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第肆章 新選組人名録

[カ][キ][ク][ケ][コ]


[カ]

加納 惣三郎
思想:中立/中立
生没年:不明
出身:京都押小路の木綿問屋越前屋の次男。越後屋は中京きっての富商。
容姿・性格:眼が切れの長い一重瞼で、凄い様な色気がある。色白。入隊時18歳。
特技:剣術、地域知識(京都)
階級:局付隊士→伍長
経歴:越後屋の先祖は美濃加納郡より興り、戦国時代に加納雅楽助という者が出て稲葉一鉄に仕え、功績を立てた。その子孫は後に越後に流れ、やがて京に来たという。
 加納惣三郎は幼少の頃より剣術を習い、近所の道場に通って師範代となった。新選組が堀川屯所にいる頃入隊し、初めは見習いとして秘書役を努めた。伍長に昇進すると給料が上がったのを良いことに島原通いに夢中になり、輪違屋の錦太夫に入れ込んだ。しかし、やがて金がなくなったので、島原近辺で辻斬りをやって金を得た。この醜聞はやがて監察の知る所となり、ある夜、島原帰りの加納が屯所の塀を乗り越えて密かに自室に帰ろうとする所を土方歳三らに斬られた。
 司馬遼太郎著『新選組血風録』においては男色関係のもつれで処断されたとされている。

加納 道之助加納道之助(晩年)
思想:尊王/攘夷
生没年:天保10(1839)年11月9日〜明治35(1902)年10月27日
出身:伊豆国加茂郡加納村浪人、高野伴兵の長男。
性格・容姿:はきはきした江戸弁を話す。
特技:北辰一刀流
階級:伍長→高台寺党隊士→東山道先鋒斥候探索方
経歴:別名鴎雄(わしお)。伊東甲子太郎派の主要人物の一人。江戸に出て文武修行中に、伊東に従って新選組に入り、伍長に任ぜられた。その後伊東と共に脱退し、御陵衛士に参加。油小路の戦いでは逸早く新選組の待ち伏せに気が付き、「敵だ、油断すな」と注意を喚起。その甲斐あってか包囲を突破して薩摩藩邸に逃れる事に成功した。墨染の難に於いては、槍を持って近藤を待ち伏せした。
 その後薩摩軍に属し士官(東山道先鋒斥候探索方)となり各地を転戦し、武州板橋の官軍本営にいる時彼を頼って大石鍬次郎が仕官を申し出ると、彼は「佐野七五三之助の恨みを忘れたか」と言って彼を拷問の末斬首した。また前野五郎の投降を受け入れた。更に大久保大和と偽名を使って流山に駐屯していた近藤勇を見破り捕縛し、伊東の仇を討った。その後も薩摩軍に付いて奥州を転戦し、会津・仙台で降伏人の取調べを行った。これらの事から、彼は官軍と旧新選組隊士との間の窓口の様な役を果たしていたとも考えられている。
 明治維新後は北海道開拓使、農商務省等の役職を経て、民間会社に就職。

河合 耆三郎
思想:中立/中立
生没年:天保9(1838)年〜慶応2(1866)2月19日
出身:播磨高砂の大手蔵元、河合儀平の長男。
性格・容姿:上品で涼しげな容姿を持つ。色白でなよなよとした若旦那風。性格は気弱で真面目。播磨出身だが商用でよく大坂に滞在していたので関西弁を使う。
階級:会計方
特技:算術、能筆
*隊内一の算術の能力を持つ。
経歴:儀三郎、源義輝、吉輝とも。かねて武士になりたいと思っており、文久三年六月新選組に入隊。芹沢鴨が死亡すると会計方次席に任ぜられ、実務を担当した。武芸劣等と伝えられるが、池田屋事件に於いてはそこそこの活躍をして15両と言う平均的な額の報償を貰っている。禁門の変後、松本喜次郎と共に大坂方面に出張、摂津高浜村を探索して同村より長州藩とは無縁であるとの誓約書を提出せしめた。昆陽宿では山崎烝と共に長州藩兵士が残置した兵器類を大坂に集積している。
 慶応2年2月2日、帳簿に50両の不足を発見し、実家に使いを立てて密かに50両取り寄せようとした。しかし、丁度その時近藤勇が深雪太夫を身請けする為に大金が必要になり、50両の不足が発見されてしまい、河合は「後10日すれば金が届く筈」と言って処刑を待って貰ったが、期限に金が間に合わず、せめて武士らしく切腹をと言う願いも、公金を横領した上に命請いまでした隊士にそれは許せないと言う事から斬首に処された。介錯を務めた隊士沼尻小文吾は「人間、あれ程悲しい声が出るものとは思わなかった」と述懐したと云う。その三日後、父親が50両を持って上京したが、近藤らは決して合う事はなかったと言う。憤慨した父親は大金を投じて僧侶を雇い、経文を読ませながら屯所前を何度も往復させ、壬生寺に他の隊士の墓を圧倒する最も立派な墓を建て、新選組に腹いせをした。
 なお、この事件は計算能力に優れた彼に新選組会計方頭の地位を脅かされた岸島芳五郎の仕組んだものとも言われている。

