前野 五郎
思想:中立/中立
生没年:弘化2(1845)年〜明治25(1892)年4月19日
出身:阿波徳島藩250石6人扶持前野健太郎自敏の次男
性格・容姿:不明
特技:馬術、刀剣鑑定、射撃
階級:伍長→靖兵隊伍長→薩軍付属
経歴:名は大人。阿波徳島城下中ノ丁に生まれる。慶応元(1865)年、大坂で新選組に入隊、伍長となる。慶応3年12月7日の天満屋騒動にも参戦。鳥羽・伏見の戦い以降も新選組に属して転戦したが、甲陽鎮撫隊参加後、新選組を脱し靖兵隊に参加、伍長に任ぜられた。その後靖兵隊に付いて関東を転戦したが、薩摩に属していた元新選組伍長加納道之助に投降、薩摩軍付属となった。
明治2(1869)年7月北海道開拓使が設置されると判官岡本監輔の推薦で参加したが、明治4年2月には官を辞し札幌薄野で妓楼を営んだ。此の妓楼は同6年の所得番付で上位にランクされるほど繁盛した。この間、山田富久子と結婚、四人の男児を得る。また、自治会長の様な役職に就いたりもした。明治24(1891)年10月に岡本と再会した前野は、岡本の千島開発計画に共鳴、私財を投じて「千島救済会」を設立。エトロフ島に渡ったが、明治25年4月19日、沙那郡磯谷山中で橋から転落し、その際に猟銃が暴発して事故死した。
馬越 三郎
思想:中立/中立
生没年:天保十九(1848)年〜????
出身:阿波徳島浪人
性格・容姿:全く絵に見る様な若衆で、笑うと両頬に小さな笑窪が出来た。笑う時でも恐れる時でも表情はまるで少女の様であったと言う。服装も奇妙で、非番で遊びに出かける時には紫色の着物に大きな模様の付いた袴を付けて出たと言う。当時16歳。隊中美男五人衆の一人。
特技:剣術
*剣を取るとまるで別人の様であったと言う。
階級:平同士
経歴:男色家武田観柳斎に思いを寄せられて苦慮し、土方歳三に訴えると、土方は事態の処理を武田と比較的仲が良く監察という地位にもある篠原泰之進に押し付けた。篠原が困っていると仲のよい斉藤が聞きつけ、斬ってしまおう等と騒ぐのを今度は篠原が宥めに回ると言う一幕もあった。篠原泰之進42歳、なかなか苦労が絶えない。
しかし、この事件は間もなく決着が付いた。ある夜、近藤勇の私用を仰せつかって誓願寺に行った帰り、馬越はたまたま薩摩藩邸を通りかかったが、その際彼はそこから武田が出て来るのを目撃した。馬越はすぐ近藤に密告した。近藤はその情報を元に武田を監視、やがて武田の裏切りを確信し斉藤、篠原による暗殺の運びとなった。
その後隊内で馬越の密告によって武田が暗殺された事が知られ、隊内の旧武田派が彼を酷く憎んだので、土方は馬越に脱退を勧告した。馬越は今更田舎に帰るのは好まなかったが、土方の命でもあるので相当な額の土産を貰って脱退した。
維新後は横浜に出て退職金(?)を元手に硝子商人になって大成、明治20(1886)年に立派な商人の姿で壬生屯所前に現れ、八木一家と会ったが、当時既に40に近い筈なのに彼はまだ20代後半にしか見えなかったと言う。
松原 忠司
思想:中立/攘夷
能力値
筋力:5 器用:4
敏捷:6 知力:2
抵抗力:5 外見:2
技能:剣術(5)、拳(7)、脚(6)、剣技/関口流(免許皆伝)、剣技/新選組剣術(双竜剣、向請反撃剣、草攻剣)体術(8)、交渉(3)、肉体抵抗(3)
*太っている割には身が軽い。
生没年:????〜慶応2(1866)年4月20日
出身:元播州小野藩士
性格・容姿:坊主頭・肥満体で、声がでかい。快活で親切者として親しまれており、壬生では「親切者は山南・松原」と言われていた。篠原泰之進、山崎蒸と親交有り。
