次のページ目次へトップへ前のページ 第玖章 設定資料集

9−2−1 組織

明治十一年度陸軍概要
陸軍費 6,409,000円 (予算に対する比率10.5%)
現役陸軍軍人・軍属 42,017名  

 明治四(1871)年2月27日、兵部省から陸軍省が分離、漸く近代的陸軍制度が開始された。当初、陸軍は法制上も「海陸軍」と記され、飽くまで海軍の下位に置かれた。此は、幕末以来の欧米列強の侵略に対する恐怖が未だ根強く残っていた為である。しかし、明治政府が成立してみると、欧米列強の侵攻は左程差し迫った物ではなく、寧ろ改革に反対する国内の士族・農民の反乱が頻発し、明治五年には「陸海軍」の呼称が決定された。
 こうして体制を整えた陸軍は、徴兵制による国民軍と旧城塞を利用した国内治安維持用の編成「鎮台」を主眼として軍事制度の整備を進め、明治六(1873)年1月、徴兵令の布告が行われた。また同時期に全国を6軍管区に分け、各軍管区に1つの鎮台を置き、鎮台にはそれぞれ歩兵2個連隊が配置された。1個連隊は800〜1,700名である。

 明治九(1876)年迄に歩兵16個連隊(内近衛連隊2)、騎兵2個大隊、砲兵9個大隊、工兵9個小隊、輜重兵6個小隊、海岸砲9隊の基礎的な編成が終了した。尤も、編成を満たすに足りる定数は54,000名であったが、明治九年段階では軍人・軍属は39,412名を数えるのみであった。明治十一年当時の陸軍は西南戦争で戦果を挙げて士気が高いが、四千万円余りの軍事費を消費し、財政難に苦しんでいる。
 また、明治初年の軍隊は軍令と軍政が未分化であり、軍隊の整備と実際の運用の両方を、陸軍卿が行うという前近代的な編成となっていた。しかし、明治十一(1878)年12月、従来参謀局と呼ばれていた参謀本部が独立設置され、作戦の立案等の軍令関連は参謀本部の管轄に、兵員の増員、兵器の強化等の軍政関連は陸軍省の管轄に移行された。

陸軍省
 陸軍を統括する中枢組織。明治六(1873)年三月の太政官布告第一一三号「陸軍条例」で六局を設置。第一局は「通報、軍務、庶務」を担当。後の軍務局に相当するが、幹部・兵士数が少なく全体に暇であったらしい。
 また第二局は「歩兵、騎兵」を担当。以下、第三局は「砲兵」、第四局は「工兵」、第五局は「監督部、軍史部、会計事務」、第六局は「測量地図、絵画彫刻、兵史並びに兵家・政誌蒐集」とされている、なお、この内第六局のみは「参謀局」と改められ、後の参謀本部の基礎となった。
 現在陸軍卿は陸軍中将山県有朋、陸軍少輔(陸軍次官相当)兼第一局長は陸軍少将大山巌。また後の有名人も明治十一年当時には少佐・課長クラスで勤務しており、第二局第二課課長に川上操六少佐、第二局第五課長に大久保春野少佐らが配置されている。。

近衛
 組織図上は、近衛兵の総司令官近衛都督は天皇に直属して陸軍卿の指揮を受けない。
 鎮台配属の下士官・兵士の内から、強壮にして技芸に熟し、行状正しい者を抜擢して編成した。皇居北に掛かる竹橋に接する現在の千代田区代官町で、現在は国立近代美術館となっている赤煉瓦の建物を司令部として広大な兵営を構えた。近衛歩兵第一・第二連隊、騎兵1個大隊、砲兵2個小隊、工兵1個小隊、輜重1個小隊で平時は帝都の警備を行い、戦時には率先して戦場に赴いた。特に西南戦争で勇名を馳せた。
 現近衛都督は西郷従道中将。西郷は公正かつ大度量の人物である。それを補佐する近衛参謀総長には、同じく薩摩人で、歴戦の名指揮官として勇名を馳せる野津道貫中佐が配置されている。その配下としては、後年日露戦争を指導する事になる児玉源太郎が近衛参謀少佐として、日清戦争で近衛第一師団を率いて戦う事になる北白川宮能久親王が近衛中佐としてそれぞれ配置されており、後年の日本を支えた人材が顔を揃えた正に精鋭部隊と云えよう。近衛歩兵第一連隊長は野崎貞澄中佐。
近衛歩兵大尉

 

