大久保 春野 (1846〜1915)
 弘化三(1846)年八月十八日、遠江国磐田郡見付の神社・淡海国玉神社の神主大久保初太郎忠尚の子として生まれる。
 淡海国玉神社は遠州の総社で尊王の志篤く、戊辰戦争時に親子で勤王派諸隊「遠州報国隊」に参加した。遠州報国隊の参加者は160名、神職を中心とした知識人が多く、日頃から歌会等を開いて親睦を深めていたと云い、大久保忠尚もまた私財を投じて図書館「磐田文庫」を創設する好学の士であった。
 遠州報国隊は結成されるや掛川城に押し掛け、佐幕派を圧倒。特に忠尚は勤王派の太田資逢の元に詰め寄って、「官軍に開城しなければ、佐幕派を斬る」と迫った。これにより、佐幕派は幕府への義理を果すべく偽りの戦闘を行い、軽く一戦した後開城する事に一決、遠州は官軍に下った。
 遠州平定後、遠州報国隊は尾張赤心隊と合同して官軍に参加し、160名中80名を遠征部隊として江戸に派遣した。江戸では彰義隊戦争で大いに奮戦し、戦後有栖川宮の京都帰還に供奉して浜名湖まで向かい、有栖川宮を見送って現地で解散した。
 しかし、帰郷して見ると駿河・遠江二国は徳川氏の領地となっており、明治維新に貢献した旧報国隊の面々は却って不忠不義の輩として迫害され、遂には暗殺される者まで出てしまう。止むを得ず、旧報国隊は彰義隊戦争中の上司であった大村益次郎に保護を訴えた。大村は東京招魂社の神職として彼らを採用し、特に大久保忠尚はその初代宮司となった。春野は横浜語学所で事務の職を得たが、程なく此れを擲って大坂兵学寮に入校。明治三年、陸軍軍人から10名が選抜されてフランスで兵学を学ぶ事になり、大久保もこの中に選ばれ、軍事刑法学を学ぶ為留学した。
 帰国後、陸軍省に出仕。明治十年、西南戦争の真っ最中に陸軍少佐に抜擢され、陸軍省第二局二課長として勤務した。
 その後、第十二連隊長、戸山学校校長、士官学校校長等を歴任。戸山学校では授業に剣術を取り入れる等改革に務めた。
 日清戦争が勃発時には第七旅団長・少将であったが、特に占領地守備部隊に任命された為前線での功績は無かった。しかし、下関条約締結後に北白川宮の台湾接収に従軍し、その功績で陸軍中将に昇進した。
 日露戦争では、第二軍所属第六師団長として従軍した。第六師団は熊本に本拠地を置く精鋭部隊で、首山堡の戦闘で3700名の死傷者を出す等力戦奮闘したが、同時に健康衛生に留意して病気入院者を常時100名以内に抑え、大山巌満州軍司令官より賞賛を受けた(これは、日清戦争時に第六師団が大量の病死者を出した反省に基いたものである)。
 戦後、二十八人目の陸軍大将・男爵に昇進。薩長人以外では初めての陸軍大将であった。
 大正四(1915)年一月二十六日死去。享年69歳。