| [次のページ|目次へ|トップへ|前のページ] | 第玖章 設定資料集 |
9−3−3 保有艦艇
明治海軍も、陸軍と同じ様に旧幕府時代に幕府や薩長土肥4藩を初めとする各藩がバラバラに建設した海軍の軍艦を引き継いだ為、艦種も統一されず、また、外国商人に騙されて買わされた老朽艦も多く、それらを整理すると艦数は大幅に減少し、大変貧相な軍艦19隻を持つのみとなった。これら艦艇は予算が無いのと、旧幕府の海軍伝習所出身士官達の、平時には船を動かさないのが普通、という旧幕府官僚的発想から、函館戦争から凱旋して以来碇は下ろしっ放しであった。そして、乗組員は定められた日課はこなすが、定時まで勤務して後は先輩士官の引率の元、全員繁華街に繰り出して酒を飲むと云う有様。お陰で借金で首が回らない者まで出る始末であった。その為、艦内に艦長・副長・航海長が揃っている事は希で、後年の帝国海軍の如き規律は無かった。幸いにして、首都を急襲されるような事態が起こらなかったから良いようなものの、もしも、志々雄真実の甲鉄艦による東京湾襲撃が実現していたら……全く、日本の命運はPC諸君に掛かっている事がお分かり戴けたであろうか?
海軍は艦隊の拡張を図ったが、予算不足で殆ど果たせなかった。結局、欧米諸国では第一線で使わない様な、船齢10年程度の艦を前線に投入せざるを得なくなっている。勿論軍備の拡張は続けられ、明治十一(1878)年四月には、明治政府がイギリスに発注して置いた最新鋭艦3隻(金剛・比叡・扶桑)が来航、日本海軍の戦力を大いに引き上げることになるが、依然欧米列強はおろか隣国の清にすら見劣りする戦力であった。
| 扶桑 | ||
| 所属: | 東海鎮守府 | ![]() |
| 艦長: | 伊東祐亨少佐 | |
| 艦種: | 装甲コルベット | |
| 材質: | 鋼鉄製 | |
| 機関: | 蒸気スクリュー二軸 | |
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 備砲6門
25p砲 4門水雷発射管2門 |
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| 定員: | 377名 | |
| 全長: | 67.1m | |
| 全幅: | 14.6m | |
| 排水量: | 3777t | |
| 出力: | 3500馬力 | |
| 速力: | 13ノット | |
| 解説: | ||
| 金剛・比叡と並ぶ英国製の最新鋭艦。英国サミューダ社製。台湾征伐の際、制海権の無いことから軍事・外交の両面で苦戦を強いられた陸軍大輔西郷従道により建造が提案され、明治八年に発注された。この三隻の総建造費は311万円、明治八年の海軍予算が352万円であるから、その高額さが窺えよう(もっとも、同時期の列強海軍は5000t前後で同程度の速力を持っていたから、到底敵し得ない事には変わりがなかったのだが)。設計はイギリスの天才技師エドワード・リード卿が行い、リード卿の設計の特徴である中央砲郭を有する独特な概観の船となった。 明治十一年一月、日本に回航。帝国海軍初の本格的な装甲コルベット艦で、日本到着時には明治天皇を初めとする政府重鎮が揃って出迎えたという。同時に発注された金剛・比叡両艦よりも一回り大型であり、鋼鉄装甲で230oの厚さを誇った。 到着後は東海鎮守府に編入された。明治十一年七月、明治天皇の天覧を受け、天皇座乗の元出航。本牧沖で魚雷を発射して標的を爆破した。 帆船から蒸気船への過渡期の艦だけに、マストと昇降式の煙突が並列装備されている。遠距離航海では煙突を降ろして帆走し、入港時や戦闘時にのみ汽走した。蒸気機関が完全な信頼性を持たない時代故の苦肉の策ではあるが、それではマストや帆布に被弾して火災が発生する恐れがあったので、日清戦争直前の1893年にマストを撤去し、完全汽走となった。その際兵装を大幅に強化し、20口径24cm単装砲4基、25口径17cm単装砲4基、30口径7.5cm単装砲4基、単7.5cm単装砲4基、25mm4連装ガトリング砲4基、11mm5連装ガトリング砲5基、36cm魚雷発射管2門と排水量に似合わない重武装艦となった。日清戦争に参戦し、黄海海戦に参加。日清戦争後の1897年には伊予沖で巡洋艦「松島」と衝突して沈没するも、海底が浅かった為、翌年には引き上げに成功し、呉に送られて1900年には修理された。その間に艦種の整理が行われ、扶桑は二等戦艦に分類された。 日露戦争には第3艦隊第7戦隊として参戦し、日本海海戦に参加。日露戦争後には流石に老朽化し、海防艦に編入され、1908年に除籍された。 |
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| 金剛 | ||
