はすぐに切腹する事で有名である。即ち上司が「おまえの罪は死罪に値する」と宣言すると、その藩士はまっすぐ家に帰ってすぐに切腹し、議論に負けそうだと言っては切腹する…ちょっとおかしい。彼ら基本的薩摩武士の服装は筒袖に短い袴を履くいわゆる「兵児」スタイルである。また皆月代を広々と剃っており、豪傑ぶりを示している。彼らはまた朱鞘の長刀をよく用いる。薩摩藩の御家流は実戦剣技「示現流」と火力を重視した兵法「合伝流」である。この独特な剣術・砲術、そして恐ろしいまでの命知らずが、薩摩隼人を天下最強の兵士にしているのだ。他にも、薩摩は名馬の産地だが指揮官以外は馬に乗らず、一軍皆徒歩で駆けると言う特殊な軍制を持つ。 藩校は「造士館」であるが、薩摩藩士は学問よりも勇敢さ、弱者に対する労りを重要な徳目としており、彼らが議論を行う事はまず無い。 薩摩藩では戦国時代初期以来一向衆を禁止している為、一向宗徒はおらず、極端な偏見を以て見られている。 この様に保守的な教育を受けながら、薩摩藩士は攘夷主義に拘らず、早くから西洋の武器と戦術を採用し、逸早く軍制を改めている。特に高禄の藩士の禄高を削り、下士の禄高を増やして藩内の禄高を平均化して優れた銃士を多数得ようと云う「高直し」は効果的で、戊辰戦争では旧態依然たる会津藩を圧倒する士気を示した。 また薩英戦争に於て手痛い打撃を被った経験から火力を重視し、大量の洋式大砲を装備していた。 愛刀は「波平派」。 |
|
| 組織 | 薩摩軍は歩兵については100名の小隊が軍隊の最大の単位で、各々出身に応じた名称を冠している。例えば精鋭部隊は小銃○番隊、上士である城下士から成る部隊は城下△番隊、下士である外城士(郷士)から成る部隊は外城□番隊、一門衆、家老等が供出した部隊は私領×番隊、と言う様にである。砲兵については、兵70名・砲6門で1個砲隊を編成する。 また4小隊程度毎に「差引」と呼ばれる臨時指揮官に率いられている。差引は余り自分の意見を言わず、どっしりと構えて統率に当たり、戦術は小隊長の合議に任せる。一般に薩摩隼人は無口なので、会議はさっさと終わり、すぐに戦に取り掛かる。戦闘になるや、薩摩藩士は「薩摩の立ち撃ち」と呼ばれる様に物陰を余り利用せず立って銃撃を行い、少し銃撃して敵の銃火が弱まるとすぐに抜刀突撃に移る。その戦振りは正に幕末最強で、戊辰戦争・函館戦争・西南戦争に於て遺憾なく発揮された。 なお、鳥羽伏見の戦い当時の指揮系統は以下の通り。 方面軍司令官−差引−小隊長−監軍−半隊長−分隊長−小頭−小頭見習 |
|
| 経歴 | 薩摩島津家は鎌倉時代に遡る名家だが、薩摩藩主島津氏の祖は戦国時代の傍流島津家の島津貴久であり、実質的な開祖はその嫡子義久である。77万石の外様大大名であるが、その領土は徳川家から貰った物ではなく自ら得たものであるため、徳川家に対して反抗的な藩である。特に琉球を通じて諸外国の動静も知っているため、幕府を軽視しがちであった。しかし江戸時代後期、この琉球を通じての貿易によって薩摩藩の財政は傾いてしまう。藩主島津重豪の蘭学趣味は薩摩藩の財政を圧迫、大量の借金を残した。これを処理したのが調所広郷である。彼は砂糖の専売強化や借金の踏み倒しで辛うじて財政を立て直し、また備蓄を増やすことに成功した。「高直し」の制度もこの頃に制定されたものである。しかし、調所は保守派であったので改革派の策謀で自害に追い込まれ、政権は新藩主島津斉彬が掌握した。将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持して活躍したが、失敗して薩摩に帰った。