鎮台
 鎮台は旧藩時代の城塞を利用し、割拠する地方軍である。1鎮台は歩兵2個連隊3200名(一個連隊1600名)+1個砲兵大隊を基準とし、一個連隊毎に軍管区内に分営を持ち、各地に展開している。但し、東京鎮台は特に歩兵3個連隊、騎兵1個大隊、砲兵2個大隊、工兵2個小隊、輜重兵1個小隊、海岸砲3隊の最大兵力を持ち、大阪鎮台がそれに次ぐ。また、新潟(高崎)分営、青森分営、大津分営は城を持たない。これら鎮台への武器弾薬の補給については、東京の砲兵本廠・第一砲兵方面と大坂の砲兵支廠・第二砲兵方面が担当した。
 但し鎮台は機動性に欠けるので、戦時には後方諸機関を設置し、「旅団」に再編成して戦地に赴く。この際、必ずしも鎮台毎に同じ旅団に成るとは限らない。また模範となったフランスと同様、平時には旅団の指揮官は元より軍団の指揮官も置かれていない。
 なお、城郭は東京城(江戸城)を始めとする鎮台、分営に使用されている要害58個を除き、全て破棄されている。

 要害58個は陸軍第四局が管理している。残余の廃城は、府県に委託され、県庁、学校等に使用されている幸運な数例を除いては殆どが荒れるに任されている。

屯田兵
 当時北海道は帝政ロシアの脅威を受けながら、その地勢的条件(厳しい自然環境、経済的基盤の不備、人口の不足)等から鎮台を置く余裕が無く、やむなく「屯田兵制」を導入し、兵士を家族と共に官舎に起居せしめ、平時には農耕に従事させ戦時には兵士として動員する方策を採った。
 屯田兵は二百戸乃至二百四十戸を以て「一兵村」とし、これで一個中隊を編成した。この2〜4個中隊を以て一個大隊とし、三個大隊で一個連隊を編成した。兵士は入植後3〜6ヶ月の集合訓練を受け、野外総合演習に参加。以後は巡察勤務等に従事するが、同時に原生林の開拓事業も行わねばならず、その負担は多大であった。また装備は旧式で、霜降り赤線の入ったズボンを履いていた。此のズボンについては、西南戦争で屯田兵が活躍すると畏敬の念で見られたとも云われている。
 最初の屯田兵は、新天地を求めて北海道に移住した旧仙台・庄内藩士達によって明治八年五月札幌琴似村に配置された。屯田兵の活躍としては、西南戦争が有名である。北海道からは琴似兵村一個中隊と山鼻兵村一個中隊が派遣され、戊辰の仇を討とうと大いに奮戦した。実は、屯田兵の将校は薩摩人が多く、また旧士族の屯田兵は土壇場で西郷軍に寝返るのではないかと疑われ、督戦用に狙撃兵が配置されたりもしたのだが、いざ戦いが始まってみれば、確かに薩摩人は消極的ながらも兵士は皆意気盛んで、特に一ノ瀬川の戦いでは他の部隊の将校からも感心される戦い振りであった。
 その後屯田兵は逐次拡大され、最終的には兵村37、総兵数約40,000を数えた。明治二十九年、第七師団の設置に従って廃止。

参謀本部
 明治四年八月、軍隊の指揮運用の為兵部省の外局として参謀局が設置された。その後、参謀局は局長に鳥尾小弥太少将を頂き、内局の第六局に入った。この頃の参謀の仕事は専ら兵站業務を担当するのみであった。
 第六局は明治七年二月に再び外局の参謀局となった。同年七月には参謀局条例が制定された。其処には、参謀局は陸軍省に隷属して陸軍卿を補佐し、日本総陸軍の編成装備を決め、作戦計画を作り、軍事謀略を行うのを任務とする、とされていた。これら一連の改革には、統帥権の独立を望む陸軍ドイツ派の働きかけが大きく、参謀局長もドイツ派の山県有朋中将が就任した。但し、明治九年三月には再びフランス派の鳥尾少将に戻ったりと、陸軍の迷走も又見て取る事が出来る。
 明治陸軍が初めて体験した本格的戦闘である西南戦争では、鳥尾は大坂で補給業務や部隊の編成を担当し、戦争の遂行を大いに助けた。一方前線では、参軍(参謀)が指揮を執ったり、旅団長同士が協議して命令したり、大隊以下を便宜的に分割して使用したりと軍隊指揮の乱れが指摘された。更に竹橋事件では現役兵士が天皇のお膝元で反乱を起こし、政府は完全に統制された軍隊、政治の動向から超然とした毅然たる軍隊の登場を切望した。其の結果、明治十一年十二月には参謀局は廃止され、三宅坂に参謀本部が設立された。以後、陸軍参謀本部や陸軍参謀を示す隠語として「三宅坂」が使用されるようになった。
 参謀本部は天皇直属とされ、本部長、次長、其の下に総務課と管西局・管東局の二局と、地図・編纂・翻訳・測量・文庫の5課を置いた。本部長には陸軍卿山県有朋中将、次長には陸軍少輔大山巌中将が就任。当時の明治陸軍の最高権力者が自ら軍令部門を掌握し、其の期待の大きさを示している。管東局長には堀江芳介、管西局長には岡澤精であったが、岡澤が近衛連隊の参謀長に転出すると桂太郎中佐が代わった。
 また参謀局局員には、後にシベリア横断で名を馳せる福島安正中尉がいる。彼は若干26歳の元長野県士族(松本藩士福島安広の子)ながら、参謀局書記官から西南戦争で長崎の諸外国艦隊の動向を察知して功績があり、山県の懐刀として参謀本部長伝令使に抜擢された。
 当初の参謀本部の仕事は、何と云っても地図作製である。既に開発された地域、交通や運輸に必要な地域では精密な測量が為されていたが、全国規模での地図は無く、有ったとしても縮尺が大きすぎて部隊の指揮官が実戦で用いるには甚だ不安であった。その為、参謀本部は一時地図製作局の如き働きであったが、この頃の参謀本部は人事権も握っており、度々陸軍省と衝突する等、後年の独断専行の萌芽を見せつつあったのも事実である。

