武田 観柳斎
思想:尊王/攘夷
能力値
筋力:2 器用:2
敏捷:2 知力:4
抵抗力:2 外見:3
技能:剣術(3)、医学(3)、薬学(2)、国学(4)、兵学/長沼流(5)、交渉(4)、特殊技能/阿諛追従(8)
生没年:????〜慶応三(1867)年六月二十二日
出身:出雲国母里藩(一万石)松平主計頭藩中。医術学生。
性格・容姿:陰険、臆病、傲慢、更に男色家。入隊時は33、4歳だったらしい。背が高く坊主頭だった。彼の陰険な性格は有名で、壬生で調練があると、草鞋がちょっとでも緩んでいる隊士を見つけてはねちねちと叱ったので、見物に来ていた近所の人がその隊士の為に涙を流して悔しがったとさえ言われている程である。
名前は尊王派の英雄的存在武田耕雲斎にちなんで自称した。篠原泰之進と親交あり。また、尊王派志士の大物平野国臣も彼と親交があった。
階級:助勤・秘書役・兵学師範→五番隊組長
経歴:本名福田要。佐幕派の母里藩に於て尊王攘夷活動を展開した為、投獄された。なお、同藩には福田宏と云う経歴の良く似た人物が伝わっており、要との同一人物との可能性も高いという。もし、同一人物とすれば、宏は尊王派志士としての名声はそこそこ有ったらしく、安政三年か四年には藤本鉄石が彼を訪問していたと云うから、「男色・二枚舌の卑劣漢」と蔑まれる事の多い彼だけに、意外の感を禁じ得ない。
文久三(1863)年に脱獄して、同年初夏に新選組に入隊した。名門軍学長沼流の素養があり、学問もあったので助勤に任ぜられた。特に長沼流は会津藩でも採用している軍学であり、会津藩との共闘が多い新選組では大層便利で有ったものと思われる。こうした学問面の活躍で近藤勇の信任を受けたが、傲慢に振舞ったので隊士に憎まれた。
元治元(1864)年六月、古高俊太郎捕縛を指揮。更に池田屋事件にも近藤隊として参加、天井に隠れていた浪士が、天井板を踏み抜いて落ちてくると、素早く切り捨てた。
同年六月、明保野亭事件に際して出動。
その後、慶応元(1865)年八月八日に奴茶屋に金策に来た薩摩藩士2名を捕縛すべく隊士6名を引き連れて向い、自身は刀を折られてしまったものの、彼の指揮宜しきを以て薩摩藩士1名を斬り1名を捕縛した。実は、複数の戦闘の様子が伝えられている隊士は少なく、彼の剣技の腕前も満更の物ではなかったのではないか……と見る向きもある。え、TRPG「維新の嵐」ではどーなんだって? そりゃーあなた、私の答えは「その場のノリ」ですかね。乃至はGM次第w
以後は元治元(1864)年十月の近藤の江戸下向、慶応元(1865)年十一月十六日の近藤の広島出張に同行する等、近藤の秘書官としての活動が中心で、「政治家・近藤勇」を目指す近藤にとっては非常に貴重な部下であったようである。
しかし、武田を上回る学問と人品を持つ伊東甲子太郎が隊内で人望を集め始めると、武田は居場所を失ってしまい、慶応二(1866)年一月の広島出張の随行員の中から外されてしまう。さらに同年八月、一橋慶喜が徳川宗家を継承し、幕府の権力を握ると、慶喜は後に「慶応の軍制改革」と呼ばれる事になる大規模な軍制改革を実施。町人等に依る歩兵部隊が編成される一方、新選組も西本願寺境内で砲撃訓練を行う等、洋式兵制を採用し始めた。その為、武田は長沼流軍学者としての立場さえ失ってしまう。
そこで伊東達に接近するが、その性格・能力を疑われて入れられなかった。窮した彼は薩摩藩への接近を図ったが、露見してしまい、慶応三(1867)年六月二十二日、近藤らに酒宴に誘われその帰りに竹田街道銭取り橋に於いて同行していた斉藤一に切られた。
猶、言う迄も無い事だが、某漫画に登場する武田観柳とは当然別人物である。
田中 寅蔵
思想:尊王/攘夷
生没年:天保十二(1841)年〜慶応三(1867)年四月十五日
