新徴組人名録
池田 徳太郎(いけだ とくたろう)
広島藩出身の医師で、安政年間から江戸で私塾を開いて尊王攘夷思想を説いていた古株の志士。
清河と交友を結び、彼が浪士組を結成すると石坂と共に隊士募集に奔走した。
上京後、清河が「浪士組を朝廷に附属させ、攘夷の尖兵とする」と宣言した際には、反対を表明。浪士組から離脱し、新選組にも加わらず、広島に帰還した。
広島では元治元(1864)年八月に藩に登用され、農兵部隊の組織を提言。海外からの危機が迫る中、本当に必要なのは政治的活動や強引な攘夷ではなく、人口の多数を占める農民を組織して軍備を整える事で有るという慧眼を示し、清河とは違った道を示した。そうした英明さは新徴組残留の隊士からも慕われており、再三に亘って池田に対して復帰・隊長就任が求められたが、池田は老母の面倒を見なければならないので、と謝絶している。
戊辰戦争に際しては、自ら鍛えた神機隊を率いて従軍。
維新後は、各県権令を歴任。最後は青森県権令となり、明治七年九月十二日在職中に死亡した。
石坂周蔵(いしざか しゅうぞう)
天保三(1832)年正月元旦、江戸で幕府奥医師石坂宗哲の次男として生まれる。
幕末に至って清河塾に入り、清河ら尊王派の志士と交友を結び、幕臣山岡鉄舟の妹を娶って義弟となった。
清河が浪士組に入るとこれに従って入隊した。
清河が佐々木只三郎に暗殺されると、現場に駆け付けて警備の町方役人に向かって「清河は我が親の仇、ここで殺されてしまったのは仕方無いが、せめて首だけでも下げ渡されたい」と大見得を切り、まんまと清河の首級と連盟状を奪ってこれを弔った。しかし司直の手は逃れられず、清河シンパとして諸藩預かりの身となった。
維新後は国産石油の発掘に尽力し、28年の歳月を掛けて新潟に油田を開いたが、鉱区の独占を嫌って他社にも開放した。その生涯は報われるところが少なかったが、彼の事跡は国内石油産業の基盤となった。
井上政之丞(いのうえ まさのすけ)
元大工の棟梁。身延山大修復を手掛けた事で有名。
「甲州筋目」として裕天仙之助と共に入隊した。裕天死後も新徴組に残留した。
沖田林太郎(おきた りんたろう)
元は庄内藩士井上林太郎と云う。新選組の沖田総司の姉ミツと結婚して、沖田家を相続した。
義弟の沖田らと共に浪士組に参加するが、新選組には参加せずに江戸に帰還。回顧録では「弟は見込みがあったが私は近藤さんに見放されたらしく、一緒に残りたいといっても許してくれなかった」と語っている。その後新徴組六番隊組に配属され、六番組組頭に任命された。新徴組では屯所に妻ミツと同居していた。
戊辰戦争が始まると、家族共々庄内に赴くが、戦後は東京に戻った。
清河八郎(きよかわ はちろう)
諱は正明。古株の尊王派志士で、新選組・新徴組の産みの親。性格は傲慢で横柄だが、目上の者には礼節と巧言で迫り、必ず目的を達成する才気煥発の士。愛刀は備前の名刀三原正家。刀身に「がんまく」の文字が有る事から、「四字がんまく」と呼ばれている。
天保元(1830)年十月十日、出羽国田川郡清川村の名主兼郷士の斎藤治兵衛豪寿の三男として生まれる。
当初は斎藤元司と名乗り、清川関所役人の畑田安右衛門が経営する清水塾で学んでいたが、当時丁度奥州を遊説していた尊王派志士の草分け的存在である藤本鉄石に面会し、一念発起して名を「清川より大きいもの」として清河八郎に改め、江戸に留学した。
江戸では北辰一刀流玄武館道場に入門。当時玄武館では東条一堂の漢学塾「瑶地塾(ようちじゅく)」との同時入門を進めていたのでこれに乗り、北辰一刀流免許皆伝・瑶地塾塾頭(こちらは固辞したが)として文武両道を極めた。