階級:助勤→4番隊組長
経歴:元播州小野藩士であったが、事情有って浪人となり、京橋口の大坂奉行所近辺の関口流柔術平野源左衛門の道場に居候となった。
その後、免許を得て道場を開き、それなりに門弟も集まって繁盛していたと云う。
しかし、新選組が発足すると勃然と報国の志に目覚め、平野道場の仲間であった山崎蒸を頼って新選組に入隊した。以後副長助勤として活躍し、文久3(1863)年の8月15日の政変に於いては薙刀を持って先鋒を駈けた。池田屋事件に於いては土方隊に属したが、池田屋に駆け付けると階上に上って藤堂平助と背中合わせで戦い、藤堂が土佐浪士によって眉間を割られると自らの対峙している敵を捨ててその位置で翻って土佐浪士を切り、再び向き直って自分の敵の刀を受け、その間はまさに一瞬だったと言われている。
しかし、それが彼の全盛期であった。ある時、祇園から酔って帰る途中些細な事で浪人安西格右衛門と諍いとなり、安西を切ったが、酔いが覚めると後悔して死体の身元を調べ安西の家まで運んだ。出迎えたのは、安西の妻だったが、大層な美人で、一目惚れした松原はまさか自分が斬ったとも言えず、咄嗟に浪人者に斬られたと言い誤魔化した。また安西には2才になる男の子がおり、病気がちだったので、根が親切な松原はその後も屡々その家に通って親切に面倒を見た。やがて男の子は病死し、松原は妻を慰めた。
その内に妻の方も松原を憎からず思うようになり、結婚するかと思われたのだが、隊内では「松原が安西の妻女に横恋慕して邪魔な安西を斬って親切ごかして近付いた」と噂され、特に土方が松原攻撃の先鋒に立った。松原は怒って屯所で切腹したが友人の篠原泰之進に止められて失敗し、士道不覚悟を以て平同士に落とされた。
その後の松原はふてくされて往年の快活さを失い、隊務をさぼりがちになり、新選組内部での評判も低下してしまった。この様な隊士には新選組は厳しい処断を以て望むのが常であり、松原にも処断が下されるかと思われたが、彼は隊の処分を待たず、慶応2(1866)4月20日安西宅で壮絶な心中をした。
しかし、一説に依れば此の心中劇は創作であるとも云われている。何しろ、此の話は新選組研究の偉大な先達で有る所の子母沢寛著「壬生心中」に掲載されているのみであり、西村兼文が記した『始末記』では、松原は聊か隊務に於いて失敗をしてしまい、恥じて切腹をせんとしたが友人の篠原泰之進に止められ、後に其の傷が悪化して死んだ事になっている。確かに、新選組と同時代を生きた西村の文章は、主観が混じったり、或いは政府に対する遠慮が有って正確でない一面も持っているので、全てが事実ではないが、「新選組血風録」、「燃えよ剣」の脚本家結束信二(故人)の文「新選組で誰が一番強かったか」(『歴史と人物』昭和五十五年九月号所収)には以下の文章がある。
「『新選組始末記』の中の有名な挿話(事実と思った大勢の有名作家が利用している)について、筆者が質問した事がある。その時は氏は筆者にはっきりと言明したのだ。
『あれは私の作り話だから……』
新選組の一番いい所と云われる話なのだ。
子母沢寛は矢張り作家だったのだ」
子母沢寛が創作と明かした話が一体何なのか、実は明らかではない。しかし、前後の状況から見て其の可能性は否定出来ない。蛇足ながら付け加えておくと、1999年二月六日に光栄より発売された『維新の嵐・幕末志士伝 志士FILE』には、壬生心中が創作である可能性が付記されている。
馬詰 柳太郎
思想:中立/中立
生没年:天保14(1843)年〜????
