中島 登
思想:佐幕/攘夷
生没年:天保九(1837)二月二日〜明治二十(1887)年四月二日
出身:武蔵八王子千人同心中島又吉と市の長男として武州南多摩郡八王子在西寺方村に生まれる
性格・容姿:義侠心に富んださっぱりした性格。
特技:絵画、北辰一刀流、天然理心流中極位目録、間諜、文才
*真剣勝負に強く、一旦抜刀したら生死を忘れてひたすら攻め抜く激しい刀法を用いる。
階級:伍長→2番隊教導役
経歴:安政三(1856)年に十九歳で下恩方村の天然理心流山本満次郎道場に入門、若くして中極位目録を得る。また、20歳の時安勝マスと結婚し、一子歌吉を設けた。
当初、幕府が武田家遺臣であり、半農半士の八王子同心を洋式部隊として再編した八王子同心隊に所属していたが、文久元(1861)年に隊内で朋輩と諍いを起こし、これを斬殺してしまう。その結果、妻子を捨てて出奔、八王子由木村東中野に住む伯父・井上益五郎の元に隠れ住む事になった。この伯父は近藤勇の縁戚に当たり、また近所には近藤の信任厚い横倉甚五郎も在住しており、一気に新選組との縁が深まり、これが後の中島の人生に大きな影響を齎す事になる。
元治元(1864)年九月、近藤が隊士募集の為江戸に下向すると、横倉と共に入隊を志願するが、横倉のみ入隊を許可された。これは、横倉は次男だが中島は長男で妻子も有る事が理由と思われる。但し、中島の熱意に打たれた(辟易した?)近藤は彼に極秘の任務を与えた。即ち、武蔵・甲斐・相模三カ国の情勢を探り、新選組に伝えると云う任務である。言わば、「少年ライダー隊員」のようなものであり、近藤としては寧ろ「危ない事に首を突っ込まず、一家を大事にしろよ」と云うメッセージを込めた名目だけの任務であろう。しかし中島はこの仕事に大いに張り切り、博徒や遊侠の徒と交流、情報収集に励んだ。お陰で親戚からは鼻摘み者として扱われ、遂には妻マスも歌吉を義父母に預けて実家に帰ってしまう等散々な目に遭ったが、その活動と熱意を近藤に認められ、時期は不詳だが上洛して新選組に入隊し、伍長に昇進した。
近藤勇捕縛に際しては、土方の近藤勇奪回作戦に従って大工に変装して近藤を捕らえた官軍(東山道総督府軍副参謀有馬藤太隊)を追尾したが、監視は厳しく虚しく帰った。
戊辰戦争時には仙台から函館に向かう土方歳三の命を受けて南部宮古湾付近に残り、諜報活動を行った。ここでは、宮古湾を一望できる月山(がっさん)に観測所を設け、隊士数名で湾内を監視した。
明治二(1869)年二月二十五日に宮古湾海戦が終結すると、函館に脱出した。以後、新選隊の前線指揮官として活躍。五稜郭降伏後は捕虜として青森蓮華寺や函館を転々とし、明治三(1870)年駿河藩に御預けとなり、やがて許された。
中島は故郷に帰ろうとしたが、偶々旧知の元彰義隊士大島清慎と出会い、遠州浜松に官吏(一説には代書屋)として出仕している彼の誘いを受けて息子の歌吉改め登一郎と浜松に住む事になった。浜松では、旧幕臣達と質屋を開いたが失敗。しかし、趣味の葉藍栽培で成功し、明治十四(1881)年の品評会では彼の出した「金玉簾」に何と一万円の値段が付いたと云う。もっとも、この葉蘭栽培は根株を馬に食べられてしまい、間も無く廃業となったが……。
また、不足気味の巡査を助けて未だ殺伐の気風の強い浜松の治安を守った。特に当時清水次郎長一家の小政が清水を追われて浜松に流れて来た為、彼らと大立ち回りを演じたとも言われている。
その功で特に許されて鉄砲火薬販売人免許を得て神明町に銃砲店「中島銃砲火薬店」を営む傍ら、共に戦った隊士の姿絵や『中島登覚書』を残して新選組研究に貢献した。島田魁や松本良順とも交信が有った。
永倉 新八
思想:佐幕/攘夷
能力値
筋力:4 器用:5
敏捷:6 知力:4
抵抗力:4 外見:3
