| 十津川親兵 | |
| 郷中総代 | 上平主税 |
| 所在 | 大和国吉野郡十津川(とつかわ)郷 |
| 本拠地 | 円福寺 |
| 郷論 | 尊王/攘夷 |
| 新選組に 対する態度 |
敵対的。中井以外の郷士が積極的に斬りかかって来る事は無いが、追い詰められた尊王派志士はしばしば彼らを頼って京都を脱出し、十津川郷に潜伏して再起の機会を狙うので、要注意勢力である事に変わりは無い。 |
| 隊士 | 兵員150〜250名、随時交替。制服は赤い羽織。旗印は「丸に十字」であったが、薩摩と被って紛らわしかったので、朝廷からの命を受けて「菱に十字」に差し返られた。 郷士達は勇敢だが、飽くまで半士半農の郷士である為、戦闘スキルは低い(データ)。隊長は羽根富次郎。 |
| 経歴 | 尊王派郷士集団。十津川郷は大和国の十津川流域に存在する山村で、熊野の土地神で神武天皇を奈良に導いた「八咫烏」を信仰している。 古代の十津川郷は税を納められない程貧しく、朝廷に対して租税を免除する代わりに、天皇家が危機に陥った際には兵士を派遣すると云う変則的な税制を課されていた。特に、南北朝時代に吉野に南朝が置かれた際には、この盟約に従って最後まで南朝を支持し続けた事から天皇家との繋がりが深く、「天皇の足軽」を自称する程勤王の志が強かった。 江戸時代には天領として大和の五條代官所の管轄下に置かれたが、実際には北の京都からも南の新宮からも離れた陸の孤島で、独自の気風を養っていた。大塩平八郎の乱においては、実は生き残っていた大塩が山伝いに十津川に逃れたと云う風説も流布された。 文久三(1863)年になると、尊皇攘夷思想を抱く十津川郷士上平主税は古の盟約を持ち出して十津川郷士の上京を建策し、それにより「十津川親兵」として御所警備に召集された。十津川親兵は武家伝奏の指揮下に置かれ、幕府からも一人当たり五十石の扶持を与えられたが、実際には郷士の自己負担乃至は地元有力者の支援によって活動資金を得ていた。 こうして成立した十津川親兵達は、軍事力の無い朝廷の貴重な戦力として期待され、孝明天皇は諸藩の兵士よりも十津川郷士を信任していたと言われている。 しかし実際には、元々藩士の様に調練されて居ない郷士では、警察や用心棒としては兎も角兵士としては些か役者不足だったようだ。禁門の変では出動しても右往左往するのみで役に立たず、続く蛤御門の変でも装備が古く統率も取れて居らず何の役にも立たなかった。 但し公式に京都に駐留出来る尊王攘夷派の勢力としては最大規模であり、尊王派浪士の駆け込み寺として機能する一方、元治元(1864)年には奇妙な事件も起こしている。即ち、禁門の変も終った後の八月二十日の夜、「十津川郷士が天子を奪おうとしている」と云う噂が立った。それを聞いた一橋慶喜が慌てて参内したところ、天皇や皇太子がおわす常御殿の東の縁の下に、暗闇に溶け込むようにして300名程度の人影を見付けた。慶喜は彼らを一喝してすぐに退去する様に命じ、すぐさま御殿に入って天皇と皇太子を紫宸殿にお移しした。そしてその後、家臣に命じて一晩中御所内を捜索したが不審者は一人も見付からず、事件は有耶無耶になってしまったと云う。ただ、猿ヶ辻の穴門の鍵は確かに壊されており、何者かが侵入した事には違いないらしい……。 鳥羽・伏見の戦いで新式銃の威力を目の当たりにすると、やっと軍制改革の必要性に目覚め、薩摩藩に接近するが、今度はそれが原因で在郷の保守派と在京の改革派に別れて闘争を開始してしまい、最後まで統一した勢力として幕末政局に力を及ぼす事は出来なかった。 戊辰戦争では、東征軍大総督有栖川宮 熾仁親王の警護を担当する「第一親兵隊」となり、彼の指揮の許北越戦線等に従軍、奮闘して実に81名もの死者を出した。また近畿警備の部隊として伏見に伏見第一・第二大隊を編成して駐屯した。 幕府寄りの書籍では、「十津川郷士は尊王派に利用された田舎者で、明治維新後は使い捨てにされた」との論調が強い。 しかし実際には、幕末以来の功績で大総督の親衛隊に任ぜられたり、明治維新後も十津川郷士は本来なら卒族に編入されるところを特に全員士族に編入され、新政府が設けた「御親兵」にも参加を許される(廃藩置県を行う為の言わば「反乱鎮圧部隊」の御親兵への加入を許されたのは、薩長土と十津川郷士のみ)等、明治政府統治下でも優遇された。但し洋式訓練には最後まで馴染まなかったようで、大村益次郎は彼らを臨時の政府軍としようとしたが断念せざるを得なかったといわれている。 |
上平主税 (かみだいら ちから)
思想:尊王/中立
生没年:文政七(1824)年九月十四日〜明治二十七年
出身:十津川村野尻の医師
容姿・性格:
階級:十津川郷士肝煎
経歴:紀州にて医術を学び、十津川で医師をしていたが、黒船来航をきっかけに尊皇攘夷思想に開眼。