| 所属: | 東海鎮守府 | ![]() |
| 艦長: | 伊藤雋吉中佐 (副長:三浦功大尉) |
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| 艦種: | 装甲コルベット | |
| 材質: | 鉄骨木皮 | |
| 機関: | 蒸気スクリュー1軸 | |
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 備砲11門
魚雷発射管1門 |
|
| 定員: | 286名 | |
| 全長: | 70.41m | |
| 全幅: | 12.42m | |
| 排水量: | 2284t | |
| 出力: | 2035馬力 | |
| 速力: | 13.7ノット | |
| 解説: | ||
| 1878年建造の英国ハル所在の造船会社アールス社製最新鋭艦。1878年一月に竣工し、扶桑と共に日本に回航された。比叡の同型艦。装甲は厚さ137oの鋼鉄で甲鉄艦東を凌ぎ、近代軍艦に相応しい強靱さを持つ。また扶桑よりも一回り小さいが、その分少しだけ速力が高い。 金剛の最初の活躍は明治二十三(1890)年、紀州沖で暴風雨に遭って沈没したトルコ軍艦「エルトグルル」の乗組員を、寮艦比叡と共にトルコ本国まで遠路輸送した親善航海である。「坂の上の雲」でもお馴染みの此の事件だが、この時にはトルコ国民の熱狂的な歓迎を受けたという。 その後、日清戦争では常備艦隊として威海衛夜襲に参加した。日清戦争後、艦種の改訂が行われると、金剛は第一線を外されて海防艦となった。しかし艦船不足の日本はその後の日露戦争でも、金剛を水雷艇母艦として使用している。 日露戦争後の1909年、漸く除籍。 |
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| 比叡 | ||
| 所属: | 東海鎮守府 | ![]() |
| 艦長: | (副長:鮫島員規) | |
| 艦種: | 装甲コルベット | |
| 材質: | 鉄骨木皮 | |
| 機関: | 蒸気スクリュー1軸 | |
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 備砲11門
魚雷発射管1門 |
|
| 定員: | 286名 | |
| 全長: | 70.41m | |
| 全幅: | 12.42m | |
| 排水量: | 2284t | |
| 出力: | 2270馬力 | |
| 速力: | 13ノット | |
| 解説: | ||
| 1878年建造の英国ペンブローク所在の造船会社ミルフォード・ヘヴン社製最新鋭艦。金剛の同型艦。扶桑・金剛より一ヶ月遅れて回航。 同型艦で、出力が大きい割に速力は遅いという不思議なスペック。或いは、此は金剛の17.5p砲の砲身長が20口径で有るのに対して比叡の同砲の砲身長が40口径であるためか。 その活動の軌跡は同型艦金剛とほぼ同一。トルコ航海、日清戦争参戦(比叡は威海衛夜襲に加え黄海海戦にも参加したが)、日露戦争での水雷艇母艦勤務……。そして日露戦争後の1911年四月、金剛に遅れること2年で矢張り除籍となった。 |
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| 東 | ||
| 所属: | ![]() |
|
| 艦長: | ||
| 艦種: | バーク級装甲衝角艦 | |
| 材質: | 鋼鉄装甲 | |
| 機関: | 蒸気内車(レシプロ二軸) | |
| マスト: | 2 | |
| 備砲: | 7門
|
|
| 定員: | ||
| 全長: | 55.7m | |
| 全幅: | 9.6m | |
| 排水量: | 1358t | |
| 出力: | 1200馬力 | |
| 速力: | 9ノット | |
| 解説: | ||
| 函館戦争において明治政府軍の旗艦として活躍した装甲艦。函館戦争以前の戦歴についてはこちらを参照されたし。 戊辰戦争当時はもてはやされた東も新型艦が出揃うと、カノン砲ではなく榴弾砲を用いており、装甲艦に対しては攻撃力が不足している事、衝角戦法自体が旧式化して来た事から、軍艦と云うよりも沿岸警備用の砲艦程度の扱いとなった。また「甲鉄」の名前の由来となった装甲も一般化し、紛らわしかったので、1873年「東艦」と改称された。 その後、佐賀の乱、台湾出兵等に出動。西南戦争に際しては瀬戸内海の沿岸警備に従事したが、どれもかつての花形艦のイメージとは懸け離れた地味な任務である。 明治十一(1878)年当時には既に旧式化して第一線からは外されており、1890年には廃艦となった。東は標的艦として射撃訓練に使用され、その残骸は三百円で民間業者に買い取られ、装甲材が東京電燈会社浅草発電所の発電機の芯として使用されたと云われている。 しかし、その後も国民の間では海軍の象徴として広く知られ、日清戦争勃発時(1894年)には「日清交渉決裂、ドンと乗り出す東艦」と書かれた。もし、その様な象徴性を持った軍艦の同型艦が、謀反人の手によって東京湾に出現したら―――志々雄の計画は、純軍事的に見れば賭博の要素が強すぎるが、大衆を扇動し混乱に陥れるという一点に関して云えば、心憎い程の手配りの良さがあると言っていいだろう。 |