その後、一旦帰国したがすぐに江戸に戻り、三河町に文武塾を開設した。この塾の特色は清河が文武を纏めて教える事に有り、こうした塾は江戸にも清河塾のみであったらしい。塾の経営が安定すると、母と共に中部・近畿・中国・九州を巡る大旅行を行った。この旅行はなかなか豪勢であったらしい。
幕末に至って、桜田門の変が起きると大いにこれに影響を受け、清川塾には尊王派志士が集結。彼らは清河を筆頭に「虎尾の会」を結成し、攘夷強行を謀ったが、酔った清河が絡んで来た町人(司馬遼太郎は幕府の密偵にしてますね)を手打ちにしてしまった為に計画は頓挫してしまう。進退極まった清河は、大川に身を投げたように擬装して京都に逃れた。しかし、着物・履物・遺書等全て揃えたにも関わらず愛刀四字がんまくだけは捨てられなかったので、すぐに擬装自殺と見抜かれ、再び追われる身となった。
京都では「桜田門の事件で水戸に出し抜かれた。次は薩摩の番だ」と息巻く薩摩藩尊王派と手を組み、薩摩藩公島津久光の率兵上京を利用してのクーデターを画策するが、久光が放った鎮撫士奈良原喜八郎によって尊王派は鎮圧され、八郎は西国でも影響力を失ってしまった。
進退極まった八郎は江戸に戻り、今度は幕府政治総裁松平春嶽に近付き、天下に大赦を発令して有為の士を集め、一隊を作ろうと提言する。これにより浪士隊が設立されるのだが、その経緯は世に知られた通りであり、遂に幕府の暗殺命令を誘発する事になった。
江戸でも浪士隊を動員して横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画を立てていたのだが、その決行の二日前にあたる文久三(1863)年四月十五日、友人の上山藩の儒学者金子与三郎に招かれた。当時清川が寄宿していた高橋泥舟の妻は、清河が風邪をひいていた事から外出を止めるように進言するが、清川はこれを謝絶して金子の家に行き、夕食を取った。その帰途、麻布一ノ橋で幕臣佐々木只三郎により暗殺された。
玉城織衛(たまき おりえ)
豊後浪士で、江戸時代後期に剣豪島田虎之助を慕って上京。男谷道場に入門し、直心影流を修めた。
浪士組が結成されると、五番組に配属。同じく玄武館出身の森土鉞四郎(もりと かんしろう)の組に属して上京した。浪士組が新徴組に改められた後は剣術教授方を務め、新徴組きっての剣豪と謳われた。
戊辰戦争に際しては、庄内藩軍に参加して従軍。戦後、新徴組隊士は開墾事業に使役されたが、その取り扱いは悲惨を極めたので、玉城は明治五年七月に新徴組隊士の脱走を指揮。その人数は実に80名を数え、最大の脱出劇であった。
中沢琴(なかざわ こと)
六番隊士中沢良之助の三歳下の妹。身長170cm、容姿端麗。その容姿から、男性にも女性にも(!)モテて困ったと言う。幼少より父孫右衛門より武術を学び、特に薙刀に関しては父親を凌ぐ腕前を持っていた。
兄が浪士組に参加すると、彼女も男装して共に参加。そのまま新徴組に参加し、市中見回りに従事した。
薩摩藩邸焼き討ち事件に際しても出動したが、足を切られて負傷した。戊辰戦争が勃発すると庄内藩に従って官軍と交戦。或る時官軍数十名に囲まれたが、たちどころに数名を斬って逃れたと云う。
維新後は兄と共に上州に帰郷。求婚して来る男性を片っ端から打ち据えて「自分より強い男性にしか嫁がない」と豪語しており、遂に終生独身を保った。
昭和二年死去。
根岸友山(ねぎし ゆうざん)
文化六(1809)年、武蔵国大里郡甲山村の名主根岸伴七信保の子として生まれる。根岸家は非常に富裕で、友山も学問は折衷学派山本北山に、剣術は北辰一刀流千葉周作に学んだ。