出身:加賀国石川郡金沢、加賀藩士
性格・容姿:品行方正、敢然有為の性格であった。ただ、それだけに剣術の修行には力が入りすぎ、やや意地悪とも。
階級:剣術師範頭
特技:心形刀流、宝山流居合術
*隊内屈指の腕前
経歴:本名信行。元治元(1864)年十月頃京阪にて入隊。三番隊に配属される。
「新選組始末記」には過激の攘夷を主張した為に長州藩の間諜との嫌疑を受け切腹とのみある。彼は常々同じ攘夷思想の伊東甲子太郎に接近していたが、伊東派の分裂には従わず、後に新選組が旗本に取り上げられるや翻意して伊東派に付こうとした。しかし伊東と近藤勇は両派は一度分裂したらもうお互いの隊士を行き来させないという約束をしていたので田中の脱走は認められなかった。田中は寺町の本満寺に潜伏したが間もなく露見し、屯所に連行された。田中は辞世の句二首を詠んで堂々とした最後を遂げた。
谷 三十郎
思想:中立/攘夷
能力値
筋力:4 器用:4
敏捷:3 知力:3
抵抗力:4 外見:5
技能:槍術(7)、剣術(7)、剣技/種田流槍術(免許皆伝)、国学(3)、剣技/直心流剣術(初伝目録)
*槍の腕前は俗に「千石もの」と呼ばれた。
生没年:????〜慶応二(1866)年四月一日
出身:備中国上房郡松山御前丁。備中松山藩御旗奉行を務め、百二十石取・役料二十石を喰む堂々たる上士の嫡男。弟は万太郎と近藤周平。
容姿・性格:傲慢で虚飾の好きな性格で、すぐに大言壮語する……と云う説が一般的であるが、一方では気さくで、永倉は後年「槍の指導が上手だった」等と言い残している。恰幅が良く威風堂々としている。
階級:助勤→7番隊組長・槍術師範頭
経歴:本名供国。安政三(1856)年十月十三日、主君板倉勝静の勘気に触れ(一説には、藩主の娘に手を出したからとか)御家が断絶され、次弟万太郎と共に大坂に出て中山大納言の侍医岩田肥後之丞文碩の食客となる。文碩は鎌槍を良く使い、更に書生を多く養っていたと云うから、槍術家谷三十郎とは話が合ったのであろう。彼の支援で、大坂南堀江二丁目松屋町の酒屋を間借りし、万太郎と共に道場を開く。道場は四ヶ所と云う関西版岡っ引きを迎えそれなりに流行ったらしい。原田左之助はこの道場に入門して槍術を習った事があり、その縁で文久三年四月に兄弟で入隊し、彼は助勤に任ぜられた。
近藤勇派の新選組掌握が確立すると、末弟喬太郎を故郷から呼び寄せて備中松山藩主板倉候の落とし胤と称して近藤の養子周平とし、近藤の外戚として威を振るい一躍副長助勤に任ぜられた。
池田屋事件では階下を固めてそれなりの功があった。帰路、八木為三郎少年に「何処に行って来たのか」と聞かれると、「三条小橋の旅人宿池田屋で浮浪人狩りをやった。いい気持ちでしたよ。話はあとでゆっくり」と応えた云うから、なかなかの度胸であった。しかし、周平は池田屋事件に於て卑怯の振舞いがあった為近藤の信頼を失い、その後の編成では彼は七番隊組長に格下げされてしまった。更にこの事から近藤は西国の武士全般に対してその士気を疑い、「武士は矢張り東国に限る」と称して以後の隊士募集は主に関東に於て行った。
元治二(1864)年の大坂石蔵屋襲撃に際しても功を焦って浪士を取り逃がしたり、平同士田内知の介錯に失敗する等失態を重ねた為、自慢の槍術も実戦には役に立たぬ「道場槍」と笑われてしまった。隊士の支持を完全に失ったのを見計らい、慶応二(1866)年四月一日、祇園に於て土方の命を受けた斉藤一によって暗殺された。無様な死に方だったと言われている。
谷 万太郎
思想:中立/攘夷
生没年:天保六(1835)年〜明治十九(1886)年六月
出身:備中国上房郡松山御前丁。備中松山藩上士の次男
性格・容姿:美男
階級:平同士・大坂屯所隊長
