攘夷十七人組
明治維新後、徳川宗家の領地となった駿河・遠江の二カ国には無禄の幕臣達が次々に移住した。
彼らは荒地であった牧ノ原台地を開拓し、今日の静岡県の名産品である茶業の基礎を築いたが、必ずしも全ての幕臣が帰農した訳ではなかった。中でも、江戸城明け渡しに反対して徹底抗戦を唱えた中条金之介影昭・関口隆吉・大草高重・松岡万ら「攘夷十七人組」は強硬で、明治元年十二月、駿河の神官らが結集して作られた尊王派部隊「赤心隊」の留守部隊長であった三穂神社神主太田健太郎を斬殺。更に草薙神社神主森元温の片腕を切り落とし、遠州報国隊の首脳大久保初太郎(大久保春野の父)の自宅にも襲撃を行い、関係者を震え上がらせた。幕臣の怒りであった……と「コンパクト版 幕末維新三百藩総覧」(1995年新人物往来社刊。著:神谷次郎・祖田浩一)は些か得意げに述べるのだが、解散した部隊(両隊共に同年十一月下旬に解散)の元メンバーを襲撃して暗殺すると云うのは、武士として如何なものか。文句が有るなら、未だ健在の五稜郭にでも行って存分に力を振るえば良いのに。どうも、幕府が滅んだのはこう云う「大事な時には行動せず、任務について責任を負わず、全部終った後からぐちぐちねちねちと揚足を取る」親戚のおっちゃんみたいなDQNさにあるような気がしてならない。「薩長が汚いから負けた」だぁ〜? はぁー!? おめーらも十分汚ねーだろー!! 明治維新が終わってから神主さんを斬るぐらいなら、定員割れしてる見廻組に参加してやれよw 全くもー公務員ってヤツは(愚痴愚痴
閑話休題。攘夷十七人組は後に荒地であった金谷に移住し、金谷原開墾御用を命ぜられた。静岡藩成立後は静岡藩開墾方と称し、茶業で成功。隊長の中条金之介影昭は勝海舟や山岡鉄舟らと交流し、実りある余生を過ごした。