橋本 皆(会)助
思想:尊王/攘夷
生没年:天保六(1835)年〜明治五(1870)年
出身:大和添下郡郡山藩三十石取橋本兵司の弟
性格・容姿:酒好きで剛胆。傲慢で金に汚く、出世欲が強い。天狗党で百人の幕兵を斬ったが、誇らなかった。身の丈六尺の逞しい体つきで、殺人者特有の傍若無人な刺すような眼差しが特徴的。
階級:平同士→伍長→高台寺党隊士→陸援隊隊士→御親兵軍曹→二条城中人数取締役→兵部省軍防裁判所頭取助役兼追捕手取
特技:北辰一刀流目録、剛胆さ
経歴:本名藤井勇五郎。元天狗党の一員で実戦経験が豊富。若い頃酒代に困り、自慢の胴田貫を抵当に借金をしていたと言う。一生飼い殺しの部屋住みの身を悔やみ、出世を望む。元治元(1864)年に脱藩、天狗党に参加した。同年秋、潮来方面で幕府追討軍と戦い、得意の薙刀を振るって活躍したが、本隊とはぐれてしまい、暫く潜伏していた。その内に天狗党は壊滅してしまい、また蛤御門の変が起こって尊王派の衰退が明らかとなったので、京に逃れて新選組に参加した。
新選組では七番隊に配属。三条制札事件に於いては乞食に扮して制札近くで待ち伏せ、浪士が来た所を堂々と挨拶までしてすり抜け、他の所に集合している原田左之助・新井忠雄の部隊に急を知らせ、伍長に抜擢された。また隊命で同事件において臆病の振舞いのあった浅野薫を原田左之助と共に暗殺した。
その後伊東甲子太郎に従い新選組を脱退し御陵衛士となる。更に水野八郎と名乗って陸援隊に入隊、巧みに両属の姿勢を保った。その為、油小路の戦闘には参加しなかった。慶応三(1867)年十月十五日には新選組に薩長及び十津川郷士挙兵の情報を送ったが、坂本竜馬暗殺事件後には、土佐藩在京参政神山左太衛と協力し、近藤勇の命令で陸援隊に潜入していた新選組隊士村上謙吉を摘発した。村上は激しい尋問の末、斬られた。陸援隊隊長中岡慎太郎の死後、伍長に取り立てられた。
慶応四(1868)年には新政府に仕え御親兵軍曹に就任し、二条城中人数取締役に任ぜられた。戊申戦争中は、降伏した小田原藩の公金管理を任された。明治に入り、東京で兵部省軍防裁判所頭取助役兼追捕手取(八人扶持)に昇進。しかし、すぐに小田原藩の公金管理上の手落ちを発見され禁固刑に処せられた。恐らく慣れない会計業務に失敗したのだろうと思われる。明治二(1867)年九月に放免され、大和郡山藩への復帰を命ぜられたが、藩としてはかつての脱藩者であり、今また公金横領という不名誉な疑いまである者等に用はなく、禄も出さず、職にも就けなかったので、実兄の家で居候させられた。
明治五(1870)年、京都の料亭で病死とも切腹とも殺害とも言われる謎の死を遂げた。その墓はwikiに依ると奈良県郡山市の常光寺に有り、お参りすると腹痛が治るとされているらしい。
服部 武雄
思想:尊王/攘夷
能力値
筋力:6 器用:6
敏捷:5 知力:3
抵抗力:6 外見:3
技能:剣術(9)、剣技/北辰一刀流(免許皆伝)、槍術(6)、格闘(4)、学問(5)、肉体抵抗(4)、精神抵抗(4)
*五人十人を相手にしても屈しない剣の使い手で、入隊後は沖田総司を凌ぐ剣客とされたが、新選組に留まる期間が短い為に新選組一の剣客と言われる事は少ない。
生没年:天保三(1832)年〜慶応三(1867)年十一月十八日
出身:播磨赤穂浪人
性格・容姿:無口で大柄。坂本竜馬と交遊有り?
