安富 才助
思想:佐幕/攘夷
生没年:天保十(1839)年〜????
出身:御府内浪人
性格・容姿:備中国足守出身。歯切れの良い江戸弁を使う。
特技:大坪流馬術、算術、部隊指揮、作詞
階級:会計方・馬術師範頭→副長代理→陸軍奉行介添役
経歴:元治元(1864)年十月伊東甲子太郎らと同時期に入隊。彼らと同調せず隊に残り、土方に信頼されて会計方の差配を務めた。
甲陽鎮部隊では小荷駄方を務める。甲陽鎮撫隊解散後、一時新選組残党を率いて土方歳三らと別行動を取ったが、会津で合流した。その際隊長代理斉藤一の補佐を務めた。その後、土方に従って箱館に行き、新政府軍箱館府と戦う新選組の指揮を執った。箱館政府成立後は陸軍奉行介添役に抜擢され、陸軍全体の指揮を補佐。新選組からはやや離れた立場となった。
五稜郭降伏後は弘前・東京等に留置され、やがて釈放された。そして土方歳三の死をその故郷日野に伝えた。その後は行方不明だが、明治初期に安部十郎に暗殺されたと言う。
山崎 烝
思想:中立/中立
能力値
筋力:3 器用:6
敏捷:6 知力:4
抵抗力:4 外見:4
技能:剣術(6)、槍術(3)、棒(7)、剣技/北辰一刀流(免許皆伝)、剣技/関口流(初伝目録)、剣技/新選組剣術(双竜剣、向請反撃剣、向抜撃剣),医術(4)、剣技/我流(6)、捜索(8)、尾行(8)、潜伏(8)、武略(9)、手練(6)、交渉(8)肉体抵抗(2)、精神抵抗(3)
*しつこい剣筋で、「ホイ浮浪の者よ、アハ不良の者よ」と奇妙なかけ声をあげる。剣術よりも香取流、力真流等の棒術に長じていた。
*家業柄医術に素養があり、後に幕府医官松本良順に救急治療を学び、「我は新選組の医者也」と称した。
生没年:????〜慶応四(1868)年
出身:山城国壬生村の浪人・林五郎左衛門の息子留右衛門。林信太郎の従兄弟。
性格・容姿:色白で鼻筋が通っている。濃い髭面。根暗で隊務に忠実。
階級:助勤→監察
経歴:父親の鍼灸技術を受け継ぎ、大坂高麗橋の針医「紅壁堂」を営業。その傍ら、様々な道場で多くの種類の武術を学んだ。その内京橋口の大坂奉行所近辺の関口流柔術平野源左衛門道場に通い松原忠司と知り合った。特に谷町の神心明智流平井徳次郎道場では抜群の腕利きとされた。文久3(1863)年、先に新選組に入っていた従兄弟の林信太郎の手引で入隊し、助勤・探索方に任ぜられた。その前身を生かして屡々薬屋に変装して探索を行い、「監察」を代表する最も特徴的な人物となる。
特に池田屋事件では、薬売りに変装して池田屋に長期逗留して内情を探った。更に会議中の志士らの刀を隠してしまう等、実際に剣を取って戦った隊士以上の活躍をした。以後、尊王派に対する諜報活動ばかりでなく隊士らの非違をも調査し、土方歳三の懐刀となった。更に大坂の土地事情にも詳しく、金持ち間の消息にも通じていたので、隊で金が要る時には彼の案内で幹部が大坂に行って資金を調達して来た。その為隊士達には嫉妬混じりに「山崎助勤は大坂の金蔵から生まれてきた様な人だ。良い芸を持っている」と言われた。
元治二(1865)年一月二十七日、佐々木六角源氏太夫一味の残党の捕縛に際し、薬売りに変装して彼らが潜伏している旅館に泊まり、外出する振りをして状況を逐一報告した。そして、ここでも佐々木一派の武器を隠してしまう事に成功。佐々木一派を無力化し、旅館内部から新選組を手引きした。山崎の報告で佐々木一派の残党が二十四名の多数にのぼると知った新選組は、それを上回る三十名の隊士を動員して捕縛に当たり、抵抗した鈴木四郎と云う二十六歳の若者一名を斬り捨て、残り二十三名を捕縛した。こうした山崎の諜報活動のお陰で、新選組は見廻組が逃した剛の者達を負傷者0で一網打尽にすると云う快挙を為す事が出来た。