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| 富士山 | ||
| 所属: | 東海鎮守府 |
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| 艦長: | 有地品之允中佐 瀧野直俊少佐 |
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| 艦種: | シップ級砲艦 | |
| 材質: | 木製 | |
| 機関: | 蒸気内車 | |
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 12門
|
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| 定員: | 200名(士官5名/士官見習21名/水夫174名) | |
| 全長: | 55.8m | |
| 全幅: | 11m | |
| 排水量: | 1000t | |
| 出力: | 350馬力 | |
| 速力: | 8ノット | |
| 解説: | ||
| 1864年に幕府が南北戦争中のアメリカに24万$で発注、ニューヨークで建造され、1865年に完成した新鋭大型艦。原名エド号。当時の幕府海軍の花形で、将軍の座乗艦にもなった。明治維新に際して新政府に引き渡された。 戊辰戦争では幕府艦咸臨丸の拿捕等に参加、その後は東京湾の警備に当たる。維新後、軍艦の任を解かれて練習艦となる。更に明治九年には機関の老朽化により蒸気機関を撤去し、帆走艦となった。 そして明治十三年には航海すら困難となり、係留練習艦となってしまい、明治二十二年五月には第五種艦(倉庫船・荷船・雑船)に編入の上呉鎮守府に付属となった。明治二十九年八月売却。 |
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| 第二丁卯 | ||
| 所属: | ![]() |
|
| 艦長: | 杉 盛道少佐 | |
| 艦種: | スクーナー級砲艦 | |
| 材質: | 木製 | |
| 機関: | 蒸気内車 | |
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 4門
|
|
| 定員: | ||
| 全長: | 37.2m | |
| 全幅: | 6.18m | |
| 排水量: | 236t | |
| 出力: | 60馬力 | |
| 速力: | 8ノット | |
| 解説: | ||
| 1867年英国製、1868年5月グラバーより購入。原名アンシダ。長州艦・第一丁卯の同型艦。両艦揃って1869年朝廷に献上。 小型な為に外洋航海や戦闘には向かず、その運動性を活かして早くから測量艦として活躍した。姉妹艦の第一丁卯は明治八年には択捉島で座礁・廃艦となったが、第二丁卯は西南戦争でも第一種艦に分類され、九州を転戦した。明治十八年志摩半島安乗崎で座礁・沈没した。 なお画像は第一丁卯のもの。 |
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| 乾行 | ||
| 所属: | ![]() |
|
| 艦長: | ||
| 艦種: | パーク級練習船 | |
| 材質: | 木製 | |
| 機関: | 蒸気内車 | |
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 6門
|
|
| 定員: | 144名 | |
| 全長: | 53.1m | |
| 全幅: | 7m | |
| 排水量: | 523t | |
| 出力: | 130馬力 | |
| 速力: | 16ノット | |
解説: |