階級:剣術師範頭・五番隊隊士→高台寺党隊士
経歴:一説によると、赤穂藩森家では老臣某が政治を専横していたので、若くして尊王思想を持つ服部は彼を斬って脱藩したという。その後江戸に行き、神奈川奉行所に勤める間に篠原泰之進らと知り合う。その伝手で伊東甲子太郎の門人となり、伊東と共に新選組に入隊。剣術師範頭に任ぜられ、五番隊に配属された。
三条制札事件に於いては目付役として出動、報償を得た。また慶応元(1865)年の近藤勇の広島出張に同行した。その後伊東に従って御陵衛士となった。彼の武勇は新撰組でも高く評価され、早急な御陵衛士討伐を主張する土方歳三に対して近藤勇が「下手に手を着けると服部武雄等が恐ろしいから」と宥めて慎重な作戦を採ったとも言われている。
油小路の戦いに於いては新選組との決戦を主張、彼のみ篠原泰之進の指示に背き鎖帷子を着込んでいた。新選組が御陵衛士に襲いかかると、「此処は引き受けた」と叫んで同志の退却を支援。彼は馬乗提灯を腰に差して辺りを照らしつつ、新選組の包囲に乗り込んで民家の門柱を背にして三尺五寸という長めの刀と脇差の二刀を振るって斬りまくった。その活躍は凄まじく、目撃者の証言では、七、八人の新選組が討たれたとも言う。しかし足元の死体の為に進退の自由を失い、路上に出ようとしたところを、原田左之助に長槍で貫かれて死亡した。彼の死体は20余の傷を負っていたが、死顔は平然たるものであったと言われている。その懐には、無造作に坂本竜馬追悼の詩の原稿が押し込まれていたが、皮肉な事にそれはそのまま彼の辞世の句となってしまった。
林 信太郎
思想:中立/中立
生没年:不明
出身:大坂商人
性格・容姿:軽薄。山崎烝の従兄弟。
特技:地域知識(大坂)
階級:監察→伍長→靖兵隊伍長
経歴:新選組草創期に入隊し、監察に任ぜられた。後に従兄弟である山崎烝の入隊を手引した。池田屋事件に於いては土方隊に属してそこそこ活躍した。
鳥羽伏見の戦いに参戦し、甲陽鎮撫隊解散後は永倉新八の靖兵隊に参加し伍長となった。靖兵隊解散後は土方歳三に従い函館まで戦い、戦後京都に戻って新選組屯所であった八木邸に赴いて山崎を水葬にしたと語った。その後、水戸街道で何者かに殺害された。
原田 左之助
思想:中立
能力値
筋力:6 器用:4
敏捷:3 知力:1
抵抗力:5 外見:6
技能:槍術(7)、剣技/種田流槍術(免許皆伝)、剣技/田宮流抜刀術(切紙)、剣技/新選組剣術(双竜剣)、剣術(5)、肉体抵抗(4)
*腕はさほどでもないが、実戦に強い。剣術は伊予に伝わる田宮神剣流。
生没年:天保十一(1840)〜慶応四(1868)年五月十七日
出身:伊予松山十五万石城下矢矧町、松山藩下級武士原田長次の子。
性格・容姿:さっぱりした性格で、権威・栄達に無関心のきっぷのいい男。しかし、一度勢いがなくなると、いつもの明るさを失ってしまう粘りのなさも持っている。切れ長の目の苦味走った美男子で、身長も高かったという。ついでに大食い・大声。口癖は「切れ、切れ」だったと言う。定紋は彼の自慢の切腹体験を気取って丸に一文字。
階級:助勤→十番隊組長→靖兵隊歩兵頭
経歴:諱は忠一。長じて藩最下級の身分である中間に成る。安政二(1855)年、江戸詰を命ぜられて出府。三田一丁目の松山藩邸に務める。利口で気が利いたので、目付に附属して両刀を帯びる仕事にも付いたが、若輩ながら常に目上の者に歯向かい、或時等は出先から酒気を帯びて帰邸し、粗暴な振る舞いが多い事を目上の者が注意した所、口答えをしたので中間仲間で私刑(土間で裸にされて後ろ手に縛られ、水責め)を受けた事もあった。
間もなく国元に帰り、藩校明教館の助教中島隼太に若党として仕える。その後も奇行は収まらず、両刀をたばさむ若党の身分にありながら、褌一丁にオランダ式軍楽隊の太鼓をベルトで提げて、桴でドンドン鳴らしながら、上士の屋敷町を歩いたりした。そして遂に安政五(1858)年、中島家より暇を請うて急に脱藩した。脱藩の際に如何なる事件があったのか、道中の駕籠の中で切腹を図り、すんでの所で命拾いをする。これは彼の生涯の「持ちネタ」となり、酒を飲む度に着物の腹をはだけて、縫い目の残った大きな傷口を見せびらかし、「オレの腹は金物の味を知って居るんだ」と凄んだ。