慶応二(1866)年二月の近藤勇の広島出張に際しては、潜行して戦況を視察。その後吉村と別れて十ヶ月に渉って消息不明となる……矢張り、ミーハーなファンとしては彼は其の隠密技能を生かして長州に潜入捜査をして居たと考えたい物だが、さて。帰京後、前大納言にして明治天皇の外戚に当たる中山忠能卿の屋敷を見張り、倒幕の密勅を阻止せんとするが、岩倉具視は息子を中山邸に使わして衣服の裏に密勅を縫い込んで貰い、持ち帰ると云う奇策を用いて山崎達の目を潜り抜けて倒幕の密勅を入手した。池田屋以来、幕末の京都の全てを掌握して来た山崎の初めての敗北であり、最後の敗北であった。以後、時流は新選組に過酷な運命をもたらし、彼も鳥羽・伏見の戦いで負傷。江戸に退却する途中軍艦富士山丸艦上に於て死亡した。その死体は日本で最初の水葬にされたと言われている(もっとも、これに関しては安富才助以外に証言が無く、誤りで有るとする説が強い)。
山野 八十八
思想:中立/中立
生没年:天保十二(1841)年〜明治四十四(1910)年
出身:加賀藩脱藩。金沢に住んでいた。
性格・容姿:愛敬のある可愛らしい顔付き。色白で目は細いが、何時もにこにこしており、かつて腹を立てた顔を見せた事がなかった。それでいて内心はなかなか強情であった。黒い薩摩絣と白い小倉袴を好み、これに高下駄を履いて歩くとなかなかの侍振りであったらしい。美男五人衆の一人。
特技:剣術/義経神明流
*平山五郎は潰れている左の目の方から打ち込んで行くとどんな名人でも勝てないと言われていたが、山野だけは打ち勝つ事が出来た。平山も彼には脱帽して「山野は不思議な剣術を使う。」と言っていた。
*戸田新十郎氏はこれを義経神明流の連続技であると比定している。この流派では徹底した打ち込みを重視し、七本八本の連打を繰り出したと言う。
階級:1番隊平同士
経歴:新選組の初期に入隊。
壬生寺の裏手にあった水茶屋「やまと屋」の娘が山野に惚れた。この娘は大層な美人でよく隊士が彼女を目当てに茶屋に通ったが、茶屋の女主人高橋八重はなかなかしっかりした女性で娘には指一本触れさせなかったと言う。しかし、八重も山野の人品を見込んで二人の付き合いを許し、隊内でも評判の仲になった。局長近藤勇等も、「どうだ山野、俺も一つ山野屋に連れて行かんか」とからかったが、山野はニコニコと笑うばかりで腹も立てなかったらしい。
武功としては、文久三年九月下旬の某日夜8時、備前藩警備区域の四条堀川西入ルの米屋に鉄砲を持った強盗が侵入。新選組に出動命令が下り、永倉新八、斎藤一、平山五郎と云った錚々たるメンバーに加え、山野も現地に急行。当初火縄銃の存在を知らずいきなり射撃を受けて混乱したが、すぐに抜刀して斬り合いとなり、軽々と敵を切り伏せ、後日朝廷より報償を受けた。
戊辰戦争勃発直前、やまと屋の娘が女の子を生んだが、山野は娘と別れて新選組に随行。甲陽鎮撫隊解散後消息を断った。
しかしほとぼりも冷めた頃、昔が恋しくなって京都に現れ、菊浜小学校の小使となった。明治二十二年七月には、三条河原に曝された近藤勇の首を回収すべく上京した佐藤俊宣の依頼を受けたが、発見する事は出来なかった。