出身:中国地方
性格・容姿:20歳。誠に綺麗な男で、小さな声で女の様に気が弱かった。女好き。隊中美男五人衆の一人。
特技:なし
*剣術も余り得意ではなかったらしい。
階級:平同士
経歴:新選組成立直後に父の新十郎と共に入隊した。新十郎は柳元斎と称し、書の上手い四十歳位の男だが、まるで刀の差し方も知らなかったらしいから、本物の武士ではなかったのであろう。ただ小才が利いたので、よくみんなに頼まれて色々な世話や買物をしていた。
柳太郎の方は隊士と酒を飲むような事もせず、相手を壬生の子守女に限っていた。文久三(1863)年九月十八日の芹沢鴨暗殺の夜には親子で八木邸にて留守番をして、八木邸に集まった子守女を相手に酒を飲んでいた。
やがて子守女が身ごもったが、まるで近所の若者も相手にしないような真っ黒の背の低いちぢれっ毛の酷い女だったと言う。これと馬詰が出来たのかは不明だが、その事は隊内でも噂になり、その内彼を揶揄する戯れ歌まで流行ってしまった。
池田屋事件に際しては、竹胴を巻いて出陣。その際、八木源之丞の子為三郎少年に何処に行くのかと聞かれたが、「これからみんなで京都の道場破りに出掛けるのだ」と誤魔化した。ところが、そのまま親子共々消息を断ち、池田屋襲撃には参加しなかった。臆したのか、流行り歌が居たたまれなかったのか、詳細は不明である。
御倉武 伊勢
思想:尊王/攘夷
生没年:????〜文久三(1863)年九月二十六日もしくは十二月
階級:平同士
特技:諜報活動
経歴:尊王攘夷派の密偵として文久三(1863)年八月、同じく密偵と疑わしき越後三郎、荒木田左馬之助らと入隊。同年九月二十六日、間者であるとして謀殺された。
なお、永倉新八の手記「文久浪士報国記事」に従えば、以下のような顛末があったとされる。
九月十八日、近藤派による芹沢派の粛正が行われるが、一説によると其の実行メンバーの中に御武倉も含まれていたと云う。此は、もし暗殺の事実が露見しそうになったら、御倉武を槍玉に挙げて全ての罪を尊王攘夷派に擦り付ける為で有ったという。しかし御倉武は此に気付かず、逆に信用を得たと思いこみ、謀略を練り始めた。
先ず、近藤に向かって「長州藩に屯所を焼き討ちする計画があるらしい。近藤局長がこちらにいては危険なので、一時どこかに身を隠しては?」と進め、上手く近藤や幹部を追い払ってその間に新選組内部に尊王攘夷派を増やし、一波乱を目論んだ。永倉新八はいち早く此の謀略に気付き、近藤に注意を促していたが御倉武もさる者、先手を打って永倉を暗殺しようとした。十二月の半ば、永倉、御倉武、荒木田、中村金吾の四名で大原重徳邸に向かった帰路、祇園の新選組行きつけの店「一力」に寄って酒宴となった。宴会は大いに盛り上がったが、深夜十二時、御倉武と荒木田は密かに隣の座敷に入った。訝しんだ永倉が覗いてみると、何と長州浪士十名が待機して、御倉武と永倉暗殺の相談をしていたのである。同行の中村は歴戦の士であるし、店の外では斎藤一・藤堂平助らの手練れがそれぞれ部下を率いて警備に当たっていたが、永倉は店の迷惑を考えて敢えて騒動を避け、隙を見せない事で御倉武達を牽制、屯所に連れて帰った。
翌朝、暗殺に失敗した御倉武と荒木田は再度外出して機会を捜そうと髪結いを呼んで髪を結っていたが、其の背後に回った永倉、斎藤、林信太郎に依って刺殺された。
三浦 啓之助
思想:佐幕/開国
生没年:嘉永元(1848)年十一月十日〜明治十(1877)年二月二十六日