その後、大坂で谷三十郎の道場で種田流槍術を学んだ。更に江戸に出て、天然理心流近藤道場「試衛館」に内弟子として住み着いた。其の儘新選組結成にも加わり助勤に任ぜられ、沖田総司に次いで隊の中枢である近藤・土方歳三に信頼される暗殺者・小隊指揮官となった。
元治元(1864)年、長州藩の間者と見られた隊士楠小十郎を暗殺。また池田屋事件では土方隊に属してそこそこの手柄を立てた。また同二年三月末、菅原まさと結婚し、本願寺筋鎌屋町七条下ルに休息所を構えた。鎌屋町は新選組の屯所が有った西本願時からも至近で、彼はそこから黒い木綿の紋付きに小倉の馬乗袴を履いて屯所に出勤した。この翌年男子茂が生まれた。大層子煩悩で、後年鳥羽伏見の戦いに際しての最後の別れの時には、「茂を立派な武士に育ててくれ」と繰り返し言い残して去った。
慶応元(1865)年夏、新選組が再編されると十番隊組長に任ぜられた。十番隊は沖田の一番隊と並んで最も出動回数の多い精鋭部隊とされており、原田に対する近藤・土方らの信頼の厚さが窺える。
三条制札事件にも参加。土佐藩士が制札を投げ捨てるのを確認するや、銃を一発撃って合図とし、部下を切り込ませた。
鳥羽・伏見の戦いでは永倉新八と共に実戦部隊の隊長として活躍。甲陽鎮撫隊にも参加している。
しかし、甲陽鎮撫隊解散後、永倉と共に江戸を放棄して会津に退却するよう進言したところ、近藤は「部下」からの指図がましい進言は無礼であると拒絶。「諸君が私の家来になると誓うのなら同行しよう」と云った為、我々は同志であって部下ではないと主張して新選組を離脱した。
脱退後は永倉と共に「靖兵隊」に加わったが、隊長の芳賀宜道と永倉が同門の神道無念流で更に幼馴染みである事からここでも疎外感を感じた彼は、ここも間もなく脱退し、江戸に潜伏した。原田は一時は京都に帰って妻子と暮らそうかとも考えたが、東海道に於ける官軍の取調べは厳しく、江戸から脱出する事は叶わなかった。仕方なく上野章義隊に加わり、負傷して江戸市中に潜伏中、本所五間堀掘留(現在の江東区森下三丁目)の旗本神保山城守邸に於いて銃傷悪化して死亡した。
しかし、子母沢寛はその著書「新選組遺聞録」に彼が生き残って奥州を転戦し、明治末期まで生き残り、日露戦争に軍夫として第八師団に従軍した(この話は、当時から話題となり、師団長立見尚文中将も興味を示して調査したが、ついに判明しなかった)と言う話も併記している。
この説に依れば、原田は上野彰義隊に参加し、輪王寺宮公現親王の警護役となった。しかし、救出に来た榊原鍵吉に従って上野を脱出したらしい。江戸市中では新門辰五郎の家に身を隠し、新潟行きの船に乗った。恐らく、関東に充満している官軍兵士の監視を避けつつ、北越戦線への参加を計った物と思われる。しかし、間もなく長岡城も陥落したので、更に下関を経由して朝鮮半島の釜山に上陸、元山に行った。元山で二年間を過ごし、鴨緑江を経て奥地へ向かった。そして、此処で「田大人(でんたいじん)」と名を改めて馬賊の大頭目徐福霖に従い、部下六百を持つ隊長とまで成った。
日清戦争に際しては日本の特務機関と協力して後方を攪乱した。
日露戦争に際しては、日本軍から派遣された花田仲之助と協同してロシア軍を悩ませた。戦後は根拠地を鉄嶺に置き、日本の大陸進出を助けた。
また巷説では、明治四十年頃、郷里の松山に飄然と現れ、健在だった一族を訪ねて廻ったと云う。原田は実弟等に会って金品を与えたが、実弟は兄が坂本龍馬を暗殺したと云う俗説を信じていたので、後難を恐れて態と余所余所しく対応したと云う。意気消沈した原田は、「鉄嶺に帰る」と言い残して立ち去った。
妻まさは昭和五年八十四歳で死去。長男茂は明治三十七年朝鮮で死去。