特技:直心影流、種田流槍術、地域知識(大坂)
*槍の腕前は槍術師範頭の兄三十郎を凌ぐとされた。
経歴:元は備中松山藩士の子弟であったが、家名断絶の憂き目に遭い、長兄谷三十郎と共に大坂に出る。大坂では医師・岩田文碩の知遇を受け、文碩の娘スエを娶った。文碩は中山中納言の侍医を務めていて相当羽振が良く、邸内には多数の武芸者が食客として居候していた。その中で娘を娶わせられたのだから、これは相当に武芸が達者だった証拠と言えるのかも知れない。さて、文碩の娘婿となった彼は北新町一丁目に移り住み、文碩の後援を得て大坂南堀江二丁目松屋町の酒屋を間借りし、兄三十郎と共に道場を開いた。狷介な兄と違って道場主らしい人徳を持ち、入門者には「剣と槍のどちらを学びたいのか?」と聞き、名声を得て出世するには世の中の主流である剣が良いし、護身の術と云う事で有れば扱いが簡単で威力の高い槍が向いている、と懇切に解説するのを常とした。
新選組草創期に入隊し、末弟周平が近藤勇の養子になるとその伝で大坂屯所の隊長となった。兄と違い屯所で地位を得なかったのは、万太郎は兄から大坂の槍術道場の留守を預かっている為に大坂を離れられなかったからであろう。池田屋事件では土方歳三隊に属したり、大坂石蔵屋事件では失態を犯す等手柄に恵まれなかった。長兄三十郎の暗殺後も新選組に留まったが、慶応四(1867)年鳥羽伏見の戦い直前の混乱に乗じて脱退した。その後は細々と大坂で道場を経営し、明治七年頃、一子弁太郎を設ける。西南戦争の際には大坂知事渡辺昇の推薦で抜刀隊の隊長にも擬せられたが、結局任命されず。道場も人手に渡ってしまうなど不遇な中、終生商家の用心棒等をしながら余生をひっそり過ごした。明治十年頃、妻スエを離縁して愛人吉村たみと同棲、明治十九(1886)年、たみと弁太郎に看取られて食道ガンで死去。
藤堂 平助
思想:尊王/攘夷
能力値
筋力:5 器用:6
敏捷:4 知力:2
抵抗力:4 外見:4
技能:剣術(8)、剣技/北辰一刀流(目録)、剣技/新選組剣術(双竜剣、向請反撃剣、草攻剣、向抜撃剣)国学(3)
*隊内屈指の剣客。常に先頭に立って突撃したので、「魁先生」と渾名された。愛刀は上総介兼重。新選組内部では長曾根虎徹に次ぐ名工に依る物であるところから、落胤説の証拠の一つとなっている。
生没年:天保十五(1844)年〜慶応三(1867)年十一月十八日
出身:江戸下町の浪人。母は藤堂藩江戸屋敷に奉公する下女で、この事から津藩主藤堂和泉守高猷(たかゆき)の落し胤と称する。また津藩の支藩である伊勢久居藩の家老・藤堂八座(とうどう やくら)の子とも云い、通称の「平助」は藤堂家功臣の名乗りを嗣いだ物とも伝えられる。そう言えば、諱の宜虎も怪しい。
容姿・性格:一見無邪気でいなせな江戸っ子。明るくさっぱりした気性。丸い人の良さそうな童顔だが、美男で有名。平時は大人しく、酒席にも余り出ないのだが、酒を飲むと品行は良くなかった。永倉新八、伊東甲子太郎と親交有り。
階級:助勤→八番隊組長
経歴:本名宜虎。北辰一刀流お玉ヶ池千葉道場に住み込み弟子として入門し、千葉周作に師事して目録まで進んだ。また、一説に依れば深川佐賀町の伊東甲子太郎道場の寄弟子であったとも。やがて竹刀試合に弱い試衛館に助っ人として出向く内にそちらに住み着いてしまった。そのまま新選組創設にも参加し助勤に任ぜられた。
池田屋事件に於いては近藤勇隊に属して池田屋二階に切り込み、「刀の刃がささらの如く刃こぼれ」する程奮戦し、額に傷を受け戦線を離脱した。その後、傷が脳まで達している事が分かり命を危ぶまれたがあっさり回復した。