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| 1859年イギリス・リバプールで大改装、1864年7月23日に長崎に於て英商グラバーより7万5千$で購人。原名はストーク号だが、改装前の名前はビーグルと言う。そう、御存知ダーウィンが南洋探検に行った際に使用したあの船である。 進化論の膝闇に大きく寄与したこの船ではあるが、日本では薩摩藩が持つ唯一の正規の軍艦として北越戦線に進出したのに、機関の故障で思いの他活躍できないと言う情けない経歴を持ってしまった。廃藩置県後、政府に献納。明治十一年には流石に老朽化しているが、軽便快速であり、老朽化した機関を撤去して練習艦として活躍した。明治十四年廃艦。 なお、「乾行」とは『易経』に言う所の「渉大川乾行也(大川を渉るや乾行なり)」から来ている。乾は「つとむ、すこやか」と訓じ、「乾行」は正道に従ってすこやかに務め行う事を言う。 |
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| 千代田形 | ||
| 所属: | 東海鎮守府 |
|
| 艦長: | ||
| 艦種: | スクーナー級砲艦 | |
| 材質: | 木製 | |
| 機関: | 蒸気内車 | |
| マスト: | 2 | |
| 備砲: | 3門 | |
| 定員: | 42名(士官見習7名/水夫35名) | |
| 全長: | 31m | |
| 全幅: | 4.5m | |
| 排水量: | 138t | |
| 出力: | 60馬力 | |
| 速力: | 5ノット | |
| 解説: | ||
| 文久二年着工、慶応二(1866)年完成。日本人の設計・建造する最初の蒸気船として江戸石川島造船所で建造された。函館戦争には榎本艦隊に参加、明治政府軍に拿捕された。 流石に日本で初めて作られた軍艦だけに外洋での行動は困難で、明治政府軍では沿岸警備用に使用された。明治二十一年一月末、除籍されて千葉県に移管・¥。 |
||
| 天城 | ||
| 所属: | ![]() |
|
| 艦長: | ||
| 艦種: | 砲艦 | |
| 材質: | 木造 | |
| 機関: | 蒸気スクリュー1軸 | |
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 8門
|
|
| 定員: | 214 | |
| 全長: | 67.36m | |
| 全幅: | 9.75m | |
| 排水量: | 1.547t | |
| 出力: | 1260馬力 | |
| 速力: | 11.5ノット | |
| 解説: | ||
| 明治十一年四月四日横須賀製の新鋭艦。横須賀造船所三番目の建造艦である。スペック上は可成りの重武装だが、建艦当初から上記の武装であったかは不明(排水量に関しても、別の資料では926tだし)。 建造当初は巡洋艦と称したが、日清戦争時には砲艦に再分類される。日清戦争には常備艦隊として参戦し、威海衛夜襲などに参加。日露戦争時には流石に旧式化しており第一線からは外され、終戦直後に除籍された。 天城とは伊豆半島の中央にある火山群の総称。船材の産地として有名で、この艦の建材も此処で切り出された。 |
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| 竜驤 | ||
| 所属: | ![]() |
|
| 艦長: | 福島敬典中佐 | |
| 艦種: | コルベット | |
| 材質: | 木造鉄帯 | |
| 機関: | 汽走一軸スクリュー | |
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 64ポンドクルップ砲6門 | |
| 定員: | 378名(士官49名) | |
| 全長: | 64.5m | |
| 全幅: | 12.5m | |
| 排水量: | 2530t | |
| 出力: | 800馬力 | |
| 速力: | 8ノット | |
| 解説: | ||
| 1869年、イギリス・アバディーン社製。明治三年三月熊本藩が長崎で受領、五月には明治政府に献上。他の艦のスペックと比べれば分かるが、木造の小型艦が多かった海軍成立当時最大の軍艦で、日本最強の艦と目された。佐賀の乱、台湾征伐にも参加。西南戦争では第一種艦筆頭に挙げられ、九州各地を転戦。熊本沖で薩摩艦迎陽丸を拿捕し、輸送艦舞鶴・野母の破壊を行った。 明治十一年に扶桑・金剛・比叡らの三隻が配備されると、第一線から外されて筑波と共に遠洋航海練習艦となった。同時期の他の艦が係留練習艦や廃艦になっているのを見れば、遙かにましな境遇で、流石に新造艦と言ったところか。また一時、明治天皇御召艦となっている。 |
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| 雷電 | ||
| 所属: |
|
|
| 艦長: | ||
