北白川宮能久親王 (1847〜1895)
 弘化四年二月、伏見宮邦家親王の第九子として京都に生まれる(ちなみに、仁和寺宮は実兄に当たる)。江戸時代後期に仁孝天皇の養子に入り、親王宣下を受けて東叡寺王寺門跡を継承。名も輪王寺宮公現法親王と改めた。非常に武張った性格で、武家にも評判が高かった。
 配下の怪僧・義観の影響を受けて佐幕的思想を持ち、鳥羽伏見の戦いに負けて謹慎していた徳川慶喜の赦免を求めて駿府まで出張し、官軍に嘆願した。しかし、この嘆願と同時に甲州で勝沼の戦いが勃発した為、輪王宮の嘆願は謀略と疑われて手酷い扱いを受けた。その為、上野に帰ってからは彰義隊に協力して官軍と敵対した。上野戦争が彰義隊の敗北に終わると、輪王宮は榊原鍵吉に背負われて上野を脱出。仙台藩支藩の白石城に逃れ、奥羽越列藩同盟の盟主「東武皇帝」に推されて官軍と戦った。その際には勤行と並んで剣術の修練も怠らず、多くの東国武士に慕われたと云う。
 戊辰戦争後、親王停止・謹慎処分を受ける。
 明治二年に赦免され、軍事視察のためドイツに留学。留学中、実弟の泰家が起こした北白川宮家を相続。
 明治十年、西南戦争の最中に帰国して、陸軍中佐・近衛局勤務に任ぜられた。
 以後、戸山学校教頭、東京鎮台司令官、第六師団長等を歴任。日清戦争当時には近衛師団長に就任していたが、近衛師団自体が本戦には間に合わなかった為、戦闘には参加していない。しかし、この近衛師団にも戦功を立てさせてやろうという陸軍の温情主義によって、台湾への出動が命ぜられた。当時台湾は、下関条約で日本に割譲が認められながらも、名将・劉永福率いる清の非公然部隊5万が展開し、抗日運動を扇動していた。かつて最強フランス軍すら翻弄した劉将軍のゲリラ戦術に、さしもの近衛師団も手を焼き、遂に北白川宮は戦地でチフスを病んでしまう。軍医は当然ながら帰国を進めたが、決戦を前に引くわけには行かないと拒絶、遂に戦地で病没した。前線に於ける皇族軍人の死は人々の心に深く残り、また兵士は奮い立って劉将軍を台南城に追いつめたので、遂に劉将軍は城兵2万を見捨てて逃亡した。此処にいたって清軍は投降し、台湾は日本の植民地となった。北白川宮を祀った台湾神社は、敗戦まで多くの参拝客を集めた。