安政五(1858)年上京、尊皇攘夷派のブローカー的存在であった梅田雲浜を訪ね、十津川郷士による朝廷守護を申し入れた。十津川は古来から勤王の志が強いので手弁当で動員出来るし、人数も約千二百名と畿内ではかなりの勢力であったから、梅田も大いに賛同し、中川宮に仲介した。その後、安政の大獄が有って梅田が獄死した為計画は一時頓挫したが、中川宮の尽力で十津川郷士は朝廷の警備に登用された。また、その際に奔走した上平は郷中総代に任ぜられ、十津川親兵を統率した。
明治二年、国粋主義者の上田立夫ら五名が横井小楠を襲殺すると云う事件が有り、上平はその首謀者として疑いを掛けられ、伊豆の新島に終身流刑となった。新島では天然痘が流行していたので、足柄県に申請して種痘を行うなど島民の医療に尽力し、「博愛の流人」・「島の大恩人」として崇敬された。また、同じく新島に遠島となった相馬主計と思想の違いを越えて友情を結び、親しく交際した。
明治十二年に特赦を受けて帰郷し、玉置神社の詞官となった。
明治二十七年、六十七歳で死去。必死で戦った幕末の尊皇攘夷運動よりも、遠島後の無医島医師としての活躍の方が有名になってしまったと云う皮肉な人生であった。孫の義晴は祖父の衣鉢を継いで医師となり、新島に渡って島民の医療改善に尽くした。
中井庄五郎
思想:尊王/攘夷
技能:剣術(田宮流抜刀術)
*幼少より山野を跋渉して足腰を鍛え、更に田宮流抜刀術を修めた玉置山の修験者・道俊から杖術と居合術を学び、「稲妻庄五郎」との異名を取る程の居合いの名手となった。
*愛用と伝えられる刀は無銘の大刀で、かなりの重量が有ったらしい。
生没年:弘化四(1847)年四月二十三日〜慶応三(1867)年十一月十五日
出身:十津川野尻郷の郷士中井秀助の三男
容姿・性格:体躯は大柄で髭もじゃ、綽名は「熊」。性格は朴訥で誠実、特に坂本竜馬にその性格を愛され、名刀一振(無銘ながら、青江吉次と伝えられる業物)を贈られたりした。
階級:十津川郷士
経歴:義高。生まれた時から体毛が生えまくり、「髭男」乃至は「熊」と綽名されたらしい。
文久三(1863)年、同郷の先輩上平主税に連れられて十津川郷士による御所警衛に参加、此処で多くの尊王派志士と交友を持った。
元治年間には一旦帰郷していたが、慶応元(1865)年、剣技教授の為に十津川郷に入っていた土佐郷士那須盛馬に剣技を見込まれ、再度上京した。
京都では土佐藩尊王派の護衛を行い、慶応二(1866)年には長州藩士品川弥二郎に、新選組隊士の村岡伊助を討つように頼まれた。村岡は元は長州藩士であり、新選組の内情を探る為に派遣されたのだが、寝返って却って新選組のスパイとして長州の情報を売り渡していた。中井は同じ十津川郷士の前岡力雄と協力して一刀で村岡を討ち果たし、懐中の密書を奪って品川に渡した。長州藩からは、この功績に対して長刀一振りずつが贈呈された。
同年、寺田屋に投宿していた坂本竜馬に招待され、時勢を談じた。その時、竜馬が中井を一介の武弁とか20歳の若輩者と云った軽い扱いをせず、対等に扱ってくれた事に感激し、「僕は坂本氏の為ならいつでも死ねる」と周囲に語っていたと云う。この感激が、後に殆ど坂本竜馬との接点も無いのに天満屋事件に参加する伏線になっているのかも知れない。
慶応三(1867)年一月七日には那須盛馬の護衛として四条大橋で新選組隊士沖田、永倉、斎藤の三名と遭遇。泥酔していた盛馬・中井が新選組を愚弄したことから、此又泥酔していた沖田らが激怒し、戦闘となった。新選組の三人は酔っては居ても戦術の基礎を忘れず、主人格の盛馬に沖田・永倉の二人掛かりで当たり、中井には斎藤が立ち向かった。中井は斎藤相手に互角の戦いを繰り広げたが、二人の使い手を相手にした盛馬は重傷を受けてしまった。中井は咄嗟に機転を利かせ、「援軍を呼んで来る」と叫んで橋の下に飛び降りた。沖田らは慌てて土佐藩邸方面に走ったが、実は中井は橋の下に隠れており、盛馬を連れてその場を脱出。麹屋町姉小路の池村久兵衛方に担ぎ込んで応急処置を行い、更に下御霊神社の裏手にある古本屋に移動して療養させた。
その後、盛馬は難を避けるために一時十津川郷に戻ったが、中井は京都で活動を続け、同年三年四月には意趣返しの積りか新選組隊士二名を斬った(これに関しては新選組側の資料が無い為、確証は無い)。また、日時は不明ながら長州藩士で会津藩に内通していた岸泰治を斬った。
慶応三(1867)年十二月七日、天満屋事件に参加。海援隊残党の先鋒として天満屋に切り込み、斎藤と因縁の対決となった。しかし必殺の居合も鎖帷子に阻まれ、手元一尺一〜二寸を残して愛用の太刀が折れてしまった。中井は猶も折れた刀を振るい、「よいしょ、よいしょ」と云う掛け声を響かせながら奮戦して斎藤に手傷を負わせたものの、態勢を建て直した新選組の逆襲を受け死亡した。
切り込みは結局失敗に終わり、海援隊の中島作太郎は中井の死体から首を切り取って満屋の井戸に隠した。死体は無縁仏として埋葬されたが、維新後に殉難の碑が建てられ、従五位が追贈された。