| 艦種: | スクーナー級砲艦 | |
| 材質: | 木製 | |
| 機関: | 蒸気内車 | |
| マスト: | 2 | |
| 備砲: | 4門
|
|
| 定員: | 52名 | |
| 全長: | 42.2m | |
| 全幅: | 6.4m | |
| 排水量: | 125t | |
| 出力: | 60馬力 | |
| 速力: | 7.7ノット | |
| 解説: | ||
| 1856年に英国ブラックウォールのグリーン造船所で建造された。原名エンペラー。英王室所有の遊覧船。1858年7月にビクトリア女王から将軍に寄贈された。小型でスマートな遊覧船ながら、快速で構造が頑丈だった。王室座乗船だけあって、内装は豪華であったらしい。 幕府に寄贈されたエンペラー号は「蟠龍」と名付けられ、幕末に最も活躍した蒸気船の一隻として名を馳せたが、函館戦争で座礁・焼失した。 戦後、英国商人が焼け残りを再建して「雷電」と名付けて再び明治政府に売りつけた。この時、大幅に改装され、現在のスペックとなった。明治政府は軍艦として使用したが、西南戦争時には老朽化しており、第三種艦に分類して伊予・土佐方面の警備を命じた。 明治二十一年一月末、除籍。六月末には高知県に移管され、平松与一郎なる人物に無償で払い下げられ、捕鯨船に改装された。その後、熱田汽船会社の所有となり、明治三十年大阪木津川の前川造船所にて解体された。 |
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| 日進 | ||
| 所属: | 東海鎮守府 | ![]() |
| 艦長: | 伊東祐亨少佐 (副長:野村貞大尉) |
|
| 艦種: | バーク級巡洋艦 | |
| 材質: | 木造 | |
| 機関: | 蒸気 | |
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 12門16p砲6門 |
|
| 定員: | 165名 | |
| 全長: | 61.9m | |
| 全幅: | 9.7m | |
| 排水量: | 1492t | |
| 出力: | 710馬力 | |
| 速力: | 9ノット | |
| 解説: | ||
| 慶応三(1867)年にオランダ・ドルドレヒトで竣工、明治二(1869)年完成。佐賀藩が同国の商社シー・ヒップス&サンズ社に注文し、明治三年五月長崎で受領、すぐに明治政府に献納した。 木造で構造自体は旧式ながら、新型かつ大型という事で重宝されたらしい。台湾征討や西南戦争では第一種艦として前線に投入され、熊本県河内・塩屋の薩摩軍を艦砲射撃して政府軍の上陸作戦を支援した。その他、海上封鎖作戦や輸送艦の護衛等に従事した。 明治十八年、第一線を退いて練習艦となり、明治二十五年には廃艦となった。なお、購入時の排水量は1350t、備砲10門、速力11ノット。時期は不明だが、備砲の近代化、排水量の増加等の改装が行われた物と思われる。 |
||
| 清輝 | ||
| 所属: | 東海鎮守府 | ![]() |
| 艦長: | 井上良馨中佐 | |
| 艦種: | 砲艦 | |
| 材質: | 木造 | |
| 機関: | ||
| マスト: | ||
| 備砲: | 10門 | |
| 定員: | ||
| 全長: | ||
| 全幅: | ||
| 排水量: | 897t | |
| 出力: | ||
| 速力: | ||
| 解説: | ||
| 明治政府初の日本製の木造軍艦。明治九(1876)年六月、横須賀造船所で建造された。それまでのフランス人技師ベルニーの指導を離れ、初めて日本人が設計から完成までをやり通した。建造費1万8697円。 此の船は西南戦争に於いては第一種艦に分類され、九州各地を転戦。薩摩軍艦船を撃破し、台風で孤立した陸上部隊への補給活動で活躍した。また明治十一(1978)年には一年三ヶ月に亘るヨーロッパ航海に出航、明治政府の技術力を世界に知らしめた。また、この時特に厳正な艦内規律と各部の清潔さを英紙「ヘラルド」に賞賛された。 |
||
| 摂津 | ||
| 所属: | ![]() |
|
| 艦長: | ||
| 艦種: | シップリック級砲艦 | |
| 材質: | ||
| 機関: | ||
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 8門
|
|
| 定員: | ||
| 全長: | 49.2m | |
| 全幅: | 9.6m | |
| 排水量: | 920t | |
| 出力: | 300馬力 | |
| 速力: | ||
| 解説: | ||