川島 勝司
思想:中立/中立
生没年:????〜慶応二(1866)年
出身:京都洛西川島村
性格・容姿:小心で臆病
階級:助勤・探索方→伍長
経歴:新選組結成直後に入隊、助勤に任ぜられる。池田屋事件に於ては浪士探索に活躍し、事件当日は土方隊に参加。池田屋の屋内に切り込み、報奨金十七両を得ている。その後の禁門の変に際しては、小荷駄方として出陣。嵯峨野方面の偵察に当たり、福原越後の陪臣を捕縛して長州藩の人数・布陣・軍紀等の情報を聞き出した。
 慶応元(1865)年夏の再編成では伍長に任ぜられた。これ程の活躍をしながら、人柄に臆病な所があり「士道不覚悟」とされた。隊務に精勤だったので切腹を免れ、除隊処分とされた。此処で大人しく郷里に居れば良かったのだが、新選組時代の暮らしが忘れられなかったのか、大坂に逃れて新選組の名を偽って金策したので、富山弥兵衛らに丸坊主にされた挙げ句処刑されてしまった。死体は二条河原に晒された。

[キ]

岸島 芳三郎
思想:佐幕/攘夷
生没年:不明
出身:丹波宮津亀山藩江戸詰め
性格・容姿:根暗
特技:算術
階級:伍長→監察→会計方→小荷駄方→甲陽鎮部隊歩兵頭
経歴:元治元年十二月入隊。司馬遼太郎の『新選組血風録』では、新参の会計方河合耆三郎の才能に嫉妬し、彼を陥れる古参隊士と云う事になっているが、実は河合の方が先輩なので、虐められる事は無い。勿論、身分の違いで虐められると云う事は考えられなくも無いのだが……。
 幕臣取り立てに反対して脱退を申し出たが、佐野七五三之助等4名が討たれると隊に留まった。鳥羽・伏見の戦いにも従軍。甲陽鎮撫隊では歩兵頭に任ぜられたが解散後脱退し、以後不明。明治後期にひょっこりと原田左之助の妻まさの元に現れ、原田の戦死と戒名を告げた。

[ク]

楠 小十郎
思想:尊王/攘夷
生没年:天保十八(1847)年〜文久三(1863)年九月二十六日
出身:京都屋敷詰め長州藩士
性格・容姿:まだ前髪が取れたばかりの小姓のような侍で、星のようにぱっちりした目と色白の下ぶくれの顔。声は女の様に優しい。隊中美男五人衆の一人。
特技:間諜、剣術、地域知識(京都)
階級:平同士
経歴:長州藩士桂小五郎の命により成立早々の新選組に、京都で生まれ育ったのを生かして京都浪人と偽って入隊し、原田左之助の下に配属された。
 新選組隊士御倉武伊勢、荒木田左馬助らに長州藩間諜の濡れ衣を被せて元治元年九月二十六日早朝彼らを謀殺せしめ
(荒木田は逃走)たが、同日朝四つ時、屯所に出勤しようと現れた所を、壬生屯所門前で待ち受けていた原田左之助に斬られて死んだ。
 彼の死後、隊士内に間諜は置かれなくなり、新選組に対する尊王派の諜報網は弱くなってしまった。そして翌年には池田屋事件の様な失敗を招く事となったのである。