出身:信濃松代藩上士にして当時最高の蘭学者佐久間象山の嫡子。
性格・容姿:父譲りの高慢な性格と威風堂々とした容姿を持つ。しかし、学力は受け継がなかったようで、実力に裏打ちされていない分だけ臆病なところがある。ちなみに、親の形見のサングラス(佐久間象山が作ったらしい)をかけ、実家からの仕送りが豊かなので豪かな服を着ていた。
階級:平同士だが、別格・客分扱い。
特技:財産/実家からの仕送りで贅沢、名声/親の七光、
経歴:元治元(1864)年七月十一日、洋学の大家である佐久間象山は尊攘派の浪士河上彦斎によって暗殺された。その際、象山は武士として不名誉な「後ろ傷」を負っていた為、卑怯な振る舞いがあったとして佐久間家は断絶に追い込まれてしまった。
この断絶処分を撤回させるべく、象山の息子格二郎は父の仇討ちを松代藩に届け出た。そして同年七月十六日、義理の叔父勝海舟の紹介(但し勝は新選組を嫌っており、寧ろ神戸の海軍操練所に来いと誘う手紙を出して居た。新選組への入隊は、佐久間の弟子で会津藩士の山本覚馬の斡旋ではないかと言う説も有る)で近藤勇に仇討ちの為の入隊を申し込んだ。この時、名前を三浦啓之助と改めた。
三浦は客分として入隊を許されたが、性格が傲慢で実家からの仕送りが多く金遣いが荒い為、金を目当てに彼に媚び諂う隊士や其れに反感を持つ隊士が増えて隊内の統率を乱した。更に剣術・学問共に未熟で殆ど役に立たなかった。また行いも粗暴で、冷やかされた浪人に斬り付けたり、罪の無い肉売りの女を斬殺したりと手の付けられない振る舞いも多かった。しかし、その「天才象山先生の息子」と云うネームバリューは大きく、近藤・土方も彼の仇討ちに協力していたので、咎め立てされる事は無かった。要は、新選組の公告塔みたいなものなのだろう。実際、慶応二(1866)年七月五日には勝海舟から新選組と会津藩に金二百疋が送られており、宣伝効果は上々だったらしい。
しかし、その金子が送られた直後、三浦は新選組を脱退してしまう。その理由は、以下のような物であったと言われている。
ある時自分の刀を自慢していると、ある隊士が「刀が良くても、腕が未熟ではどうしようもない」と言った。密かに恨んで、後にその隊士が碁を打っている時に後ろから切りつけるという暴挙をした。陪席していた沖田総司はその訳を聞きただ大笑するのみであった……と云うから沖田もちょっと危ない奴だ。そんな事があった数日後の夜、沖田が笑いながら酒宴に誘うと、「暗殺されるのではないか?」と疑った格二郎は辞を構えて断わり、その儘屯所から姿を消してしまった。そして、芦谷昇と云う隊士と共に脱走した。
三浦は郷里の松本藩に帰り、四人の浪人者と語らって「新選組」を名乗って塩尻宿や松本町で無銭飲食や狼藉を働き、更には博徒と衝突する等不法を行った。その為、松代藩は彼を捕らえ、明治三(1870)年まで牢獄に繋いだ。明治三年二月、佐久間象山を慕っていた西郷隆盛の口利きによって出獄し、家名再興が許された。
明治四(1871)年、上京して勝海舟の紹介で慶応義塾に入ったが、西洋小間物屋の女主人のヒモになって身を持ち崩して退学した。退学後は勝の推薦で司法省四級判事裁判官に就職。しかし、乱酔して巡査を殴打、罰金十円の処分を受けた。勝は、この不出来な甥がこの儘東京に置いて居ては何をしでかすか分からない、とばかりに松山に左遷させた。結局、明治十(1877)年二月二十六日伊予松山の涼風亭なる料理屋で鰻の蒲焼きの中毒で死亡した。
毛内 有之助
思想:尊王/攘夷