土方 歳三
思想:中立/中立
能力値
筋力:5 器用:6
敏捷:5 知力:6
抵抗力:5 外見:5
技能:剣術(9)、剣技/天然理心流(目録)、剣技/新選組剣術(全て)、捜索(3)、薬学(3)、体術(4)、馬術(4)、兵学(11)、国学(1)、肉体抵抗(2)、精神抵抗(7)
*構えは天然理心流の基本でもある平青眼。但し、右寄りの癖が強過ぎ、その他にも天然理心流の定法に反した我流の癖が多かったので、実力は免許皆伝に十分だったが目録を与えられるに留まった。沖田総司程の技量はないが、両手下段からの擦り上げ技を筆頭に瞬発力のある連続技を的確に出す。愛刀は和泉守兼定。
*自作の俳句を集めた冊子を『豊玉集』と名付け隊務の合間に俳句を書き記していた。
生没年:天保六(1835)年五月五日〜明治二(1869)年五月十一日
出身:土方義諄の四男。母は恵津。武蔵多摩郡石田村の豪農喜六に養育された。
性格・容姿:冷酷非常で新選組という組織を維持する事に情熱を燃やす軍隊フェチ。思想という物が嫌いで、理論よりも現実をする実務家。恐ろしく執念深く、新選組の獲物を追い詰める時の粘り強さはここから生み出されている。目が細く切れ長で、のっぺりした顔をしている。髪は真っ黒でふさふさ、目はぱっちりとして引き締まっており、役者の様な優しい顔で、屡々若く見られた。定紋は丸に三巴。
女性関係は意外と派手で、京都の遊郭では優れた容姿とさっぱりした遊び方で大層もてたという。其の一方で、故郷には病弱の為に14歳で婚家から戻された姪が居り、娘盛りを楽しい事も無く過ごす彼女を可哀想に思い、京都から着物や小間物を度々送り、江戸に帰った折りには京都土産を持って訪ねたりしている。屹度、娘の方も土方の事をお兄ちゃん等と呼んで懐いていたに相違有るまい……って、そりゃサイトがちがうって(^^;)。
階級:副長
経歴:本名義豊。幼い頃は江戸の商家に丁稚奉公に出されていたが、女中と色恋沙汰を起こしてそれを堂々と処理して実家に戻り、以後は土方家に伝わる「石田散薬」を売り歩きつつ諸方の剣術道場で修行した。20代に天然理心流近藤周助道場「試衛館」に入門。近藤勇とは親友。
近藤周助から免許は皆伝されなかったものの、技量は沖田総司に次ぐと言われた。新選組結成・維持の中心人物で、近藤を助けて局中法度を厳正に運用して隊の規律を守った。更に芹沢鴨派粛正に際してもその謀略の才を生かし、以後実質上の指揮官として腕を振るった。
池田屋事件に於いては料亭丹虎に20余名を率いて向かった。
幕府医師松本良順が屯所の衛生環境を改善するように忠告すると、夕方にはこれを実施して良順を驚かせた。土方の合理的で果断な性格を知らしめるエピソードである。
新選組が強大になっても自ら先頭に立って指揮を取り、慶応ニ(1866)年十月の大沢源次郎捕縛に際しては自ら出動し、慶応三(1867)年の天満屋事件では自らも剣を取って戦った。
その後、鳥羽・伏見の戦いで奮戦するも、銃器主体の戦闘に会って振るわず。特に洋式兵法に対しての理解不足が目立ち、例えば開戦を前に火力の優れた歩兵隊が新選組に先鋒の交替を求めたが、土方は此を拒絶した。お陰で、幕府歩兵隊は折角優勢な火力を持ちながら新選組が邪魔で火力が発揮出来ず、虚しく敵砲兵の餌食となってしまい、逆に新選組は薩長軍の火力に押されて敗退した。この事実は土方に相当の衝撃を与えたらしく、江戸に退却して後、佐倉藩の儒者依田学海に向かって「これからの戦争は銃器だ」と語ったと云う。
江戸退却後は、甲陽鎮撫隊に参加。官軍に甲府城を先制されると、神奈川に取って返して菜っ葉隊に協力を仰いだが、拒絶された。
甲陽鎮撫隊が解散すると、近藤に従って流山に布陣。新選組残党と共に農兵隊を組織して時節を待ったが、間も無く官軍が到着して近藤は降伏。土方は抗戦を主張して近藤に受け入れられず、止む無く江戸に出て勝海舟を頼った。しかし勝は近藤の近藤の助命を拒否したので、関東に脱出して旧幕陸軍の脱走兵と合流した。