久米部 正親(猪野忠敬)
思想:中立/中立
生没年:天保十二(1841)年五月十六日〜明治四十三(1918)年九月二十五日
出身:大坂天満奉行所与力の子
性格・容姿:実際に参加していたのは二十代前半の筈なのに、「入隊当時三十歳くらい」と見られていたらしいので、老け顔だったと思われる。なかなか気の利いた人物。
特技:弁舌、部隊指揮、文才、地域知識(大坂)、絵画
*武芸はそれ程得意ではなかったらしい。
階級:伍長→軍監→陸軍少尉→陸軍中尉
経歴:新選組在籍中は久米部正親を名乗った。甲陽鎮撫隊解散後、二十余名の病傷兵を引き連れて一足先に会津に向かった。会津で軍監に任命され、会津如来堂の戦いで敗戦後、戦死したと思われていたが虎口を脱した。この時名を猪野忠敬に改める。
 鶴ヶ城に入城出来なかった猪野と旧新選組隊士は、同じく鶴ヶ城に入れなかった水戸藩佐幕派諸生隊と合流。彼らに天狗党の牛耳る水戸城を奇襲する作戦に参加するよう説得され、同じく故郷を失って放浪する長岡藩兵と共に襲撃に参加した。この攻撃は当初は鮎沢伊太夫ら天狗党幹部を戦死させたが、天狗党はすぐに体制を立て直したので、諸生党・長岡連合軍は二百余りの戦死者を出して退却。水戸城の奪取は失敗に終った。この攻撃は実際には諸生隊が故郷で死にたいと考えて行った自殺的な攻撃で、諸生党は水戸城下の藩校に籠城して玉砕してしまった。此処からも辛うじて逃れた猪野は、「船で八丈島に逃れてそこで共和国を創ろう」と呼掛け一同の同意を得たが、遂に脱出に失敗して捕縛された。この時、咄嗟の機転で部下に新選組に所属していた事を隠し通させ、難を逃れた。東京で謹慎後新政府の陸軍に出仕、文才を以て出世した。

 その後、御親兵となり明治三年五月に本城ふさと結婚。明治5年仙台鎮台に於いて少尉に任ぜられ、西南戦争に従軍後、明治十二年中尉に昇任。明治十三年大坂鎮台に赴任。明治十七年三重県駐在官、明治十九年東京鎮台後備東京駐在官となって、四十六歳となったので「年齢満限」となって退役した。仙台では謙山と号して書画を人に教えたり、危絵を描いたり、はたまた酔えば一弦琴を弾いて悠々自適に過ごした。但し残念ながら実子に恵まれず、養子を四人取ったが、内一人は日露戦争で戦没している。
 仙台において七十七歳で病死した。

[ケ] 該当者無し

[コ]

近藤 勇新選組局長・近藤勇
思想:佐幕/攘夷
能力値
筋力:5 器用:4
敏捷:4 知力:3
抵抗力:6 外見:3
技能:剣術(7)、剣技/天然理心流(免許皆伝)、剣技/新選組剣術(双竜剣、草攻剣、向抜撃剣、山攻撃破剣)、馬術(5)、兵学(4)、国学(2)、肉体抵抗(4)、精神抵抗(3)
*好んで使う構えは天然理心流の基本の構えである平青眼。通常よりもやや右寄りに構え、剣先をやや垂れて、腰を引いて胸を張る。この構えから摺り上げ面、篭手を狙う事が多い。堅実な剣風で小手先の技を嫌い、何かと言うと「斬るのは気組だ」と主張する正統派剣士。愛刀は長曾根虎徹。全て鉄造り、銅の丸鍔に竜の彫物があり、刃渡りは2尺3寸5分。一説によると偽虎徹とも言われる。
階級:局長
生没年:天保五(1834)年十月九日〜明治元(1868)年四月二十五日
出身:武蔵多摩郡上石原の郷士宮川久次郎(自称は武家風の「久次」)の三男。
性格・容姿:豪快で権威に弱い性格。人が良く、心が広い。しかし、粘り強さに欠け、退勢に弱く飽きっぽい。議論が好きで学者に弱く、冗談が分からない。口が大きく眉の迫った顔つきだが、いつもにこにこしている上に大きな笑窪が出来るので、優しい印象を与える。口の中に拳が入り、本人はそれを加藤清正になぞらえていたと言う。声は甲高く、それでいて良く通るものだった。定紋は丸に三つ引き。天然理心流門弟全てに敬愛されており、新選組隊士一同から畏怖されているが、土方歳三とは親友である。
経歴:幼名は勝太。諱は昌宜(まさよし)。勇は通称。少年時は乱暴者であったらしい。15才で天然理心流近藤周助の江戸小日向柳町「試衛館」道場に入門した。16才の時には自宅に侵入した強盗を冷静沈着に追い払ったと言うエピソードを持つ。その腕前を認められてか、本来免許皆伝まで3年掛かるところを僅か8ヶ月で突破した。その後、後の新選組副長土方歳三に出会い親友となる。文久元年には周助の養子となって道場を継ぎ、近藤姓を名乗った。
 妻は御三卿清水家の家臣松井八十五郎の長女「つね」。つねに関しては、不美人で有名なのだが、彼女が近藤に嫁ぐに到った経緯には、些かエピソードが有る。実は、つねとの縁談の前にも、近藤の元には商家や町人の美人の娘が多数縁談を申し込んでいた。しかし、近藤は此らを全て拒絶した。ところが、つねとの縁談が持ち込まれると、すぐに結婚を承諾した。訝しんだ人々の質問に答えて曰く