京都に戻った山野は家族を探したが、すでに高橋八重は死に「やまと屋」も何処に移ったか知れず、娘と女の子の行方は全く知れなかった。一方、女の子の方は祇園で芸妓となって大成し、自分の父親を探していた。娘は遂に明治四十(1908)年に父・山野を見つけ出し、彼は娘に引き取られ一生楽隠居で過ごしたと言う。
結城 有無之助
思想:佐幕/中立
生没年:弘化二(1845)年四月十七日〜明治四十五(1911)年五月五日
出身:甲斐国山梨郡日川村の医師兼農家の結城景仲の息子
性格・容姿:不明。
特技:砲術
階級:見廻組探索方→甲陽鎮撫隊地理教導兼大砲差図役
経歴:万延二年、十六歳の時に父親の跡を継いで医師になる為、江戸に遊学。しかし医学修行に飽き足らず、公武合体派の儒者・大橋訥庵の思誠塾に入門し、儒学を学んだ。その後、幕府の講武所に入門して砲術を学んだ。
やがて講武所教授方佐々木只三郎に従って京都に行き、佐々木が与頭を務める見廻組の探索方に就いた。その頃、同じく京都の治安を預かる新選組の近藤勇らと知り合いになったと云う。但し、この頃は未だ新選組には参加して居なかった。
その後、鳥羽・伏見の戦いを見廻組に属して戦い、敗戦して江戸に帰還。する事も無くぶらぶらしていると、やがて慶応四(1868)年二月に近藤勇が甲陽鎮撫隊を結成したので、その案内役として採用された。また、その際砲術の知識を買われて大砲差図役も兼任する事となった。
甲陽鎮撫隊は甲府を目指して進軍したが、土佐迅衝隊に先に甲府城に入られてしまう。兵力不足を痛感した結城は故郷に帰り、農兵の募集を行うが、その間に甲陽鎮撫隊は官軍に敗れ江戸に逃げ帰った。甲陽鎮撫隊の敗北を知った結城は江戸には行かず駿河国沼津に逃れ、名を「無二三(むにぞう)」に改めた。
維新後、無二三は当初勝海舟に金をせびる程に落魄れ、一時は博打打になろうかとまで思い詰めていたらしい。しかし明治九年に妻マツと結婚し、これを機に乳牛の飼育を始めた。ところが、時を同じくして明治政府もまた乳牛の大々的な導入を開始したので、資本力の無い「結城農場」はすぐに破綻してしまった。怒った結城は大積寺と云う山に篭り、隠者同然の生活を送った。その結果、明治十一年には厳しい暮らしに耐え切れず結城とマツが病床に臥してしまう。薬を飲んでも熱は下がらず、途方に暮れた結城は以前貰った聖書を思い出し、神に祈った。すると不思議な事に二人とも熱はすぐに下がったので、感動した結城は明治十二年四月にキリスト教の洗礼を受け、クリスチャンとなった。以後、東京で教師となって宣教に務めるが、元新選組と云う事で不利益な扱いを受け、教職を失ってしまった。以後は教会組織に属さず、菓子屋や下宿屋を営みつつ個人で伝道に務めたと云う。
明治四十五(1911)五月五日、長男らに看取られながら胃癌で死去した。
横倉 甚五郎
思想:中立/中立
生没年:天保五(1834)年〜明治三(1870)年八月十五日
出身:武蔵国多摩郡堀之内村・横倉良助とくにの次男
性格・容姿:がっしりとした体格で、子供の頃から庭石も軽々と持ち上げたと云う。その為、刀も重く大ぶりな物を好んで使ったと云う。
特技:天然理心流(目録)、剛力
階級:伍長→第四分隊嚮導役
経歴:安政六(1859)年、土方歳三と前後して天然理心流近藤周助に入門。近藤勇の信頼を得たが、浪士組には加盟しなかった。