その後の編成では八番隊組長に昇進し活躍したが、やはり天然理心流でない為に隊の中枢である近藤・土方歳三らに疎外されていた様で、同じ北辰一刀流の伊東甲子太郎が脱退するとそれに従い御陵衛士となった。新選組と御陵衛士が伊東の死体を巡って争った慶応三(1867)年十一月十八日の油小路の戦いに於いては永倉が藤堂をを逃がそうとしたが、かつて交遊のあった仮同士三浦常三郎(60歳)が彼を背後から斬りつけて逃走を阻んだ。藤堂は辛うじて三浦を斬ると観念して新選組の包囲の中に取って返して戦った。そして身に十余の傷を受けて力尽き、刀を落とし、軒先の溝へ頭から落ちてそのまま死亡した。
但し異説もあり、生き延びていたとも云われている。此の説に依れば、明治時代には小田原の万福寺に滞在していたらしく、没年は大正十二〜三年とされる。此の説の出典は「歴史と旅 昭和五十一年十一月号」の「油小路の藤堂平助」によるが、元の原稿でも油小路からの脱出等について疑問を呈しており、信憑性は低い。
富山 弥兵衛
思想:尊王/攘夷
生没年:天保十四(1843)年〜慶応四(1868)年四月二日
出身:薩摩藩京都公用方周旋役内田仲之介の家来。即ち陪臣。
性格・容姿:小太りで百姓らしい体つき。元々人の良さそうな容貌で、新選組入隊後虫歯が痛むと言って歯を片っ端から抜いてしまうと、まるで人の良さそうな老人の容貌になったが、実際には新選組入隊後も間諜として薩摩藩の為に働いていた。愚直なまでの忠誠心と強い意志、慎重な性格を持つ薩摩隼人。薩摩絣を纏い、台幅の広い薩摩下駄を履き、活動し易い短い袴を履く。
特技:薬丸自顕流免許皆伝、馬術免許皆伝、柔術免許皆伝、間諜、剛力、剛胆さ、俊足
*二尺八寸の長刀の使い手。優れた技術は無かったが、柔術が得意、馬と同じ速さで走る等戦闘に役立つスキルが豊富で、大変重宝がられた。
階級:伍長
経歴:本名は四郎太豊国。京都鼠突不動尊に於て故あって人を切り、藩に迷惑を掛けまいと脱藩。新選組に入隊したが、これらは全て薩摩藩の間諜として活動する為の謀略であった。近藤は富山を疑って入隊を断ろうとしたが、薩摩藩の意を受けた伊東甲子太郎の推薦で入隊した。
新選組では、剣術の腕を活かして元隊士川島勝司の暗殺を行う等活躍して信用を得たので、間も無く伍長に昇進した。
しかし、幕府と薩摩藩の間に対立が生じ始めると、伊東らと連れだって脱退した。御陵衛士では中国方面の遊説を担当。油小路の戦いに於いては遺体引き取りに随行し、新選組の包囲を切り抜けて薩摩藩に帰参した。その後、墨染の難では近藤勇を狙撃して負傷させた。
鳥羽伏見の戦いでは、城下士一番隊に所属して鳥羽に出陣。突出し過ぎて味方の誤射を受けて背中を負傷した。その為、他の元御陵衛士が参加した赤報隊には参加していない。
戊辰戦争では越後長岡に出陣。北陸道鎮撫使参謀として北越薩摩軍を仕切る黒田了介の命を受け、探索方に任ぜられた。富山は御陵衛士時代から付き合いの有った博徒水野弥太郎の子分と称して丸腰で出雲崎の敵陣に潜入。土地の目明しに疑われて捕縛され、「大崎屋」に宿泊していた水戸諸生党隊長伊東辰之介の前に引っ立てられ、摂津屋金兵衛方で厳しい拷問を受けた。翌朝、見張りの隙を突いて脱走するが、出雲崎から八キロ離れた吉水村の草生水坂山中で追っ手に補足された。弥兵衛は奪った脇差を用いて力戦奮闘、「臆病者は数を頼むばかりだな! どうして一騎打ちをしないのか?」と嘲笑したが、深田に脚を取られた所を槍で滅多刺しに刺されて戦死した。
死後、首は出雲崎で晒し首にされたが、その脇には「薩州藩賊後也諸士の亀鑑 大丈夫の士也」と彼の勇を称える捨て札が添えられた。遺体は吉水村の庄屋山田重左衛門により、旧幕兵の目を逃れて密かに埋葬された。
後に越後口総督仁和寺宮嘉彰親王は富山の最後を山田から聞き、その戦い振りに大いに感銘を受けた宮は私財を投じて「富山神社」を設立。山田は死ぬまで祭典を欠かさなかったと云う。