「此までに会った女性は、皆美人であったので其れを鼻に掛けて驕慢であった。しかし、つねは不美人だが驕慢な所がなく、妻女に相応しい」
 流石は近藤、と云いたいところだが、案外近藤の武士嗜好の現れでしかないのかも知れない。
 文久三(1863)年三月の新徴組募集に、道場を空にして応募。門弟を引き連れての参加であったが、小頭に就くには些か名声が足りなかったのか、道中奉行に就いた。しかし、清川八郎が新徴組を勤王運動に使おうとすると、決然として反対して芹沢鴨達と共に独立し、「新選組」を成立させ、芹沢・新見と並んで局長に就任した。更に同年九月には芹沢派を粛正して新選組の実権を握ると、鴻池善右衛門等から個人的に献金を受け大名の様な生活を送った。

 元治元(1864)年六月五日の池田屋事件に於いては隊士僅か7、8人で勤王浪士30余人の会合する池田屋に切り込み、自らも刀を振るいつつ、的確な指示で彼らを制圧した。その際、西国出身の隊士の多数が病気を言い立てて屯所に残ったり、或いは谷兄弟が活躍しなかった事から、「兵は東国に限り候」と云う歴史に残る名言を吐いた。
 以後、新選組の武名はますます上がり、幕府は近藤に与力上席を与えようとしたが、新選組は飽くまで軍隊で、警察ではないと言う考えの元これを断わり、以後は殊更に大名の様な振舞いを重ねた。また、この頃から妾宅を2軒持ち、多くの馴染みの遊女を持っていた。特に七条通醒ヶ井木津屋橋下ル興正寺前休息所の深雪太夫は有名で、彼女が病死するとその妹の孝子が入った。此の孝子との間に一女お勇を設けた。お勇とは遂に生き別れとなるのだが、お勇は維新後下関に流れて芸者となり、伊藤博文等の維新元勲の贔屓も受ける人気芸者となったと云う。
 同年7月の禁門の変に際しては、新選組が配置された方面は主戦場にならず、武功がなかった。
 その後、江戸から伊東甲子太郎が入隊して来ると、彼を先生と呼んで敬った。彼自身は世間で思われているほど無学ではないのだが、それだけに還って学者と言うものに強いコンプレックスを抱いていたのかも知れない。同様の理由で武田観柳斎、尾形俊太郎等が重用されたのであろう。
 慶応元(1865)年十一月の第二次長州征伐直前に問罪使永井尚志の随員として、伊東・尾形俊太郎・武田観柳斎を引き連れて同行し、帰還して会津藩に長州が密かに軍備を進めていると報告した。
 更に慶応二(1866)年一月に小笠原長行が長州処分実行者として安芸に向かうと、近藤は伊東・尾形・篠原泰之進を連れて随行した。その内交渉は決裂し、開戦となった。しかし幕府は各地で敗退し、やがて第14代将軍徳川家茂が病死してしまい、第二次長州征伐は失敗に終った。
 その余波を受けて伊東らが九月二十六日に脱退を申し出て、慶応三(1867)年三月に脱退した。近藤は十一月十八日に伊東を誘き出して斬り、彼の死体を囮にして御陵衛士を待ち伏せして斬った。
 しかし、彼らの行動は大勢に何等の影響も与えず、同年十月に大政奉還、十二月に王政復古の大号令が出された。近藤は新選組局長として老中や土佐藩家老後藤象二郎と会談する等奔走するが、無駄に終った。また新選組は間近に迫った戦いに備え、伏見奉行所に陣地を構えた。その直後十二月十二日、近藤は隊士20余名に守られて馬上軍議から帰る途中伏見墨染に於て伊東派残党に狙撃され、重傷を負い、治療の為大坂城に収容された。その為翌年1月の鳥羽・伏見の戦いには参加出来なかった。
 鳥羽・伏見の敗戦後、近藤は新選組の残党を連れて江戸に戻り、三月一日元新選組隊士を中心に甲陽鎮撫隊を組織して甲斐の奪取を図ったが失敗し、彼が新選組の隊士・幹部を同志ではなく家来と見る事に不満を持った永倉新八・原田左之助が離れた。天然理心流の腹心達、沖田総司は病気療養中、井上源三郎は戦死し残ったのは土方のみとなった。
 三月二十日、大久保大和と偽名を名乗り下総流山に出陣したが、官軍が来ると土方の反対を押し切って降伏した。官軍では彼の処断を巡って除名派の薩摩系幹部と斬首派の土佐系幹部の間で論戦が交わされたが、結局近藤を「郷土の英雄坂本龍馬の仇」と信じて疑わない土佐系幹部の勢いに押されて処刑と決まった。此の辺り、未だ革命の主導権を確定していない薩摩の、腰の定まらない支援者である土佐藩への遠慮が見られるのかも知れない。
 四月二十五日、近藤は板橋の官軍本営に於いて、横倉喜三次によって斬首された。新選組成立の時から、常に土方の助言によって成功を得て来た彼であったが、最後にその言を取り上げず、自らの身を自らで処した。