| アメリカ製、慶応4年6月維新政府が購入。既に老朽化しており、明治五年七月には機関を撤去して帆走練習艦となった。 明治十三年には航行が困難となり、係留練習艦となった。明治十九年除籍。 |
||
| 筑波 | ||
| 所属: | ![]() |
|
| 艦長: | 松村淳造大佐 (副長:尾形惟善大尉) |
|
| 艦種: | コルベット | |
| 材質: | 木製 | |
| 機関: | 蒸気 | |
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 16pクルップ砲9門 | |
| 定員: | ||
| 全長: | 58.7m | |
| 全幅: | 10.5m | |
| 排水量: | 1978t | |
| 出力: | 519馬力 | |
| 速力: | 8ノット | |
| 解説: | ||
| 1851年、イギリス領ビルマのモールメン建造される。英国植民地警備艦「マラッカ」として使用された後、明治4年7月1日日本政府に売却された。日本海軍はこれを海軍兵学校練習艦に充て、測量任務等を課した。 購入当時、既に老朽化が激しく2〜3年で廃艦とされると云われていたが、大型艦は魅力的であったらしく、西南戦争、日清戦争、挙げ句に日露戦争まで従軍した。 明治十一年当時には大型だが老朽が激しく、外洋での作戦行動は不可能。海防艦として沿岸警備に使用されているが、大型艦であるため有事には実戦参加もあり得る。 明治三十一年には三等海防艦に分類され、明治三十八年に除籍。 |
||
| 鳳翔 | ||
| 所属: | 東海鎮守府 | ![]() |
| 艦長: | 山崎景則少佐 (副長:佐藤鎮雄中尉) |
|
| 艦種: | 砲艦 | |
| 材質: | 木造 | |
| 機関: | 蒸気スクリュー1軸 | |
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 5門
|
|
| 定員: | 75 | |
| 全長: | 41.8m | |
| 全幅: | 7.4m | |
| 排水量: | 321t | |
| 出力: | 217馬力 | |
| 速力: | 7ノット | |
| 解説: | ||
| 1868年英国製。長州藩が維新後に長崎で受領、明治四(1871)年6月献納。 小型ながら新造艦だけに主力級の扱いを受け、台湾征伐、西南戦争。明治八(1875)年の江華島事件後には在韓の邦人を保護する為に二回釜山沖に派遣された。 西南戦争では第一種艦に分類され、春日・竜驤と共に熊本沖で薩摩軍艦迎陽丸を拿捕したり、日向延岡の東北24kmにある古江湾では、砲の仰角以上の高さにある断崖絶壁の急造陣地から砲撃してくる薩摩軍に対して、乗組員を全て艦の舷側に集め、船を傾けて無理矢理砲撃する等奇功を建てた。 日清戦争に際しては流石に常備艦隊には編入されず、港湾警備艦として使用された。戦後の明治三十一(1898)年には二等砲艦に編入、明治三十二(1899)年には除籍となった。 |
||
| 所属: | ![]() |
|
| 艦長: | 磯部包義少佐 | |
| 艦種: | 通報艦 | |
| 材質: | 木製 | |
| 機関: | 蒸気外輪 | |
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 14門
|
|
| 定員: | 134名(士官12名 下士官34名 水夫96名) | |
| 全長: | 73m | |
| 全幅: | 9m | |
| 排水量: | 1015t | |
| 出力: | 300馬力 | |
| 速力: | 16ノット | |
解説: |
||
1863年イギリスのカウス港で建造。英国海軍中国艦隊の通報艦キャンスー(「江蘇(省)」の英語読み)号として使用された後、慶応三(1867)年十一月三日に薩摩に売却。日本最初の直立船首を持つ。本来は通報艦だがその速力と大きさから砲を備え付けて、老朽ながらも快速の戦艦として戊辰戦争から西南戦争まで活躍した。 |
||
| 孟春 | ||
| 所属: | 東海鎮守府 | ![]() |
| 艦長: | 笠間広盾少佐 | |
| 艦種: | スクーナー級砲艦 | |
| 材質: | 鉄骨木皮 | |
| 機関: | 蒸気内車 | |
| マスト: | 3 | |
| 備砲: | 6門
|
|
| 定員: | ||
| 全長: | 40.5m | |
| 全幅: | 6.3m | |
| 排水量: | 357t | |
| 出力: | 191馬力 | |
| 速力: | 12ノット | |
| 解説: | ||
| 原名エウジニ-。1867年イギリス・ロンドンで建造され、翌年1月に佐賀藩が長崎に於て英商人より8万8千5百両で購入した新造軍艦。小型であるが、高性能である。同年2月には日本で始めての「艦隊任務」に付ついた。即ち2月3