十六歳の時、伴七の名前と名主の地位を引き継ぎ、財力を活かして諸方の志士を支援した。特に幕府方の捕吏に追われた志士が逃げて来るとこれを我が家に匿って時節が来るまで扶養し、その人数は常に十数人を数えたと言われている。また屋敷内に私塾「三余堂」と道場「振武所」を設営し、郷党の若者を教育した。
友山は志士活動の一方、地元である荒川流域の治水にも尽くした。しかし天保十二(1841)年、治水工事に携わった役人の不正に抗議して蓑負騒動と云う一揆に荷担し、二十年の江戸十里四方所払いの刑に処されてしまう。江戸から離れた甲山村に住む友山にしてみれば江戸十里四方所払いは殆ど御咎め無しと云って良い軽い刑罰であったが、元来活動的な根岸にとっては死命を制されたも同然で、以後二十年間全く世に出る事は無かった。
そして丁度二十年後の文久二(1862)年十二月、かつての友人清河八郎から派遣された使者・池田徳太郎より浪士組募集の報を受けると、これまでの鬱憤を晴らすかの如く門弟多数を引き連れて入隊。その名声と門弟の数から、一番小頭に任命された。
しかし文久三年三月、京都に着くや浪士組は少数の残留者を残して江戸に帰還。根岸も当初は残留組と京都に残ったが、残留組が会津藩に接近するのを見て彼らと訣別。三月末には「伊勢神宮参詣」を名目に京都を離れた。五月、江戸で新徴組に参加。新徴組が庄内藩の指揮下に組み入れられた際には取締役に任命されたが、すぐに辞職して郷里に隠棲した。但し幕府を憎む事甚だしく、鳥羽・伏見の戦いで幕軍が負けると祝杯を上げたと云う。また、明治元(1868)年には尊王倒幕を擁護した「吐血論」を著述。新選組を「勅定を貰ったからには我々は既に朝廷の直属の兵の筈なのに、幕府に仕えるとは何事」と批判している。
明治二十三年十二月三日死去、享年八十三歳。
早川 太郎(はやかわ たろう)
早川文太郎とも。甲斐国暮地村の豪農出身。玄武館で北辰一刀流を学んだ。
浪士組に参加し、一番隊山田官司組に所属。江戸に帰還の後は、新徴組に継続参加した。
慶応四(1868)年二月、庄内藩に従って奥州に向かう新徴組と袂を分かち、仙台浪士村上秀輔・関場権吉(村上の実弟)・水戸浪士村上文司ら尊王攘夷派志士と語らい、甲斐・信濃・武蔵・上下総の有志を語らいながら尾張藩軍に投じた。そして、尾張藩附属の有志隊「帰順正気隊」を結成した。この部隊は帰順した幕府軍兵士で構成された部隊で、戊辰戦争で勇名を馳せた。
維新後、暮地義信と改名した。
松平 権十郎(まつだいら ごんじゅうろう)
諱は親懐(ちかひろ)。
庄内藩中老松平権右衛門親敏の子。江戸末期には組頭として蝦夷地警備に赴く等庄内藩の「武」を代表し、幕末には中老を務めた。文久三年、新徴組御用掛に任ぜられ、江戸で新徴組の指揮を執った。新徴組では徹底した粛清を行い、清河を慕う者で首謀者格の者は捕らえて評定所に送って諸藩預かりとし、また新規に浪人を雇って練度を高めたので、幕府からの信頼は厚く、時に幕閣より機密情報を漏らされたり、逆に意見を徴される事も有った。
幕府から機密情報を貰った例としては、慶応二年十月の尊王派粛清が挙げられる。佐幕派筆頭の権十郎が江戸に居る間、庄内藩国許では主君が幼い事から意見が固まらず、尊王派が主導権を握るようになっていた。彼らは幕府に庄内藩を江戸治安維持任務から解任するよう訴え出たが、時の老中稲葉正邦は却ってこれを権十郎に漏らし、権十郎はすぐに帰国して「丁卯の大獄」と呼ばれる大粛清を行い、尊王派を一掃した。権十郎の果断さが目立つ処置であり、以後、庄内藩は一枚岩となって戊辰戦争でも佐幕派として勇戦する事になる。
また意見を徴集された好例が、薩摩藩邸焼き討ち事件である。江戸で尊王派浪士が騒擾を起こした際には「薩摩藩邸を焼き打ちしなければ江戸の治安は守れない」と発言して決断を迫り、薩摩藩邸焼き討ちを引き起こす一因となった。