技能:剣術(10)、剣技/神道無念流(免許皆伝)、剣技/心形刀流(初伝目録)、剣技/新選組剣術(双竜剣、向請反撃剣、草攻剣、向抜撃剣、山攻撃破剣)、兵学(4)、
*猛然と相手の懐に飛び込んで行き機敏な動きをするので「ガムシャラ新八」と呼ばれた。得意技は相手に斬らせて受け流し、あたかも頭を打たれた龍の尾が反射的に打ち返す様に切り返し致命傷を与える「竜尾の剣」や、相手の剣先と触れ合う瞬間を捉えて、篭手を斬って戦闘力を削ぐ「払い篭手」等。
*愛刀は播州手柄山氏重。
生没年:天保十(1839)年九月十二日〜大正四(1916)年一月五日
出身:江戸下谷三味線堀の松前藩百五十石、江戸定府奏者兼裕筆永倉勘次の子。永倉家は譜代の家臣ではなく、浅草の呉服屋の娘お楽(勘子(さだこ))が八代藩主松前資広の側室となった縁で採用された、と云われている。
次男として生まれたのだが、兄は夭折しているので、屡々長男と間違われる事もある。
性格・容姿:背が低く、鋭い眼光の一重瞼に逞しい鼻梁、分厚い唇、精悍な顔立ち。明るく捌けた江戸っ子。剣術が大好きで、竹刀の音を聞かないと飯が喉を通らない、と言ったと言う。斬り込みの時には定紋の五三の桐をつけた実戦用黒塗皮胴を着用する。藤堂平助、島田魁と親交有り。
階級:助勤→二番隊組長→靖兵隊歩兵頭
経歴:本名載之。江戸下谷三味線堀の松前藩邸の長屋で生まれた。子供の頃から手の付けられない暴れん坊で剣術を好み、十五歳で神道無念流岡田十松利貞に入門した。十八歳で目録を受けたが、十九歳の時脱藩して神道無念流百合本昇三道場に転がり込み、更に田崎三左衛門に就いて二十二歳で免許を皆伝された。その後、神道無念流の道場を師範代をしながら渡り歩いた。その中で江戸飯田町の心形刀流坪内主馬の元にいた時、島田魁と出会う。そして、天然理心流近藤勇道場「試衛館」に竹刀試合用食客として屡々出入りする様になり、近藤の人の良さに惚れ込んだ。
それからは近藤に従い浪士隊参加・新選組結成に中心人物として加わり、助勤に任ぜられた。以後、隊内屈指の剣客・部隊指揮官として活躍した。
また、西本願寺近くの鎌屋町に島原の亀屋のお抱え芸妓小常を囲った。小常は色白で鼻筋の通って姿形のすらりとした、物腰の柔らかい京美人であった。此の小常との間に一女を設け、お磯と名付けた。しかし、鳥羽・伏見の戦いの直前に小常は産後の肥立ちが悪く死亡。お磯とはで生き別れとなってしまった。明治三十二、三年に至って、漸く小常と永倉は再会するのだが、その時にはお磯は関西で人気の芸者「尾上小亀」となっていた。
その他にも大坂吉田屋のお抱え仲居お鹿も永倉の馴染みであった。お鹿については、永倉が吉田屋から貰い受けて親元に引き取らせ、世話をして町人の元に嫁がせたという。なお、お鹿は芹沢に髷を斬られた事があり、その為に永倉は元来仲の良かった芹沢を恨むようになったとも云われている。
元治元(1864)年長州藩の間者と見られた隊士荒木田左馬亮を暗殺。
同年六月五日の池田屋事件では一階台所付近を固め、裏口から逃れようとする浪士を多数斬り、鎖帷子がぼろぼろになり刀が折れるまで奮戦し、左手親指を殆ど切り落とされかかった。
禁門の変では、実戦の機会は無かったものの残党狩りに活躍。逃げ遅れた長州兵が蛤御門付近の日野家に立て篭もって発砲するのを、永倉が隊士を率いて突入・排除する一幕もあった。
慶応元(1865)年の新編成では二番隊組長となり、活躍した。やがて沖田総司が病床に就くと一番隊組長を兼任、多くの優れた隊士が死んで行き、何時しか彼は新選組一の剣豪とされる様になった。
慶応三(1867)年十一月十八日の油小路の戦いに於いては旧友藤堂を助けようとしたが果たせなかった。