そして倒幕を企てたが病死した。斉彬は幕末最高の明君で、西郷隆盛等も彼に見いだされて初めて世に出る事が出来た。また集成館という軍事工場を造り、洋式火砲を製造した。 斉彬の後は甥の忠義が藩主となったが実権はその父久光が握っていた。久光は保守的な尊王派で、尊王派志士達と対立、寺田屋事件を引き起こしたり西郷を度々遠島にしたりした。しかし、後に寵臣大久保一蔵の策によって操られ、知らず知らずの内に薩摩藩は倒幕の中心として活躍していた。また、久光は頑固な攘夷主義者で生麦事件を引き起こしたが、薩英戦争でイギリスの強さを知るとすぐに友好関係を結んだ。 幕末には国元で大久保が藩政改革を行い、京都で西郷が軍事・外交を務める両極体勢が成立、その情報伝達には汽船を用いると言う画期的な発想で他の藩を圧倒する活躍を見せた。最初は公武合体派として朝廷に近付いたが、長州藩に朝廷工作で不利になるや今度は佐幕派の会津藩と結んで長州藩を追い落し、更に幕府を説いて長州征伐を行わせ、その最高指令官尾張藩主徳川義勝に取り入って意の侭に操った。そして弱った長州藩と同盟して薩摩主導の内に明治維新を達成した。 こうして薩摩藩は明治維新の主役として活躍したが、薩摩の強さは戦国時代さながらの保守的な支配体制にあり、新政策を次々と打ち出す明治政府と対立を深め、ついには西南戦争を起こして崩壊する。 |
|
文久年間の薩摩藩組織
藩主 島津忠義 藩公 島津久光 頑迷な保守主義者。大の西洋嫌い。藩の実質上の支配者。西郷とも不仲。 藩公側近 島津又七 永吉郷四千四百石領主。砲術に精通し、在京尊王派の代表。 有村俊斎 海江田次郎信義。直心影流の達人。久光に忠誠を尽くす。 内田政風 有能な官僚。 堀次郎 有能な外交官で、剣術の達人。 支藩 島津忠寛 日向佐土原二万七千七十石藩主。尊王開国派、洋式兵学に精通する。 東目海岸防御総督 島津久静 都城三万九千六百石領主。伏見藩邸に4個小隊(三百人)で駐屯。諜報活動を行う。 西目海岸防御総督 島津久治 久光の次男、宮之城一万五千七百五十五石領主。斉彬に心服し、軍事的才能もある。 軍役方 島津久芳 黒木郷三千石領主。小姓与頭を兼任する。海軍創設に尽力。 城代家老 島津左衛門 日置六千五百六十四石領主。西郷ら改革派の代表。 島津豊康 加治木一万石領主。保守派の代表。勇将。 家老 島津主殿 島津登 東北戦線で活躍。 島津備後 久光の三男。重富一万四千石領主、京都家老。倒幕派、鳥羽伏見戦の薩軍総督。 島津伊勢 新進気鋭の尊王派。 島津久容 保志郷二千八百石領主。小姓与番頭、2番大隊差引。勇将。 町田民部 桂右衛門 仕置家老 小松帯刀 若く有能な政治家。尊王派。 家老加半役 桂久武 親西郷派の人格者。尊王派。 軍賦役兼諸藩応接役 西郷吉之助 周旋方 海江田武次 示現流の名手。京都詰め。 大久保一蔵 国元担当。 高崎佐太郎 諱は正風。和歌の名人。弁論にも長けており、八月十八日の政変で会津藩と同盟を締結する際の使者となった。 寺島宗則 漢学に長じる。古武士のような人物。 奈良原喜八郎 繁。示現流の名手で寺田屋事件で活躍。久光に忠誠を誓う。 吉井幸輔 伏見藩邸在勤。有能な軍人。 大坂留守居役 木場伝内 伏見留守居役 大山成美 彦八(大山家の世襲名)。大山巌の兄。維新後、埼玉県大参事となるも早世。 江戸留守居役 篠崎彦十郎 三田薩摩藩邸に勤務。焼き討ち事件で庄内藩士に討ち取られた。 御蔵役 税所篤 大坂藩邸詰。