近藤 周平
思想:中立/攘夷
能力値
 筋力:3  器用:3
 敏捷:4  知力:4
 抵抗力:2  外見:5
技能:剣術(2)、槍術(2)、剣技/直心影流(切紙)、剣技/種田流槍術(初伝目録)、武略(3)、国学(2)
生没年:嘉永元(1848)年5月20日〜明治34(1901)年12月2日
出身:備中松山藩上士の三男。谷三十郎の末弟。新選組では藩主板倉候の落とし胤と称する。
性格・容姿:色白で顎が薄く目が重瞳で聡明そうな容貌。やや臆病。
階級:平同士だが、近藤勇の養子として別格扱い。
経歴:初め喬太郎昌武と称す。文久3(1863)年4月長兄谷三十郎・次兄万太郎と共に入隊。板倉候の落とし胤を称して近藤の養子に迎えられ、名を周平と改めた。池田屋事件に於ては近藤に従って二階に切り込んだが、槍の穂先を切り落とされた後は刀に損傷が無い所を見ると大した働きをしなかった様だ。その為彼は近藤の寵を失い、特別扱いされなくなり、やがて名字も谷に戻された。慶応2(1866)年長兄三十郎が暗殺された後も脱退出来ずに新選組に留まっていたが、慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いの直前の混乱に紛れて隊を脱走。
 維新後故郷岡山県高梁で結婚し、政栄と云う娘を設けるが、離縁して神戸に移る。明治十三(1880)年、神戸で播田ツルと再婚。播田ツルは裁縫の師匠をしており、十一歳年上の姉さん女房であったと言う。しかし、周平の浮気が原因で明治二十(1887)年十月に離婚。周平は山陽鉄道に勤務して生計を立てたが、その後悪い女に引っかかって山陽鉄道を退職し、その女に退職金も搾り取られ、親戚の厄介に成りつつ寂しく余生を送ったという。

近藤 芳助
思想:中立/中立
生没年天保十四(1843)年五月〜大正十一(1922)年七月五日
出身:近江国国友村
性格・容姿不明
特技不明
階級:伍長
経歴:元治元(1864)年十月、新選組に入隊。
 鳥羽伏見の戦い、甲陽鎮撫隊、戊辰戦争に参加したが、会津で新選組とはぐれてしまい、降伏した仙台藩に捕縛された。その際官軍に依り訊問を受けるが、その際には新選組である事を隠して幕臣で通したので、静岡藩御預と云う比較的軽い処分で許された。
 明治三年赦免。以後は名前を「川村三郎」と改め、横浜に住んで代言人となった。
 明治二十一年に横浜市会議員補欠選挙に出馬し、当選。明治二十八年まで議員を務めた。晩年、『新撰組往事実戦譚』を記した。
 明治三十九年、議員仲間の高橋正意に「近藤は土方に勧められて降伏した」と云う手紙を送った。この手紙は近年発見され、「近藤は土方の進言を退けて降伏した」と云う定説に疑問を投げかける材料となっている。


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