生没年:天保六(1835)年二月二十八日〜慶応三(1867)年十一月十八日
出身:津軽弘前藩三百石取藩士・毛内有右衛門祐胤の次男
性格・容姿:直情、優しい。身長5尺8寸、物静かで痩せ形の、読書好きの秀才。
階級:監察・文学師範頭→高台寺党隊士
特技:武芸全般、学問
*俗に「毛内の百人芸」と言われる程様々な武芸に通じていたが、どれも達人と言える程のものではなかったという。
*特殊な専用仕込刀を使用。柄が非常に長く、柄が外れて槍になったり、普通に抜いて刀になったりと応用が効く面白い武器。有之助の特殊ルールとして、武器を破壊されても、次のターンにはもう一方の形式で使用可能とする(刀を折られたら、即座に鞘に納めて次のターンから槍として使用可能)。
名称 種類 命中修正 受け修正 ダメージ修正 片手 金額 備考 特殊仕込刀 刀 +1 +1 +2 ○ -- 刀技能使用時 槍 +3 -2 +2 ○ -- 槍技能使用時
経歴:監物ともいう。毛内家は代々津軽弘前藩主の用人を務め、三百石を食む名家であったが、天保四(1833)年に政争に巻き込まれて免職され、家禄三百石の内二百七十石を召し上げの上他家にお預けの身となった。その処罰は天保十二(1841)年まで続くが、有之助が生まれたのは正にその処分の最中であった。処罰に依る心労で実母は死に、先の見えない謹慎処分の中有之助の将来は危ぶまれたが、後添いとして迎えられた義母の滝子は賢婦人として知られ、経史に詳しく、文武両道に秀でており、教育は殊に厳重であった。後年の事だが、新選組で有之助が非常に柄の長い刀を差しており、それを隊士に指摘されるとすっと柄を抜いた。すると、何と槍の穂先が現れ、刀が槍に早変わりしてしまった。それを見た仲間が「槍など差して歩く等居るか!」と笑うと、今度は穂先を柄に納め、柄を握って刀を抜き放った。一同が驚いていると、有之助は「これは私の母親が作った新しい武器だ」と得意気に自慢したと云う。
その後、嘉永五(1852)年に父親祐胤が死去すると、兄の有人が二十五歳で家督を継いだ。有之助は部屋住の身分、言わば厄介者になったわけだが、有之助の文武両道の英才振りは夙に藩内に知れ渡っており、養子の申し出が多数舞い込んで来た。しかし元来毛内家は尊王家であり、有之助もまた上洛して国事に尽くす積りであったので、敢えて養子縁組を断った。
文久元(1861)年三月十八日、津軽藩を脱藩。江戸に出て、旗本永見貞之丞の用人となる。此処では永見夫妻の信任を得て、子弟の教育に当たった。その精勤振りは後々まで永見家で語り継がれたほどであるという。やがて伊東甲子太郎と親交を結ぶ様になり、彼に従って元治元(1864)年10月新選組に入隊した。なお、彼の退職後に永見の家には後に新選組隊士となる稗田利八が使用人として入り、毛内の出世を聞いて一念発起して新選組入隊を志す事になる。
新選組に於いては文学師範頭として会津藩公用人の接待に陪席する事が多かったが、酷い津軽訛で同じ奥州の会津藩士相手でも半分しか通じなかったと言われている。しかし学問に優れていたので、伊東の良き参謀となった。
伊東が新選組を脱退するとそれに従い御陵衛士になった。斎藤が御陵衛士を脱走すると酷く憎み、「斎藤だけは許せぬ」と書き残している。
油小路の戦いに於ては善戦したが、刀が折れたので脇差を抜こうとした時に小手を切り落とされてしまう。それでも屈せず素手で立ち向かった為に永倉新八に斬られ、更に新選組隊士に顔も分からないくらいに滅多切りにされた。