財政に明るい。尊王派。 勘定方 松方正義 経済に明るい。阪神タイガースの生みの親。 軍役奉行 伊地知正治 慎重派の有能な軍学者で、西郷の信任厚い軍師。後に寡兵で白河城を落とした。 島津式部 参謀 大山格之助 綱良。有能な官僚・軍人。示現流の達人で薩摩でも一二を争う。 有馬藤太 薬丸自顕流の名手。豪快な武人だが、理屈屋でもある。 椎原小弥太 鳥羽伏見の戦いの際、滝川播磨守とやりあった。 相良治部 京都浪士取締方 中村半次郎 江戸浪士取締方 益満休之助 江戸滞在期間が長く、スマートな江戸弁を話すやり手のエージェント。 伊牟田尚平 元山伏で、苦学して医師となり、郷士身分を入手。それでも薩摩藩では差別されたので、更なる昇進を狙って居た。
京都駐屯軍 小銃一番隊 鈴木武五郎 小銃二番隊 篠原国幹 無口で人望の厚い武人。 小銃三番隊 辺見十郎太 小部隊指揮の天才。単純な薩摩隼人。 小銃四番隊 川村与十郎 純義。機敏で小隊戦術に長じている。 小銃五番隊 野津鎮雄 優れた指揮官。 小銃六番隊 市来勘兵衛 砲隊長 大山弥助 巌。砲術に精通した有能な軍人。 小銃 20個小隊 砲兵 3個小隊 全部隊合計2000名
常備兵力 1万7099名(歩兵151個小隊・砲兵12個小隊) 小銃 2万1432挺(スペンサー騎兵銃1500挺・ドライゼ小銃4267挺・ライフル銃1万6015挺) 大砲 278門(4斤山砲96門・臼砲14門・24ポンド沿岸砲40門・60ポンド沿岸砲34門他)
西郷吉之助
思想:尊王/開国
能力値
筋力:5
器用:2
敏捷:2
知力:6
抵抗力:3
外見:6
技能:剣術(3)、剣技/示現流(初伝目録)、国学(8)、交渉(13)、兵学(3)、精神抵抗(8)
生没年:文政10(1827)年12月7日〜明治10(1877)年9月24日
出身:薩摩藩鹿児島城下甲付川ほとり加冶屋町出身の郡奉行出仕書役、即ち藩役人の中でも最下級の役職。
容姿・性格:身長5尺8寸、体重27、8貫。大変太っており、丸い顔をしている。目は大きく、知的な輝きがある。性格は捕らえ所がなく、無邪気な誠実さと辛辣な策略を同時に併せ持つ。冗談好きで、聞き上手の大度量の人物。そして何より人望があり、多くの薩摩藩下級武士、尊王派志士達から大きな支持を得ている。
階級:書役→御庭番→側役→新政府参与→大総督参謀→参議筆頭・近衛都督・陸軍大将
経歴:薩摩藩下級武士だったが、藩主島津斉彬にその才能を認められて御庭番に任ぜられ、直々に世界情勢、洋式兵学、政治思想等を学んだ。そして斉彬の信任を受けて江戸・京都で公武合体運動に活躍した。しかし、斉彬が病死し、また安政の大獄が始まると、幕府を恐れた薩摩藩保守派の手によって島流しにされた。その後も薩摩藩の実力者島津久光と意見が合わず度々左遷されたが、盟友大久保一蔵が久光に取り入って、久光を宥め透かして倒幕運動に薩摩藩を引きずり込むと、西郷はその責任者として京都に駐在、幕末の複雑な薩摩外交は全て彼の方寸による。
その後も新政府の重鎮として、東征軍の総指令官に就任、江戸城無血開城を成し遂げた。維新後は明治政府の最高実力者の一人となったが、決して奢らず、人々の熱狂的な信望を集めた。そして士族救済の為、自分の死に場所を得る為征韓論を唱えたが、採用されなかったので辞職した。その後薩摩に帰国して「私学校」を設立して武士道の保存や士族の救済に務めた。しかし、彼が不平士族の人望を集めている事を恐れた明治政府は彼と私学校生徒を挑発して、反乱を起こさせて鎮圧せんとした。この策が当たって明治10年に薩摩士族の一部が暴発、それに引きずられるようにして西郷も決起、ついに西南戦争が勃発した。しかし、戦略家としての西郷は無能であり、薩摩隼人の武力で善戦したものの、やがて追い詰められて薩摩城山で戦死した。