鳥羽・伏見の戦いでは、副長土方が局長を代行したので、原田左之助と共に実戦の指揮を行った。ちなみに新選組10組長の内6名が前線に立てず、この指揮官不足が新選組の活動を制約したのは免れない。特に大量の脱走者を出してしまったのは、必ずしも「時勢」という漠然とした物の影響によるものばかりとは言えない。指揮官の不足や新選組成立当初と違い幹部が隊士を構いつけなくなった事に端を発する結束力の低下よる所も大きかったのではないだろうか。土方の局長権威・副長権力拡大はここに大きな欠点を露呈してしまったのである。この時の前線指揮官3人(永倉、斉藤一、原田)らが何れも近藤・土方を見捨てて自分の道を歩んだのは、この辺の事も関係があるのかも知れない。
永倉は前線では勇敢に戦い、新選組の名を高からしめた。特に、大坂に敗走する際には殿を務め、襲い来る敵を退けながら撤退した。その働きぶりは、古の名将にも匹敵すると賞賛された。その後も近藤に従って甲陽鎮撫隊に加わり、沖田亡き後の新選組の名声を独占した感があった。
しかし、近藤が自分達を家来の様に扱う事に腹を立て、新たに別の隊を作って近藤・土方を同列に据えようとしたが、近藤・土方は反対した。永倉は彼らに愛想を尽かせて決別し、彼は原田と共に旧友の幕臣芳賀宜道を隊長とする佐幕派部隊「靖兵隊」に加わった。靖兵隊は脱走歩兵と連合して宇都宮を攻撃。四月二十二日、宇都宮から安塚に出撃するが、この戦いで永倉は負傷した。その後、今市で官軍と戦うが敗北。靖兵隊は解散して芳賀と永倉は会津に退却した。しかし、会津では既に籠城が開始されており、入城出来なかった二人は米沢に身を寄せる。ところが、今度は米沢藩が官軍に降伏してしまったので、進退極まった永倉と芳賀は十一月には江戸市中に潜伏。芳賀が死亡してしまったので、永倉は従弟の長倉嘉一郎に松前藩への帰参斡旋を願い出た。当時江戸にあって全権を握っていた家老下国東七郎は、近い内に本土の藩兵を集めて海路英国船を使って松前に帰り、再編成を行う計画を立てていたので留守を預けられる優れた人物の登場を喜び、五十石で帰参を認めた。そして、一旦帰国後再び上京した下国は藩兵の練度規律の高い事に感銘を受け、永倉を曹長に任命した……とは永倉の手記「文久浪士報国記事」に依るのだが、藩兵部隊の小隊長は少尉で、曹長は精々半隊長でしかなく、とても家老職の人物が感動して与えた地位とは思えないのだが……。
明治維新後は東京に住んだが、明治二(1869)年、出世した鈴木三木三郎と再会。平静を装って挨拶したが、内心は震えが止まらなかったという。元来新選組きっての剣客と呼ばれた永倉の剣術は鈴木等よりも遥かに優れている筈なのだが、時勢の勢いとは恐ろしい物だ、と本人も後に述懐した。
これに危険を感じた永倉は、明治三(1870)年、北海道に渡って下国の斡旋で藩医杉村介庵の娘きねと結婚、養子として松前藩に正式に帰参した。
明治八(1875)年、義衛と改名し、杉村家の家督を相続。なお、義父介庵も隠居に伴って名前を松柏に改めた。
廃藩置県後は無職だったが、困窮した士族を救済する為に柿崎多浪を中心に作られた私兵部隊「継述隊」に誘われ、幹部として参加した。継述隊は攘夷思想を奉じて集まった部隊であり、軍事教練の傍ら議論を重ね、遂に政府に攘夷を迫ろうと三条実美卿に直訴をせんと計画した。此を聞いた元家老下国は慌てて此を説得し、部隊を解散させた。
明治十五(1882)年北海道月形村の樺戸監獄に剣術師範として招かれた。明治十九(1886)年退職し、上京して牛込に道場を開いた。明治三十二(1899)年北海道小樽に行き、新選組当時の名声を聞いた北海道大学剣道部員らに請われ、家人の止めるのも聞かずに鉢巻姿で股立を取り、札幌の北大演武台で往年の型を示して学生らを唸らせたりしつつ、大正四年一月五日大往生を遂げた。死因は虫歯を拗らせて骨膜炎から敗血症を起こした為。
中西 昇
思想:尊王/攘夷
生没年:天保十三(1842)〜????
