新徴組の沿革
@「浪士組」として上京
文久三(1863)年、奥州白河浪士清河八郎の建白によって結成された。しかし、浪士組を率いて上京した清河は、幕府の意向に反して浪士組を攘夷の尖兵として朝廷に付託しようとした。この事態に幕府は慌てて浪士組を江戸に呼び戻したが、一部の浪士は江戸への帰還を拒絶。彼らは後に壬生浪士組となり、新選組の母体となる。
A江戸での新徴組
浪士組の内、新選組に加わらずに清河八郎と共に江戸に戻った者達は、江戸で尊王攘夷活動を行おうとした。しかし、幕府は先手を打って先ず贋浪士組を放って市中で略奪を行わせたが、此はすぐに清河に見抜かれてしまった。清河は隊士に外出を禁じて偽物を炙り出し、浪士組で捕まえると町奉行所には引き渡さず、河原に晒し首にしてしまった。勿論、高札には幕府の策謀が記され、幕府の面目は大いに損なわれた。
事態を重く見た幕府は佐々木只三郎に命じ、文久三年四月十三日、清河を暗殺した。こうして浪士組の動きを封じた幕府は、文久三年四月十五日、正式に新徴組と命名し、市中警備を命じた。当初新徴組は若年寄支配であったが、幕府自体が内部に山岡鉄太郎、高橋泥舟等の清河シンパを抱え、為に却って活動が尊王・佐幕のどっちつかずに成ってしまった。新徴組は活動の方向性を見失い──ぶっちゃけて云うと、暇なので──通行人に乱暴を働いたり、商家に押し入ったりと不行跡が続き、評判も悪くなってしまった。
こうした事態に鑑み、元治元(1864)年五月、新徴組は江戸市中警備を受け持つ庄内藩酒井家に預けられ、これまで五藩で分担していた府中警備は元治元年以降庄内藩に一任された。これは京都新選組の活躍に倣っての配置換えと思われるが、幕臣から庄内藩預かりへの降格は隊士に衝撃を与え、脱退する者・水戸天狗党に参加する者などが相次ぎ、人数は200名に減少した。
しかしながら大任を受けた庄内藩は江戸の地理に精通した新徴組を大いに活用し、新徴組も発奮してこの付託に応えた。庄内藩は二十五人一組で市中をパトロールし、違法の者は例え旗本であろうとも容赦なく討ち果たした。
これにより江戸の治安は回復し、
「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」
「鶴が岡/松を堅固に/守るなり」(鶴ヶ岡とは庄内藩の本城所在地。松とは松平)
「カタバミはウワバミより怖い」(カタバミとは植物の片喰で、酒井氏の家紋)
とまで謳われるようになった。
また、慶応二年以降は洋式兵法の調練も行われた。
B「薩摩藩邸焼き打ち事件」
慶応三(1867)年十二月に生じた薩摩藩邸焼き打ち事件にも参戦。新徴組は薩摩藩の支藩・佐土原藩藩邸を攻撃し、薩摩藩士と激しい戦闘を繰り広げた。
C戊辰戦争における新徴組
大政奉還後、新徴組は一旦解散したが、隊士は家族と共に奥州の領地に帰る庄内藩に付随して奥州に入った。庄内藩に入った新徴組隊士は鶴岡より8km離れた湯田川の旅館民家37軒に分宿、その中の隼人旅館を本部として部隊を編成した。
再編なった新徴組は、慶応四年七月二十日付で編成された庄内藩兵第四大隊に付属、矢島藩占領、椿台の戦い等に従軍した。
戊辰戦争後は正式に庄内藩士となり、明治三(1870)年には鶴岡・大宝寺・道形に137戸の屋敷、通称「新徴屋敷」を与えられた。これだけ見ると、新徴組は大いに厚遇されたようにも見えるが、実際には庄内藩は戊辰戦争の処分で十七万石から十二万石に減封された為、藩を挙げての開墾事業に取り組んでおり、隊士達は否応無くこの庄内藩の開墾事業に従事する事になった。しかし、関東出身の浪士が多い新徴組には東北の開拓は厳しく、脱走者が相次いだ。これらの脱走者に対して庄内藩は切腹・討伐等の厳しい処置を以って臨み、十年後の再調査では新徴組出身者は11名のみに減少していたと云う。