〜明治陸軍組織図2〜

鎮台名 司令長官 所在 分営 歩兵 騎兵 砲兵 工兵 輜重兵 備 考
近衛隊 西郷従道 皇居   近衛第1連隊 1大隊 1大隊 1小隊   連隊長は野崎貞澄中佐。
  近衛第2連隊          
  3.083名 228名 297名 184名   計3,792名
東京(第一)鎮台 野津鎮雄少将 皇居   第1連隊 1大隊 2大隊 1大隊 1中隊 日本で最初の連隊。皇居東側の旧毛利藩邸に駐屯。連隊長は乃木希典中佐。兵士は粘り強さに欠けるが柔軟・合理性に優れていた。有名な将校には一戸兵衛少尉がいる。
  佐倉 第2連隊         明治七年12月19日軍旗授与。兵士は寡黙実行型と評された。
  高崎 第3連隊         明治七年12月19日軍旗授与。城が無く、兵営のみ。
    6,168名 242名 529名 322名 152名 計7,413名
仙台(第二)鎮台 堀尾晴義中佐 青葉城   第4連隊   1隊     明治八年9月9日軍旗授与。夜襲訓練を専門に行う。東北に展開する部隊の中では最も都会的な部隊であった。
  青森 第5連隊         明治十一年12月29日軍旗授与。城が無く、兵営のみ。
    2,314名   57名     計2,371名
名古屋(第三)鎮台 四条隆謌少将 名古屋城   第6連隊         明治七年12月18日軍旗授与。此の連隊は大阪や東京の主要都市に対する対抗意識が強く、それらの地域の連隊に対して独自性を発揮しようとする事が多かった。連隊長佐久間左馬太
  金沢 第7連隊         明治八年9月9日軍旗授与。兵士の気質は団結心に富んでいるとされた。連隊長津田芳正少佐。営舎は金沢城内旧御殿松ノ間、竹ノ間、膳所、台所と五十間長屋。
    4.285名         計4,285名
大阪(第四)鎮台 三好重臣少将 大阪城   第8連隊   2大隊 1大隊 1小隊 合理的な気質の大阪人から成る連隊で、西南戦争では最弱部隊として有名。「またも負けたか八連隊」と嘲笑された。麾下に大島義昌大隊長を持つ。和歌山藩より献上されたドライゼ銃を装備し、優勢な火力を誇る。
  大津 第9連隊         合理的な気質の京都人から成る連隊で、八連隊に次いで弱い連隊。上記の歌に「それじゃ勲章呉れんたい(九連隊)」と続く。 和歌山藩より献上されたドライゼ銃を装備。
  姫路 第10連隊         明治七年12月18日、第八、九連隊と同時に軍旗授与。連隊長は茨木惟昭。兵士の気風は合理性に富んでいた。 和歌山藩より献上されたドライゼ銃を装備。
    6,261名   448名 182名 35名 計6,926名
広島(第五)鎮台 三浦悟楼少将 広島城   第11連隊         明治八年9月9日、第11〜14連隊と同時に軍旗授与。連隊長は長谷川好道中佐。大隊長には浅田信興少佐が居る。兵士の気質は人間的に淡泊で、自由闊達と独立の気風に富んでいる。
  丸亀 第12連隊         明治八年9月9日軍旗授与。連隊長は薩摩出身の猛将黒木為禎大佐。兵士の気質は穏和・真面目・緻密である。
    4,258名         計4,258名
熊本(第六)鎮台 谷 干城少将 熊本城   第13連隊   1大隊 1小隊   西南戦争では西郷軍の猛攻に耐えて熊本城を守り抜いた。連隊長代理は川上操六少佐。兵士の気質は、勇猛だが頑固一徹と反抗精神が強い。
  小倉 歩兵第14連隊         西南戦争では乃木希典少佐に率いられて西郷軍と最初に交戦、敗北した。現連隊長は名将奥保鞏中佐。
    4,152名   354名 99名 187名 計4,605名
北海道屯田兵 永山 武四郎 琴似             西南戦争にも従軍。連隊長永山武四郎は薩摩藩士。

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