こうした積極的な態度は江戸市民から非常に好感を持たれ、「江戸の団十郎、庄内の権十郎」と謳われて、錦絵まで売り出されるほどであったらしい。
戊辰戦争が始まると、江戸の庄内藩士及び新徴組を引率して帰藩。軍事掛として全軍を指揮した。
廃藩置県後も酒田県参事として地方行政に力を振るったが、地租改正後、租税を金銭で納めると云う政府の命令を農民に伝えず米で納めさせ、それを売却して政府に租税を納め、差額を開拓に転用した為罷免された。以後、民間人として開拓業に力を注いだ。1919年死去。
村上俊五郎(むらかみ しゅんごろう)
文久三年四月十五日、本所三笠町新徴組屋敷にて庄内藩兵に捕縛され、評定所で吟味を受けた。その結果は諸藩預かり。
山田官司(やまだ かんじ)
身の丈六尺二寸を誇る、五十過ぎの老豪傑。
元は安房国亀ヶ原村の農民の次男であったが、幼い頃から剣術の真似事を好み、やがて江戸に出て千葉周作に入門。指南免許を取得し、房総の豪農に北辰一刀流を流布した。
この頃、弟弟子の塚田五右衛門が記した『北辰一刀流剣術全書』の校正を務めたり、『千葉成政先生夜話聞書』を著作したり、更には書画や絵画も嗜んでおり、なかなか幅広い教養の持主であったものと思われる。
浪士組が結成されると、一番隊小頭として参加。浪士組が新徴組に再編されると、取締付・剣術教授方を務めた。その働きはなかなかのものであったらしく、慶応元年には肝煎取締役に昇進し、庄内藩から百石の扶持を得た。但し老年ゆえに指導力が低下しており、代稽古の片山喜間多、柏尾馬之助が実際の指導に当たって居る。尤もこの二人は腕は確かだがそれ以外の点で問題が多く、片山は性格が偏狭で、柏尾は病を得てしばしば吐血する程であったと云い、山田は彼らに代わる後継者を求めているとも云われている。
戊辰戦争に際しては、庄内藩軍に参加して従軍。越後国関川で官軍と戦い、胸に銃弾を受けて戦死した。
山口三郎(やまぐち さぶろう)
三十過ぎの武士。
背は低く目ばかりをぎょろぎょろさせた小太りの男で、女性は一目見ただけで二度と近付かない程であったらしい。但し指揮官としての力量は確かなものがあり、結成直後の京都への道中では道中目付を、清川粛清以降は一番隊・二番隊肝煎取締を兼任して庄内藩から特に百石の知行を得て居た。
後に一番隊肝煎は分部宗右衛門となる。
戊辰戦争が勃発すると、組士の家族85名を率いて庄内に脱出した。
祐天仙之助(ゆうてん せんのすけ)
生まれは駿府とも甲州とも云う。幼い頃、甲府元紺屋町の行蔵院と言う小さな寺に預けられ、裕天と名付けられた。
20歳頃、ぐれて博徒に身を窶し、三井の卯吉の代貸しと岡っ引きを兼ね、大変な羽振りであったという。弘化三(1846)年、竹居の吃安の用心棒であった桑原来助と云う浪人を殺した。浪士隊が募集されると、仙之助は姓を山本と改め、所謂「甲州筋目」の子分二十名に用心棒内田佐太郎を引き連れて参加した。此の浪士隊の任用システムは随分好い加減なものであったらしく、部下を引き連れてきた仙之助はそのまま五番隊の伍長となった。
その後、仙之助は新徴組にスライド式に加盟した。其処で、かつて殺した桑原の息子木村達尾と云う者が同じく新徴組に入っていたのに出会う。ふとしたことから仙之助の素性を知った木村は、文久三年十月五日早朝、助太刀を務める友人の藤林鬼一郎と共に、遊郭帰りの仙之助を待ち伏せて仇を討った。
しかし、此に不服を覚えた用心棒内田佐太郎が新徴組幹部に異議を申し立て、内田と木村・藤林の間で果たし合いが行われた。此の結果、木村と藤林は内田に討たれてしまったという。