元治元(1864)年十月、近藤が江戸に下向すると、同門の中島登と共に新選組に入隊させてくれるように願い出た。中島は入隊を断られたが、横倉は入隊を許され、伍長への抜擢を受けた。
慶応三(1867)年十一月十八日夜、伊東甲子太郎暗殺の討手四名(横倉、宮川信吉、大石鍬次郎、岸島芳太郎)に任ぜられる。そのまま油小路の戦いにも参加。十二月十八日、墨染の難に際して近藤の護衛に参加していたが、みすみす近藤を負傷させてしまう。その結果、新選組は鳥羽・伏見の戦いにおいて十全に力を発揮する事無く敗退。護衛に加わっていた横倉はこの敗戦を酷く悔しがっていたと云う。
その後、甲陽鎮撫隊、会津戦線、函館戦争を新選組に従って転戦。弁天台場で官軍に降伏した。
降伏後は坂本竜馬暗殺の嫌疑を受けて厳しい取調べを受けた。結局、竜馬暗殺は見廻組の仕業と判明したが、今度は伊東暗殺の罪を責められ、更に厳しい取調べを受ける内に衰弱死した。
吉村 貫一郎
思想:中立/中立
生没年:天保十一(1840)年〜慶応四(1868)年
出身:奥州南部盛岡藩浪人
性格・容姿:不明。
特技:北辰一刀流(千葉道三郎門人)、書道
階級:平同士→監察・剣術師範
経歴:本名は嘉村権一郎。
慶応元(1865)年四月、土方歳三の隊士募集に応じて入隊。同年秋監察・剣術師範に抜擢される。
同年十一月四日、永井志尚が長州訊問使として広島に下向すると、近藤・伊東らはその随員を命ぜられた。監察からは尾形・吉村の両名が出向した。
慶応二(1866)年二月、再び広島下向を命ぜられる。今度は山崎と組んでの潜入であったらしい。
同年九月十二日に三条制札事件が起きると、土佐藩留守居役・荒尾騰作は新選組との和解の為に新選組幹部を招いて祇園で宴会を行った。この時、吉村も監察として同席している。
慶応三(1866)年六月、新選組は幕臣に取り立てられ、吉村も見廻組並に任ぜられた。十一月十八日の油小路の変に際しては、伊東を招いての宴会に参加していた。
慶応四(1867)年一月三日、鳥羽伏見の戦い以降消息不明。
子母澤寛によれば、鳥羽伏見の戦い前に各隊士に100両近くの家族(主に妾)への見舞金が配られると、その金をその儘飛脚に言付けして妻子の元に送った。その後、島田魁に「脱走かと思いました」と冗談を言われたが、ただにやにやと笑うのみだったと言われる。
鳥羽伏見の戦いに敗戦すると、近藤らの乗っている富士山丸に搭乗せず、大坂網島の南部藩仮屋敷を頼り妻子の事を思って帰参を願い出た。しかし、旧知の留守居役大野次郎右衛門ににべもなく拒絶され、無念の内に切腹した。
吉村貫一郎について……
吉村貫一郎は作品ごとに評価が大きく異なる、取り扱いの難しい人物です。
なので、吉村貫一郎に関する記述は、『新選組全隊士録』(2003.11.20.講談社刊、古賀茂作・鈴木亨編著)に基いて極力事実のみを記載しております。もし、GMが浅田次郎ファンである場合には、上記の解説を無視して『壬生義士伝』の設定を採用して構いません。GMが司馬遼太郎等をベースとした標準的な新選組ファンである場合には、上記記述を採用して下さい。但し、どちらの場合でも事前に雑談などでプレイヤーの趣向を良く把握し、もしもGMとプレイヤーの間で価値観に大幅な隔たりが有る場合には、登場させない様お願い致します。
くれぐれも拙者にケツを持ち込まないように!(笑)