中村半次郎
思想:中立
能力値
筋力:6
器用:5
敏捷:4
知力:4
抵抗力:5
外見:5
技能:剣術(8)、剣技/示現流(奥義)、銃器(6)、和式砲術(4)、捜索(6)、兵学(5)、肉体抵抗(3)、精神抵抗(2)
*剣術は幼少時を西田町にある薬丸自顕流・江夏仲左衛門(一説には示現流伊集院鴨居道場)で学び、以後独学。歩き足のまま抜刀、斬撃し、相手を倒した後もそのまま歩いて立ち去る独特の居合術を使い、数多くの佐幕派を斬って「人斬り半次郎」の異名を取った。また雨垂れが軒から落ちるのに合わせて居合を行って、鞘に納める事を3回までも出来たと言う。
*其の一方で、薩摩に伝わる合伝流で火縄銃も巧みに扱う。
生没年:天保9(1838)年〜明治10(1877)年
出身:薩摩国鹿児島郊外吉野郷の極貧郷士。
容姿・性格:鼻が高い、西洋人じみた、精悍な美男で、酒楼で芸妓によく騒がれた。性格は明朗快活、全ての薩摩人が認める「勇敢」さを持ち、爽やかな人柄。学問はほとんど出来なかったが、別にそれを恥とせず、堂々と振舞った。また天性の勘の良さを持っている。しかし、勇敢過ぎて根本的に思慮の足りないところもあった。西郷吉之助に私淑し、絶対的な忠誠を誓う。
階級:浪士取締方→小隊長→陸軍小将
経歴:元は極貧郷士であったが、西郷にその人柄を認められて上京。当初錦小路藩邸に入ったが、後に二本松藩邸に移動。
学問はなかったが勘は鋭く、人に学問が無い事をからかわれると「おいに学問があったら天下を取っちょる」とうそぶいていた。それにしても大変に無学で、他の藩の者と話す時にも「尊藩(あなたの藩)」を「損藩」で自分の藩の事を遜った言い方だと思ってしきりと自藩の事を「ソンパン、ソンパン」と繰り返して相手をたじろがせた事もあった。また、「天皇陛下」を「天皇階下」と言い間違えたりしていた。幾ら何でもこれでは京都に集まっている諸藩の切れ者に会わせる訳には行かなかっただろう。結局、中村は用心棒として西郷の身辺を固める事になった。
転機となったのは、天狗党の乱である。西郷から天狗党に「戦闘を回避し、真っ直ぐ上洛するように」と助言する様に命ぜられ、中村は天狗党に接触。しかし、天狗党では先の桜田門外の変に際して薩摩藩が裏切った事から薩摩を信用する事が薄く、逆に斬られそうになってしまった。中村は辛うじて脱出したが、帰京後は西郷に的確な報告を行い、その才能を認められた。以後、西郷の警護に加えて薩摩藩に出入りする浪人との折衝を任され、京都の政界では多少知られた人物となった。しかし政治活動をするようになっても、西郷の為にならない人物を暗殺し続け、「人斬り半次郎」の異名を持って新選組にまで恐れられた。そしてしばしば新選組と戦闘を行い、その都度勝ちを納めてきた。
鳥羽・伏見の戦いに際しては兵卒として参加したが、隊長の死後、拙差に指揮を引き継いで部隊を支え、戦後正式に指揮官に任ぜられた。以後、累進を重ね、会津降伏を受け入れる際にはその最高責任者となった。明治政府では陸軍少将に任ぜられ、征韓論をかかげ過激な言説を行ったが、その軽快な世界情勢講釈は聞く者をして酔わしめたという。西郷が辞職するとこれに続いて惜しげもなくその地位を捨てて西郷に追従、薩摩に住んで雌伏した。そして、やがて西郷を担いで西南戦争を起こし、西郷に従って城山で戦死する。