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日に、大原重徳海軍先鋒総督がこの「孟春」と鹿児島藩の「豊端丸」、久留米藩の「雄飛丸」計3隻の連合艦隊を率いて、3藩の兵を大坂から横浜まで輸送する任務についたのがそれである。後に明治政府に献上。函館戦争に従軍し、その海上勢力の中核として活躍した。 多くの幕末に活躍した艦船が、明治政府に於てすぐに老朽の為に廃艦とされるのに対して、この船は明治初年になっても沿岸警備用の砲艦として活躍を続けた。萩の乱、西南戦争に従軍。西南戦争では戦闘艦艇である第一種艦に分類され、日奈久海岸上陸作戦に参加。沿岸で守備に就いていた薩摩軍一個小隊に艦砲射撃を加え、此を撃退した。 明治十一年には流石に老朽化していたが、それでも翌年には国内で測量航海を行った。更に、明治二十年に除籍された後にも逓信省に移管され、尚も使用されると云う息の長さを見せている。 なお「孟春」とは春の始め、即ち旧暦正月の事である。 |
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| 迅鯨 | ||
| 所属: | ![]() |
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| 艦長: | ||
| 艦種: | ||
| 材質: | 木骨木皮 | |
| 機関: | 蒸気外輪 | |
| マスト: | ||
| 備砲: | 4.7インチ砲2門 | |
| 定員: | ||
| 全長: | 76m | |
| 全幅: | 9.75m | |
| 排水量: | 1465t | |
| 出力: | 1450馬力 | |
| 速力: | 14ノット | |
| 解説: | ||
| 明治六(1873)年横須賀工廠にて起工。設計はフランス海軍造船技師ヴェルニー。日本で最後の木造艦・外輪船。 天皇お召し艦として建造されたため、竣工後も内装に念を入れ、実に8年の歳月を費やして完成された(一説に依ると、高出力の機関が安定せず、その調整に時間が掛かったとも)。 明治十四(1881)年竣工、すぐに朝鮮で起きた京城事件に出動したが、既に世界の潮流は外輪からスクリューに完全に移っており、明治十九(1886)年には不調の多かった機関を取り外し、水雷術練習艦に転用されている。 明治二十六(1893)年除籍。 |
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| 浅間 | ||
| 所属: | ||
| 艦長: | 笠間惟勝少佐 (副長:吉島辰寧大尉) |
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| 艦種: | コルベット | |
| 材質: | 鉄骨木皮 | |
| 機関: | 蒸気一軸内車 | |
| マスト: | ||
| 備砲: | 12門
17p後装砲8門 |
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| 定員: | ||
| 全長: | 69.72m | |
| 全幅: | 8.76m | |
| 排水量: | 1422t | |
| 出力: | 300馬力 | |
| 速力: | 11ノット | |
| 解説: | ||
| 明治七(1874)年に北海道開拓使が「北海丸」としてフランスに発注したが、国内情勢の悪化に鑑みて海軍がこれを譲渡され、「浅間」と改名して使用した。 西南戦争が勃発すると、「日進」とコンビを組んで臼杵湾に侵入。臼杵城から攻撃してくる薩軍を砲撃して沈黙させ、更に上陸部隊を派遣する等三面六臂の活躍を示した。 西南戦争後は国内情勢の安定化に伴い機関を撤去して帆船とされ、砲術練習艦となり、更に明治二十九(1896)年には売却された。 |
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〜輸送船一覧〜
大阪丸 イギリス製、明治2年8月購入。440t、鉄製。 春風丸 1871年建造、明治4年イギリスから購入。885t。当初、練習艦として使用されたが、明治十一年当時には輸送艦に編入された。 快風丸 アメリカ・ニューヨーク市建造。155t、木造帆船。文久二(1862)年松山藩が購入し、維新直後に献納。 社寮丸 アメリカ商船シャフツベリー。台湾征伐に際して急遽購入。大砲数門を装備していたらしい。 高砂丸 イギリス商船デルタ。台湾征伐に際して急遽購入。大砲数門を装備していたらしい。