出身:武蔵国川越
階級:伍長
経歴:深川佐賀町の北辰一刀流伊東精一道場で内海次郎と並んで師範代を勤め、伊東甲子太郎の先輩に当たる。
伊東の新撰組加盟には半年程遅れたが、此は伊東道場の道統を後輩の甲子太郎に継がれ、含む所が有ったからであるとも云われている。
新選組加盟後は当初四番隊に参加し、後に斎藤の配下に編入。慶応元年七月には小路平三郎と共に、京都に潜伏した長州藩士石津茂一郎を捕らえ、翌年九月の三条制札事件には原田左之助隊に属して戦い、二十両の恩賞金を得た。
伊東が御料衛士を結成する為に脱退すると、此に従って新選組を脱退。しかし、御陵衛士には加わらず消息を絶った。阿部十郎は彼が佐原太郎を暗殺したと言い残している。
新見 錦
思想:尊王/攘夷
生没年:天保六(1835)年〜文久三(1863)年九月五日
出身:水戸藩下級武士
性格・容姿:性格は芹沢を小型化したかの如く横暴で傲慢。
特技:神道無念流免許皆伝
階級:局長
経歴:本名田中伊織。剣術を初め神道無念流岡田助右衛門に学び、後に芹沢鴨に師事した。最も古くから芹沢と付き合っており、腕はかなりの物とされた。新選組結成時には局長に任ぜられた。その後も芹沢について遊廓に行って乱暴を行い、新選組の評価を貶めた。文久3年7月頃、土方歳三の密命を受けてその乱暴を探っていた平同士赤沢守人を暗殺したが、それがきっかけで間もなく祇園の料亭「山の緒」にて土方らに切腹させられた。
なお、この切腹劇には異説がある。「山の緒」の宴席には芹沢も同席していたと云う物だ。
実は、芹沢が前々から狙っていた芸妓を新見が手に入れ、「山の緒」に芹沢・近藤を招いて見せびらかした。面白くない芹沢は不機嫌になり、それを見た土方歳三は好機到来とばかりに芹沢を扇動し、新見と対立させ、芹沢から新見の隊規違反の証拠を引き出し、芹沢自身の手で新見に対して切腹の申し渡しをさせた。介錯は芹沢の腹心平山五郎、介添えは藤堂平助であったと言う。
沼尻 小文吾
思想:中立/中立
生没年:天保十四(1843)年〜明治三十五(1902)年
出身:上州高崎藩浪人
性格・容姿:慶応二(1866)年二月十二日以降は首が横向きになります。
特技:奥山念流剣術
階級:伍長
経歴:元治元(1864)年十月江戸で入隊し、五番隊に配属される。当時二十一歳。
慶応二(1866)年二月十二日、河合耆三郎の斬首を行うが、一回目は肩口に当たり、二回目も斬り損ねて頭に当たり、三度目でやっと首を落としたと云う。この時、「人間、あれ程悲しい声が出るものとは思わなかった」と述懐したが、三回も斬られたらそりゃー悲しくもなろうと思わなくも無い。後に伏見の寺田屋に出掛けた際、潜り戸から頭を出した所を斬られ、重傷を負う。噂では、これは河合の父親が雇った刺客とも言われているが、真相は定かでは無い。幸いな事に沼尻は命を取り止めて戦線復帰するが、治療の際に首がやや曲がってくっ付いてしまったので、「横向き小文吾」と綽名される事になった。
鳥羽伏見の戦いから退却した後、江戸で新選組を脱走。その後の消息は不明だが、一説に依ると明治三十五年に老衰死しているとも。
野口 健司
思想:尊王/攘夷
生没年:天保14(1843)年〜文久3(1863)年12月28日
出身:水戸藩浪人
性格・容姿:軽薄な人物。痩せていて背が高い。
特技:神道無念流目録、学問
階級:助勤
経歴:神道無念流百合本升三に学び、目録を得る。此処で一時期永倉新八と同門であった。その後芹沢鴨と知合い、その子分として活躍。文久3年9月18日に、芹沢派が粛正された際には偶々角屋で泥酔して宿泊した為、屯所を離れており難を逃れた。これは永倉に同門の好で見逃して貰ったのだとも云う。同年12月28日に安藤早太郎の介釈で切腹させられた。一説によると、原田左之助による暗殺とも言われている。
野村 利三郎
思想:佐幕/攘夷
生没年:弘化元(1843)年〜明治二(1869)年三月二十五日
出身:美濃大垣浪人
性格・容姿:性格は剛直で、酒を好んだ。同じ局長附き相馬主計とは、親友であった。
特技:なし
階級:局長附人数→陸軍隊兵士→陸軍奉行添役
経歴:理三郎、源義時。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。
翌年一月の鳥羽伏見の戦いに参戦し、その後も局長近藤勇に従って転戦。同年四月に近藤が流山で官軍に投降すると、従者として同行した。近藤が官軍によって斬首されると、局長の助命嘆願に来て捕縛された相馬と共に釈放された。小者と侮られた為であろうか。近藤の処刑を目の当たりにして復仇を誓った野村は、江戸に帰ると春日左衛門の陸軍隊に参加し、海路江戸を脱出した。奥州に渡った陸軍隊は平潟方面での戦いに加わった。その後、陸軍隊は榎本艦隊に参加し、蝦夷地に渡った。そして蝦夷地で土方歳三に合流、以後は陸軍奉行介添役=土方の副官として活躍した。
明治二年三月二十五日、土方に従って回天に乗り込み、宮古湾海戦に参加。甲鉄に切り込んで討ち死にを遂げたとも、海に落ちて死んだとも伝えられている。