以後、自ら新選組の生き残り達を率いた。この時、隊士には「温和ニシテ人ノ帰スル事赤子ノ母ヲ慕フガ如シ」と評価された。以後、「新選隊」は洋式装備を導入し、土方自身も洋装に身を固め戊辰戦争・箱館戦争を転戦し、戦上手として官軍に恐れられた。特に二股口では官軍の大軍を3万5千発の猛射撃で食い止め、勇名を馳せた。しかし明治二(1869)年五月十一日、官軍は土方の戦術の才を上回る大戦略を立て、五稜郭南方の箱館山に奇襲上陸を敢行した。不意を打たれた土方は、少数の旧幕歩兵を率いて一本木関門に出陣。退却する兵士を睨み付け、「此処より後ろに下がる者は斬る!」と叱咤激励したが、頽勢は覆らず、流れ弾を受けて戦死した。戦後、彼と戦火を交えた官軍指揮官黒田清隆は「おいは、これからの日本陸軍に土方を使ってみたかった」と其の戦術の才能を惜しんだとも云われている。
平間 重助
思想:尊王/攘夷
生没年:文政七(1824)年〜明治二十三(1890)年
出身:常陸国行方郡芹沢村
性格・容姿:下戸
特技:神道無念流目録
階級:勘定方取締
経歴:平間氏は元々武蔵国橘樹郡平間村の豪族で、戦国時代に芹沢氏が活躍するとそれに従って重臣となり、芹沢氏が常陸に土着するとこれに従った。重助もまた芹沢鴨家の近傍に生まれ、若くして芹沢に剣術を師事し、その子分として活躍。新選組の初期の編成では会計の長である「勘定方取締」を勤めた。
文久三(1863)年九月十八日、屯所にて芹沢鴨が暗殺された。輪違屋の遊女糸里と共に別室で寝ていた平間は下戸であった為深酒を飲んでおらず、暗殺を免れた。しかし流石に混乱は免れず、事件直後に褌一丁に抜き身の刀を構えて犯人を探して大声で叫び廻り、八木家の住人を驚かせた。
ちなみに同衾していた糸里は大人しい女性で、同じ遊女の小栄等と屯所を訪れても、小栄が芹沢の情婦お梅と共に勝手口で遊んでいるのを他所に、玄関左手の真っ暗な寝部屋でじっと平間の帰りを待っていて家人に驚かれたと云う伝説も残っている。
さて平間だが、彼は事件以後行方不明となった。恐らく、そのまま京都を脱出したのであろう。明治に至って諏訪部重助と偽名を名乗り、農蚕巡回教師となった。その後、明治二十三年秋に岩手県米里村に於て脳溢血で死亡した。駆け付けた妻子の様子から、生活は裕福であったと予想される。
平山 五郎
思想:尊王/攘夷
生没年:文政十二(1829)年〜文久三(1863)年九月十八日
出身:播磨姫路浪人
性格・容姿:火傷で左目が潰れている為、何時も顎を上げて首を心持ち左に落としており、「めっかち五郎」と呼ばれた。
特技:神道無念流免許皆伝
*片目だと思って目が見えない左手から打ち込まれると、これを受けて猛然と切り返して勝つという手をよく使う。見える方の右手から打ち込まれると意外と弱いという。
階級:助勤
経歴:故郷にいた頃、花火の暴発で左目を潰してしまった。その後神道無念流斉藤道場「練兵館」にて剣術を斉藤弥九郎より学び、免許を皆伝された。新選組結成の頃、同門の芹沢鴨と知合い、その子分となった。
永倉の手記「浪士文久報国記事」によれば、文久三年九月下旬の某日夜8時、備前藩警備区域の四条堀川西入ルの米屋に鉄砲を持った強盗が侵入。新選組に出動命令が下り、永倉新八、斎藤一、中村金吾、山野八十八らと共に現地に急行。当初火縄銃の存在を知らずいきなり射撃を受けて混乱したが、すぐに抜刀して斬り合いとなった。中村・平山は奮戦して刃がボロボロになってしまい、後日研ぎに出したと云う。また、朝廷からも褒賞を受けた。
その後も芹沢派の用心棒的な剣客として重きをなしたが、文久三(1863)年九月十八日、屯所において桔梗屋の遊女小栄と休息中、山南敬助・原田左之助の両名により暗殺された。
小栄は島原遊女の中では天神の地位にあり、太夫に次ぐ高位の遊女であった。芹沢の情婦お梅と同年代と云うから、年齢は22、3歳か。可愛らしく明るい女性だったと言われている。事件に際しては手洗いに行っており、無事だった。