糾合所屯集隊 隊長 相楽総三 所在 薩摩藩三田藩邸 新選組に対する態度 出会う事が有れば、敵対的。 隊士 200〜500名。質は玉石混淆で、プロの扇動家、平田派国学者、水戸天狗党残党、単なる不平屋から無頼の輩、一旗組まで多様な人材を揃えている。一応略奪暴行を禁じ、規律違反者には斬首を以て対応していたが、入隊脱退が自由で身元も深く詮索しなかったので、実際には野放し状態。
装備は様々だが、拳銃や短筒に加えて小銃まで持ち出す者も居た。経歴 王政復古直前の1867年、西郷隆盛は江戸に薩摩藩士益満休之介・伊牟田尚平を送り込んだ。両者の使命は江戸市中の攪乱と、関東一円での農民反乱の誘発であった。江戸に入った益満・伊牟田は早速旧知の古参志士・相楽総三に斡旋を依頼した。相楽は地元の縁故を辿って武州の志士を糾合する一方、毎夜一人で出歩いては目ぼしい者に喧嘩を吹っ掛け、これを打ち倒しては金子を与え、「お前は見所が有る」等と称して人材を集めた。こうした人材募集の結果、薩摩藩邸には浪士500名が結集したので、薩摩藩では彼らに食事や金子を与えて「糾合所屯集隊」を編成した。
彼らは先ず江戸市中で佐幕派富商から「御用盗」を働いたり、各所の幕府歩兵屯所を襲撃したりと江戸幕府を執拗に挑発した。次いで関東一円を遊説し、栃木・八王子・小田原方面で扇動した。特に野州出流糾合隊は同志五十名を得て決起したが、関東取締出役渋谷和四郎らの指揮する農兵により鎮圧された。糾合所屯集隊は報復の為渋谷の留守宅に押し込み、家人を追い出して火を放ったという。
これらの行為に怒った幕府は三田薩摩藩邸を焼き討ちし、部隊は壊滅したものの「幕府を挑発する」という目的は十分に達成した……と云うのが通説であるが、実際にはその当時既に徳川慶喜を幕府から切り離して新政府に取り込むと云う山内容堂の妥協案が成立しており、薩摩が幕府を挑発する必要は無くなっており、寧ろ便乗犯を取り締まるのにやっきになっていたと云う説も有る。
鳥羽・伏見の戦いの後、相楽らは岩倉具視の後援の元「赤報隊」を結成した。この部隊は公家の綾小路俊実・滋野井公寿元を総督とする三隊編成であった。その内訳は、一番隊は隊長相楽総三、隊員は元糾合所屯集隊士、二番隊は隊長鈴木三木三郎で、隊員は元御陵衛士、三番隊は隊長油川練三郎で、隊員は水口藩士や近江浪士から成っていた。総兵数は200〜300名、薩摩藩から支給された小銃100挺を装備していた。
彼らは東山道軍先鋒隊として中山道を進軍。その際、新政府に嘆願して「年貢半減」布告を得たが、後に政府は財源不足から年貢の半減を中止し、赤報隊に帰還命令を下した。命令を受けた赤報隊の内二番・三番隊は素直に桑名の東山道軍総督府に帰還したが、一番隊のみは命令を拒否して東進を続けた。その為政府の命を受けた信州諸藩兵により攻撃され、相楽以下の幹部は斬首された。
ちなみに、二番隊はそのまま徴兵七番隊に再編されて戦場に向かい、三番隊は略奪など乱暴狼藉の振る舞いが多かったので桑名で処刑されたと云う。
組織図 総裁 相楽 総三 元は下総郷士の四男。後に赤報隊事件で斬首。 副総裁 落合 直亮 最年長隊士。漢方医であり、また平田篤胤の門弟というバリバリの尊王派。 大監察 権田 直助 医師兼国学者。落合と共に部隊の長老的存在。 長谷川 鉄之進 越後浪士、元忠勇隊軍司。 斎藤 謙助 監察 原 三郎 輜重長 小川 香魚 通称勝次郎。 探偵員 小島 直次郎 野州出流糾合隊 小川 節斎 竹内啓とも。出流山で挙兵するも、鎮圧。